第37話 掴めなかった右手
*
その日は、雪融けが進む暖かい日だった。私の背よりも高いところに積まれていた雪はここ最近続いていた晴れの日のためかいつの間にか背丈を縮ませていて、道を歩くときに歩道と車道の境界に積まれている雪を見上げることはほぼなくなっていた。
小学校の卒業式も終えていて、春休みに突入していた私と陽平君は、例によって共通の時間を過ごしていた。
もう、この頃になると私が彼に抱いていた興味の理由は理解していて、つまり言ってみれば私は陽平君に淡い恋心を持っていたんだ。
三月三十日。この日も私と陽平君は一緒に過ごしていた。初めは市の中心部にある映画館でシリーズ化されている国民的アニメの劇場版を見て、そのまま街のゲームセンターで遊んでいた。
レースゲームや太鼓のリズムゲームなど、様々な筐体が並ぶ施設内を私たちは巡っていた。お小遣いには限りがあるから、やりたいもの全部が全部できたわけではないけど。
「あ、緑こうら当てないでよー」
「ちょ、そ、そっちだってバナナ僕にこすりつけてきたよね」
「あー今度は赤こうら、ゴール直前でなんてずるいよー」
「……っし」
「……見えないところでガッツポーズ取らないでよー陽平君―」
とか。
「陽平君、リズム感なんか微妙……? 全然コンボ繋がってないよ」
「……及川さん、さっき負けたからって僕を煽るのやめません? もう五回目くらいだよ……?」
とか。
「いいじゃん、撮っていこうよ、プリクラ。折角なんだしさー」
「いや、それはさすがに恥ずかしいというか……僕にはハードルが高いというか……」
「女の子同士では普通だよー」
「僕は男だよね? そうだよね?」
とか。
結局、陽平君がどうしても嫌がったので、プリクラは撮れなかったけど。
「あ、じゃあさ……あれ、取ってよ」
帰り際。ゲームセンターから帰るってときに、たまたま目に入ったクレーンゲームの景品を指さして私はそう言ったんだ。
「あれって……あの鳥のキーホルダー?」
「うん。なんかほんわかした見た目で可愛くない?」
「確かに、なんか丸っこくてそうは思うけど……欲しいの?」
隣を歩く陽平君は不思議そうに小首をかしげる。
「うん。プリクラ撮ってくれなかったから今日の思い出として、ひとつ」
「……そう言われると取らないといけなくなるよね……」
彼はじゃあ取りますねと言って、私が指さしたクレーンゲームの筐体の前に立つ。
「え、本当に取ってくれるの?」
「……クレーンゲームはまあまあ得意だから……多分取れると思う」
「……友達いないのに?」
「小さいとき親とちょくちょく行ったから」
「そっか」
食い気味に補足された。これ以上煽るのはやめておこう。
陽平君は無言で百円玉を機械に入れて、慣れた手つきでボタンを押していく。
「かなり操作が上手そうな感じでビックリ……」
クレーンを動かしていき、目的の鳥のキーホルダーにアームを引っかける。
そして。
「ほ、本当に取った……」
彼はしてやったり、という自慢げな顔で取り出し口から手のひらサイズの戦利品を私に渡す。
「これで文句ないよね?」
「う、うん。……ありがと、陽平君」
と、まあ回想していて微笑ましくなるようなやり取りをしていたんだ。普段は自信なさげに映る彼の横顔が、この瞬間は妙に輝いて見えたのも、覚えている。
そして、私たちは地下鉄に乗って家に帰り始めた。家の最寄り駅に着いたのは、午後四時四十八分のこと。
陽が沈みかけているなか、駅から解けかけの氷が残る歩道をゆっくりと進んでいく。冬道は少しでも油断してしまうと足元から感覚がなくなるようにすってんころりんと転んでしまうから、注意しないといけない。特に細い道でそれをやると、車道やすれ違う人に迷惑をかけてしまうから尚更だ。
縦一列で連なって、人一人分の幅しかない歩道を進んでいく。幅は狭いのに、車の交通量は多いので何気にプレッシャーがかかるタイプの道。しかも歩道は変に雪が積もって氷が残ったからか、左右で傾いているからもう最悪なパターン。
「こういう道って転びやすいから嫌だよね……」
後ろを歩く陽平君に話しかけてみる。
「……うん、毎回地下鉄から帰るとき、できればこの道は避けて歩くようにしていて……」
「私も……」
じゃあどうしてこの日はこの歩きにくい道を通っていたかというと、迂回する道が工事で通れなかったから。まあ、たまにある話。
それでもなんとか転ばずに細い歩道は通り抜けた。そこから少しはまた大通りに面した歩道が続くので、それなりに歩きやすくなる。
──きっと、それがいわゆる油断を生んだんだ。
冬道で一番危ないのは、足元に対する意識が緩んだとき。
横断歩道を渡り、四葉公園前のまた細いでこぼこの歩道を進む。
私は、取ってもらったキーホルダーをしまっていたカバンから取り出して眺めながら歩き出していた。
「そんなに嬉しいの?」
陽平君がニコニコしながらそれを見つめている私に尋ねた。
「うん。だってさ、言ってみれば陽平君が私にくれたプレゼントみたいなものでしょ? それは嬉しいに決まってるよ」
「そ、そう……? 別に僕なんかから貰っても……」
「僕なんかから、とか言わないの。そんなんじゃできる友達もできないよ?」
一瞬。後ろ向きにそう微笑みながら言った、それが、原因だった。
白や透明色で埋められている歩道に、ポツンと浮かぶ黒色に、足を滑らせた。
「あっ──」
気づいたときにはもう遅く、私は歩道の上にしりもちをついてしまう。
「いてて……転んじゃったよ……」
「後ろ向きに歩くからだよ」
「ってあれ……?」
私は、さっきまで右手に握っていたキーホルダーのシルエットがないことに気づく。
キョロキョロと辺りを見渡し、落としたそれが、歩道を越えて車道の端に転がっているのを見つけた。
「あ、車道にまで行ってる……」
左右をチラッと見てから、私は歩道に少し積み上げられている雪をひょいとまたいで車道に出る。
「よしっと……」
私は氷の上に落ちたキーホルダーをつまみ上げ、また歩道に戻ろうとする。けど。
歩道が滑りやすいなら、そこの車道も同じで。
晴れて雪融けが進むと、道はでこぼこになるんだ。融けた雪が水になって、蒸発する前に夜を迎えて、下がる気温のもと、また歪に凍って。それは、歩道車道関係ない。
私は、もう一度車道で転倒したんだ。
「もう、ついてないな……」
「お、及川さん左っ! 車! 危ないっ!」
突然、切羽詰まった陽平君の叫び声が聞こえた。
「……うそ」
それに反応して、私は視線を左に動かす。視界には、減速する気配のない車が一台、私のほうに走ってきている。
だって、すぐ先の信号赤だよね……? ってそんなことより!
冷たい地面に左手をついて、体を起こそうとする。でも。
軸足がうまく定まらない。立ち上がることが、滑ってできない。
「なっ、なんで……」
「及川さん! 手! つかっ──」
目の前に差し出された陽平君の右手を、取ることはできなかった。
もう、時間切れだったんだ。
次の瞬間、鈍い音が激しく響き渡る。それからのことは、もう覚えていない。いや。この言い方は正しくない。
覚えようが、なかったのだから。
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