第16話 崩れ始めた正五角形
「じゃあ、そろそろ帰ろうか。いい時間だし」
午後六時を回った頃に私たちはお店を出ることにした。何も言わずに会計に向かおうとしたら、遥香は首をぶんぶんと横に振りながら五百円玉を私に渡してきた。
コーヒー代なんだろう。
「……ちぇ、それも奢ってあげようと思ったのに。ありがと、遥香」
まあ、あまり貸しを増やすのも良くはないか。私は素直にそれを受け取り、レジに向かう。
「遥香は先にお店出て行っていいよ」
「うん、わかりました」
遥香には先に店の外に待ってもらい、私は財布を探す……。あれ? 財布、どこにしまったかな……。
「お会計千五百円ですね」
レジで伝票を通してもらい、そう言われる間も私はカバンのなかにしまったはずの財布を探し続ける。
「あれ……どこにしまったんだ……?」
カバンのなかや底、制服のポケットなどと探してみるけど見つからない。
……まずい。このままだと払えない……。というか遥香にお願いすることになる、それは奢ると言った手前本当に恥ずかしい……。
こういう時間って本当に長く感じるもので、焦れば焦るほど探しているものを探さずにただ中身をまさぐっているだけになってしまった。少し呼吸が速くなり、冷や汗が出てきた。
一瞬私の後ろを見やる。
大丈夫、会計で列はできていない。落ち着け私。落ち着け。あと探していない場所はどこだ……?
冷静になったところでカバンのポケットを調べていないことに気づき、最後にそこを確認した。
「あ……あった……すみません待たせちゃって」
「いえいえ」
千円札二枚を出しておつりをもらう。多少申し訳ない気持ちになりつつ私は静寂な雰囲気が保たれている喫茶店を後にした。
「ごめんっ、遥香お待たせ……」
店のドアの前にいるはずの遥香に声を掛けたけど、そこには誰もいなくて、ただただ車が目の前を走っていく音だけが聞こえた。
「遥香……?」
拍子抜け、というか。なんというか。待っていると思っていたのにいないってなるとぽかんとなる。
でも、遥香は奢ってもらって何も言わずに帰るような人ではないと思うから、少し不思議ではあった。
「どこに行ったんだろう……それとももう帰ったのかな」
その場で辺りを三百六十度見回す。すると。
喫茶店の駐車場に駐車されている車の奥に私と同じ制服が見えた。
きっと遥香だ。
でも……どうしたんだろう。少しの疑念を抱きつつ制服が見えた白い車に近づいていく。
「……あ、あの、だから遠慮させてください……」
さっきまで聞いていたか細い遥香の声が耳に入る。
間違いない。遥香がいる。
私は車の影から出て姿を見ようとした、けどその瞬間。
「ね、いいじゃん一緒に遊びに行こうよ。楽しいからさっ、絶対」
「い、いえあの……」
声しか聞こえないけど、あからさまな言葉に、状況は理解できた。少しねっとりとした声色のそれは、遥香を連れて行こうとしているものだ。
止めなきゃ、助けないと。
「一人で喫茶店出たあとできっと暇でしょ? 行こうよ、ねえ」
なのに。それなのに。
「っ、はっ、離してくださいっ……」
春風にかき消されそうな彼女の悲鳴を聞いて、踏み出しかけた足が止まった。恐る恐る影の向こうにある状況を覗き見ようとする。
そこには、右腕を掴まれている遥香と、左手に車の鍵をクルクルと回しながら下品な笑みを浮かべる若い男の姿があった。
……行かなきゃ、行かなきゃいけないのに。それなのに。
なんで、足が動かないの。
「さあ。車に乗ろう? 助手席、空いてるからさ」
友達が今まさに危ないってときなのに──なんで。
体が後ろに傾いているの。
「……い、嫌……」
こんなにも、明確に怯えている遥香の声が聞こえてくるというのに。
私は何もしないでいるの。
「……嫌……ですっ」
彼女の精一杯の悲鳴が、それでも普通の声の大きさと大して変わらないそれが、響いたと同時に。自転車の急ブレーキの音が鳴ったんだ。
あまりに大きな音だったので、私はその音の方向に視線を向ける。
その音の主は、見覚えのある人で。というか。
「……よ、陽平……?」
ど、どうして……あ、かごに買い物袋置いてる……晩ご飯の買い物帰りだったのかな……。
そんなどうでもいいことが思考を通り抜ける。陽平は歩道の脇に自転車を止めて私たちのいる駐車場へと走って来た。
「──茜はそこにいて、僕がなんとかするから」
私の側を駆け抜けつつ彼は遥香と男のもとに向かう。その姿はさながら遅れてやってきた主人公みたいで。
「あの、彼女、僕の友達なんで。嫌がってるみたいですし、あなた彼女の知り合いじゃないですよね。やめてもらっていいですか?」
はっきりとした物言いは、彼のその性格を十分に示すものだった。私は、言われた通りにというか、その場に立ち尽くすことしかできなかった。だから、声しか聞こえない。
「な、なんだよお前」
「……それはこっちの台詞ですが。行こ。付き合う必要ないよ」
「ちょ、ちょ待てよ」
「何ですか? しつこいですよ。……ナンパするなら場所選んでください。引き際もわきまえてください。これ以上食い下がるなら警察呼びますよ」
「うっ……わ、わかったよ……」
彼が出て行ったからなのか、男の人が対応するとあっさりいくものなのか。あっという間に事件は終わり、そして男が乗った車は駐車場を出て行った。
「ふう……大丈夫? 及川さん。何もされてない?」
「……は、はい……」
車という障害物を取り払った今、私の視界に映ったのは。
涙目を浮かべて陽平のすぐ隣にしゃがみ込む遥香と、遥香をなだめている陽平の姿だった。
夕暮れも終わり街灯が辺りを照らすなか、私だけが、光の蚊帳の外にいるような、そんな感覚に襲われる。
大丈夫。陽平は、女の子を好きになったりなんかしない。
「……よかった、何もなくて……立てる? 及川さん」
わかっている。理解しているはずなのに。
「……ありがとう、ございます……」
俯きながらも、差し出された陽平の右手を掴んで立ち上がろうとしている遥香のことを見て。
胸がチクリと、痛む音が聞こえたんだ。
その感情の名前を、私は知っている。今までもしていないわけではなかったから。ただどこか安心しているというか、きっと陽平は他の女の子にもなびかないって信じていたから。
だから、嫉妬はするけどそこまで拗らせるものでもなかった。
でも、今、私が抱いたこの気持ちは、心の隅に針がチクっと刺さったこの痛みは、これまでに抱いたそれとは、少し違う気がした。
……焦りの理由も、なんとなくわかった気がした。
もう、一番近い距離にいる女の子でいるのは……難しいのかもしれない。なら。
私と陽平は、もう今までの関係ではいられないのかもしれない。
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