第8話 その悲しげな表情の意味は

 週末にある宿泊研修の支度を、夜の自室で淡々と行っていた。

 といっても、バッグに着替えを詰めるくらいで終わるものなんだけどね。まあ、こういうことは二日前くらいに終わらせて、何かあったときのために一日余らせておくのがベター。

 ……何も、起きなければいいんだけどなあ……。

 得てして「こういうイベント」は人間関係が近づいたり離れたりする。中学の修学旅行とかは……うん。

 まあ、かいつまんで話せば、一度目の告白をそのとき受けた。で、振った。きっと告白した子は、後味が悪い修学旅行になったと思う。……僕も、楽しむことができない三日間を過ごした。

 入学早々にあるこの研修で何かそういう「具体的な行動」があるとは思えないけど、実際昨日、僕は一人もう振った訳で。

 ……少し、怖くはなる、よね。

 これ以上、「誰か」を傷つけるような真似はしたくない。何自己陶酔してんだって言われるかもしれない。でも。

 振る理由があまりにも不誠実なんだ。

 言ってしまえば、理由だって、他人に伝えられる自信はない。

 つまりは、僕は結構今すり減っている。

 ふと、雨具は必要なのかどうか天気予報を見てみる。

 「くもり 降水確率30パーセント」

 ……大丈夫、かな。荷物、軽くしたいし。入れようとした折り畳み傘をバッグには詰めず、その日の準備を終えた。


 次の日も、特にこれといったことは起きず、迎えた宿泊研修当日。

 いつもより三十分早く目覚ましをかけておいた僕は、三十分だけ眠り足りない目をこすりながらベッドから這い出た。

 制服に着替え、トースターに角食を放り込む。その間に再度部屋に置いてある荷物を確認する。

「……よし、忘れ物はない、ね」

 朝特有の雀のさえずりが外から聞こえてくる。夜に比べて、どこか空気が軽く感じるのも朝ならではだと思うんだ。

 チン。

 向こうの台所から、無機質なそんな機械音がする。

 それにつられるように僕は視線の先に荷物を残し、台所に戻る。焦茶色の食器棚から水色の皿を取り出して、そこに今しがた焼きあがった角食を置く。程よくきつね色に焼きあがったそれに、ブドウのジャムをのせ、マグカップに牛乳を注ぐ。野菜室に残っているレタスを適当にちぎり、ミニトマトを添える。

 これが、僕の普段の朝ごはん。しめて五分くらいで支度が終わる。食べるのもそれくらいで終わるから、楽なものだ。

「あっつ……少し冷ますか……」

 ただ、今日はちょっとパンを焼き過ぎたのかもしれない。一口かじった途端、そんな声が漏れた。牛乳を一口含んで、一旦外に出てポストを確認する。新聞を取って、再び家に。玄関に靴が一人分しかないから、今日は父親は帰ってないようだ。

 再度パンにかじりつく。

「ん……ちょうどいい」

 今度はいい塩梅に冷めたようだ。口の中でサクサクと広がる小麦の味が、慣れ親しんだ一日のスタートを告げてくれる。

 この朝食とも、しばらくお別れになるのだけれどもね。

 研修中の朝はパンかな……それともご飯かな……パンのほうが嬉しいんだけどな……朝から白米は重たくて入る気がしない。最後のパンのひとかけらを食べきり、付け合わせたサラダも頬張る。

「ごちそうさまでした」

 ガランと何も音がしない家のなかで、ただ僕のそれが響く。これも、いつものこと。


「……行ってきます」

 いつもより少しだけ大きい荷物を持って、僕は家を出た。

 僕の住むマンションのそばには四葉よつば公園という小さな公園がある。キャッチボールができるかできないかくらいの、そんな大きさの公園。多分鬼ごっこはできないと思う。この間言った公園で本を読んでいたっていうのはここ。近所になんでも遊べる大きい公園もあるし、少し歩けば学校の校庭もあるしで、わざわざこの小さな公園で遊ぼう、っていう子供はいなかった。だから、僕の読書スペースとしてはなかなかにいい環境だったわけ。Yの字をした交差点に面している公園には、数本の桜の木がもうすぐ訪れる雪融けと開花のときを今か今かと待っている。

 公園の脇を抜け、南郷なんごう通に出る。帰り道は皆と一緒に別の通りを歩くけど、僕は南郷通のほうが好きだったりする。別にどっちでも距離は大して変わらない。果ては高速道路、反対には札幌の中心にも繋がるこの通りは、朝から多くの車が走り抜ける、ひっきりなしに追い抜いていく車を横目に、淡々と学校への道を歩いていく。歩道と車道の間に積まれていた雪も大分減ってきて、もう、僕の足首より低い位置まで下がってきている。ピーク時は身長を超える高さにまで積まれるから、ある種春の訪れを感じさせるポイントにもなる。

 菊高最寄り駅のひとつ(最寄りってなんだ)、地下鉄東西線東札幌ひがしさっぽろ駅から出てきたであろう生徒の姿がチラホラ向こう側から見えてくる。そんな彼等とぶつかる前に、僕は大型ショッピングモールがある角を曲がり、細い道を進む。すぐ隣には白石しろいしサイクリングロードの終端があり、端から見ると車道・歩道・サイクリングロードと道路が三つあるように見える。さっきまでの大通りとは打って変わって、この通りはほとんど車が通らない。時折小学生の無邪気な声が響くくらいで、静かだ。

 そんな静かな通りに、僕の足音に加え、もう一人の足音が聞こえてきた。

 あれ……? 地下鉄組は結構まだ距離があると思うし、僕だってそんなのんびり歩いているつもりはなかったけど。追いつかれたか……。

 一瞬チラッと後ろを窺う。すると。

「あっ……」

 僕の後ろには、セミロングの髪で瞳を若干隠す、及川さんが歩いていた。

 彼女も僕のことに気づいたみたいで、少しの間目が合った。

 僕が立ち止まる格好になったから、自然と及川さんは追い付いた。横一列になったタイミングで、また僕も歩き始めた。

「お、おはよう……及川さん」

 彼女に声を掛けるかどうか少し悩んだけど、ここまで目を合わせておいて無視をするのもいかがなものかと思い、簡単に挨拶をする。

「……お、おはよう、ございます……高崎君」

 こんな静かな空間だから聞こえる、それくらい小さな声で彼女は返した。

「及川さんもこの辺に住んでるの?」

 駅から来ていない、ということは僕と同じルートでこの通りを歩いているということになる。もう一つの最寄り駅、菊水駅から来る生徒はこのルートを選ぶことはしないしね。なら、近くに住んでいる、っていう考えが妥当だとも思う。

「あっ……は、はい……そう、です」

 僕が瞬きをする間くらいだろうか、彼女は悲しそうな表情を浮かべたように見えた。

「…………? そうなんだ、でもこの辺なら中学校同じだと思うんだけど、僕とは違う中学校だよね? 

「え、えっと……高校入学に合わせて、菊水に引っ越しをしたんです……そのほうが都合がいいので……」

「ふーん、珍しいね、そうなんだ」

 昔はどこに住んでいたの、とも聞こうと思ったけどそこまで根掘り葉掘り聞くのも失礼かと思い、それ以上話を広げるのはやめておいた。

 結局、それから僕が無理に話をしなかったし、及川さんも自分から何かを口にすることもなかったから、ただ一緒に並んで歩いているだけの時間を高校に着くまで過ごした。

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