いつか君に、この手が届く

鹿頭和英(ししずかずひで)

いつか君に、この手が届く



僕が最後に星空を眺めたのは、いつだっただろうか。




万物を呑まんとする闇夜の、天上を遍く輝点の煌々さを謳う。


それに抗することなく向かうフォーカスは存外、いとも簡単に魅せられたものだった。


公転する地球。


相対して不動の星々。


果たして風の如く過ぎ去る時は永く、人間があれだけ惜しんでいたものが大層ちっぽけであったことに気づかされる。


比べれば世の中はこんなにも醜く、だけれど見上げればいつだってそこにあるは最上の美。


漫然と踏み入れた星の世界。


図らずも美しいその思い出は、今でも確かに、僕の中で輝き続けていることだろう。


いや、それ以前、本当はもっと昔から僕はその美しさに気づいていたのかもしれない。



……だけれどあの日から。



そんな素敵な体験を、僕はいつしか忘れてしまったようだ。


見上げればいつもそこに。


高校という青春の舞台を降りたあの夏の日から、僕は夜空を見上げることが叶わない。






「……どう?」


「ほぉ~」



僕が頃合いを見て訊いたその言葉に、幼馴染の千智は感嘆の声を漏らすことでこれに応えた。


八月の終わり。


予報では曇るはずの空は、まるでそれらしい顔を見せていなかった。



「ちゃんと見えてる?」


「うん、今日は特にばっちしだね」



そういって、彼女は満足そうに微笑む。


その屈託のなさは、その日の夜空もかくやというほどで。


ふいと、口の端が緩みそうになった僕は、慌ててその天体望遠鏡から手を離した。


訝る千智をよそに、今度はその手を腰において、夏の夜空を見上げてみる。



「……やっぱり、今日も月がきれいだね」


「え~、しゅうちゃんにも見えてんの? 望遠鏡一つしかないのに? てかなにそれ、告白?」



星見筒を一生懸命に覗く千智は、おどけたようにそう言った。


僕はいつも通り、小さく嘆息を漏らす。



「月は肉眼のほうがきれいに見えるんだよ」


「へ~」



さもどうでもいいという風に、千智は僕をあしらった。






高校入学からはや2年。


巡るめく季節というのはあっという間に過ぎ去るもので、この名ばかりの天文部もその年で最後となってしまった。


今思えば幸せだったと感じる日々はまるで泡沫。


我儘言って彗星を見に来たこと、オーロラを見に北の方へ遠出をしたこと、雨の中で逆に彼女の我儘に付き合わされたこともあった。


様々な思い出は、今でも波濤の如く込み上げてくるものがある。


千智に付き添うようにして入部したあの日から、一体いくつあの筒を覗いてきたことだろうか。


それはこの星たちのように、枚挙にいとまがないことだろう。



「あっ! しゅうちゃん、あったよスピカ!」



そしてその日は天文部最後の日でもあった。


部員2名のささやかな活動。


通過儀礼もなければ最終試験もない。


それではあまりにもむなしいので、僕は千智にいくつか星を探してもらうことにした。



おとめ座のスピカ。



そして千智はすでに地平線近くの星を捉えていたようだった。


僕は折りたたみ椅子から腰を持ち上げ、その筒を覗く。



「ポリマ、ザヴィザヴァ、ヴィンデミアトリックス。うん、あれはスピカで間違いないと思うよ」


「ぽ、ざ、ゔぃ? なんて言ってるのかさっぱり何ですけどー」


「ははっ、相変わらず星の名前にはからっきしだね、千智は」


「やっぱ、しゅうちゃんって物知りだね。でもうちだって、場所くらいは大体覚えてるもん」


「ああ、そうだったね」



早くどいてと急かすように、千智は覗く僕の背中を何度も叩く。



「はいはい、じゃあ次は何にしようか」



夜九時を過ぎたあたりの学校は、満天の星空も相まって、まさに静寂閑雅という言葉が最適であった。


天上天下、視界の180度が星に埋め尽くされている。


それはまるで、半身だけが宇宙空間に漂うかのような錯覚だった。



「……ねぇ、千智」


「うん?」



そう問うとしばらくして、やはり千智は瞳を空へと向けたまま応える。



「一番好きな星って、何かな?」


「んー、そうだねぇ……」



千智は逡巡した後、およそ2年ぶりにその答えを導き出す。



「-1.4等級のシリウスかな。一番明るいし」


「……ははっ、一番か。千智は相変わらずだね」


「なによぉ……」


「いや、小学校の時もさ、そんなこと言ってたなぁって」


「なに、うちが子供だって言いたいの?」



むくれる千智を尻目に、僕はあの頃を回想する。


小学三年の頃の夏、僕は一度、千智の祖母に家にお呼ばれされたことがあった。

そこは結構自然に囲まれた場所で、高校に上がった今もたまにその景色を思い出す。


綺麗な海岸。


砂上の星。


優しく照らす、茜。



「……うん、覚えてるよ。海辺で石拾いしたよね」



そうして二人して恵子さんの手を引いて海辺に出て一頻り遊び、そうして帰り際になって、彼女は唐突にも転がり始めたものだ。


まるで駄々をこねる嬰児のように、砂を散らして。



「落ちていた小さなガラス石。あれを見て唐突に宝石が欲しくなったんだよね」


「……むぅ~、やっぱり私が子供だって言いたいんでしょ」


「ははっ。でもその後でさ、見かねた僕がおもちゃの宝石を買ってあげたの、覚えてる?」


「うん!初めてしゅうちゃんから貰ったプレゼントだもん、忘れるわけないじゃん」


「あの時僕がどれだけお小遣い稼ぎを頑張ったことか……」


「本当に嬉しかったんだー。あの宝石は今でも大切に持ってるんだよ?」


「……うん」



僕はノスタルジーと共に浮かんできた不快感に思わず眉をひそめた。

空を吹きすさぶ風が、どこからか黒い雲を運んできたのは、たぶんその時からだったと思う。



「子供と言ったらさ、しゅうちゃんだってまだまだ子供じゃない?」


「どうして?」


「だってまだ宇宙飛行士、本気で目指してるんでしょ」


「ギクッ……!」


「はっはっはー、私をなんだと思ってるのさ。十数年一緒にいる幼なじみだよ?」



そう。


僕は千智と星を見るうちに、いつの間にか、宇宙飛行士になりたいと思っていたんだ。


星を追いかける彼女について行く中で、でもその軌跡は夢のようで。


その頃はまるで、漠然とした想いだったけれど。



「でも、やっぱり千智は変わらないな……ほらこの天文部だって、中学の頃に合宿所で見たあの星空、あれをもう一度見たくて選んだんだよね」


「あー、確かにそうだったね。そういえばその時もしゅうちゃん、私に一番好きな星を訊いてきたよね」


「あはは、あの時は面白かったなぁ。千智にいくら訊いても『あれだよ!』ってずっと広い空を指してただけでさ、もう何がそうなのかわからなかったよ」


「あの時は見えた星を手当たり次第に指してただけだし」


「うん、そうだったよね」


『でも今は、あの時とは違うよね』



いって、僕は深く息を吸った。


何かが急にこみ上げてきて、しかしそれを押し戻すように、息を吸った。



「……先輩のこと、どうするの?」



千智のあこがれの先輩はバスケ部のエースだ。


高校時代に数々の偉業を成し遂げた我が母校の誇り。


今は地元の大学で活躍している。


彼女の中で、一番輝いている人。


僕は彼女が今までどれだけ頑張ってきたのかを知っている。


だから夏休みに入る前、彼女が告白されたときはもう、自分のことのようにうれしかった。


……し、悲しかった。



「うん、2年かけてやっとだよね。もちろん、おっけーするよ。願ってもないことだし」


「……そうだね。千智はあの先輩に家までついて行っちゃうほど憧れてたもんね……そっか、よかったじゃん、本当。おめでとう」


「うん」



めでたくない。


本当は何も嬉しいことなんてない。


僕が一番近くで見てきた彼女がいなくなるなんて、信じたくない。


だけど僕は、彼女の一番輝く星にはなれない。


それは最初から分かってたはずだ。


だから辛いけど、それは否めない。



「……ねぇ、今度は僕の好きな星、当ててみてよ」



徐に吐いた一言。


どうしてそんな言葉を吐いたのか。


でもたぶん、 明日で彼女は僕の中からいなくなると思うと僕はどうしても耐えきれなくなったんだと思う。


だから最後に僕はこの想いに終止符を打ちたかったのかもしれない。


いずれにせよ、彼女の中に僕がいたこの10年を、僕は報われない形でも昇華したかったのだ。



「えー、しゅうちゃんの? んー、なんだろうなぁ」



見上げる千智に、カバンから一冊の本を取り出す。



「はい、これ見て考えてみて」


「うーわなにこれ、ぼろっぼろじゃん。他のはないの?」


「あるにはあるけど、その本の方が僕の好きな星を探しやすいと思うよ」



僕の知識の源。


少しでもこの時間を楽しいものにしたくて、僕はボロボロになるまで、たくさんの星の本を読んだものだ。


本当は千智が言い出した天文部も、すっかり僕が主体となっていた。



「えーっと、じゃあヒントちょうだい」


「ヒントはね、その最初の方のページで、地球から見て最も明るい星だよ」


「わかった! 太陽だ!」


「ん~、それはちょっとずるいなぁ。確かその本には太陽なんて載ってなかったはずだし。でもまぁ、考え方は合ってるよ」


「え~……じゃあわかんないよぉ」



その時、辺りが暗がりに包まれた。


どうやらさっきまで届いていた月の光が、雲に隠れて弱まってしまったみたいだ。


でも構わず、僕は千智の持っていた本の一番最初の星を指してこう言った。



「正解はね、月だよ。地球から見て、一番輝いて見える星。ちなみに満月の等級はいくらか知ってる?」


「んー、わかんない。5とか?」


「答えはね、-12.6等級」


「……え、それってシリウスより明るいってこと?」


「うん、そう。僕にとってもね」


「…………?」



僕にとって一番輝いている星。


それはいつだって一番近くにいて、暗がりをそっと照らしてくれる月。


その頃は変わらなかった。


距離と位置。



「あ、ほら見てごらん。僕の一番好きな星は今、とっても輝いて見えるよ」


「……え、どこに? 雲がかかって何も見えないけど?」


「千智、ちゃんと見て」



だから僕は最後に、彼女の頬をそっと撫でた。


彼女の丸い瞳が、僕のそれと重なる。


そしていつも通りの言い方で、終わりが見えないようにしてこう言ったんだ。


「今日も、月がきれいですね」






僕が最後に夜空を眺めたのはいつだっただろうか。


それは今となっては霧の中で羽虫を追うような淡い記憶の一端で。


だけれど大切な、地球にいた頃の思い出。



今、目の前にある大きな月を見て、僕はそんなことを思い出していた。

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