映画の話

寺尾小針

第1話 シェイプ・オブ・ウォーター(新たな神の擁立)

 最近になってやっとシェイプ・オブ・ウォーターを観た。

 ずっとみようみようと思ってたのだけど劇場で観れず、また近くのレンタルビデオショップが中々ディスクを置いてくれないので今になっている。さっき借りてきてさっき見たばかりだから、記憶が新鮮で感想を書くには良いのだが、一緒に借りたエマニュエル夫人の無修正版を先に見てしまい、シェイプ・オブ・ウォーターを見ている最中にもその記憶がよみがえってちょっと困惑した。というのも、シェイプ・オブ・ウォーターも、エマニエル夫人同様(同様というよりもはるかに超越して)性描写が多かったから。シェイプ・オブ・ウォーターのほうは修正が入っているやつだったから、もし修正がなければエマニエル夫人なんて相手にならない。

 たとえば、映画の冒頭、主人公の女性・イライザが唐突に風呂場で自慰を始める。AVと比べられたら困るけれど、結構直接的な表現の仕方だった。イライザの動かす腕の動きによって風呂場の水がちゃぷちゃぷ音を立てる。

 次に、リチャード・ストリックランドという今回のいわば「悪役」のセックスシーンだが、修正版ではここで唐突にぼかしが入り、ぼくはこれを見たときびっくりして笑ってしまった。もしかしたらわざとなのかもしれないが、性描写が滑稽に思えた。

 そして、イライザと〈彼〉とのセックスシーン。〈彼〉というのは半魚人のような姿をし、航空宇宙局によってとらえられ研究対象とされている「怪物」のことだ。〈彼〉は物語の中盤でイライザとセックスをする。しかしそのセックスシーンはリチャードのそれとはちがって、映像にうつさない。間接的に描写される。

 これは単に怪物と人間のセックスが映像として作りずらいだとか、倫理的によくないかもしれないだとかいう問題があって間接的な描写を選んだ、というわけではないだろう。その程度の問題で人間と怪物のセックスを割愛するなら、はじめからリチャードのセックスシーンも作らないはずだ。あのシーンはむしろ、イライザと〈彼〉とのセックスを神聖なものにするために用意されたものだった。その神聖さはどこからくるかと言えば、(映画の文脈に従えば)愛からくるということになる。

 

 ここでいくつか情報を整理しておく必要があるので、気づいたことを次に列挙する。

・この映画はジャイルズの語りから始まり、またジャイルズの語りで終わる。(事実)

・リチャードは中盤以降イライザを性的対象として見ていた。(事実)

・ジャイルズはゲイであり隣人。(事実)

・イライザがよく食べていた(茹で)卵の小道具としての意味:復活・誕生の象徴、欲求不満のメタファー、〈彼〉の餌、手話の動きが印象的。

・リチャードは妻とセックスするとき「しゃべるな」と言っていた。(事実)

・〈彼〉は神、あるいは神のようだと形容された。(事実)


 全てがコンスタティブに肯定されるとは思っていない。とくに四番目なんかは恣意的な面がある。しかしそれ以外は頷いてもらえるはずだ。

 まず一番目について。これは見てもらえれば分かる通り、そうなのだ。しかしいったいこれが何を意味するのかというと、この映画のほとんどのところで、ジャイルズの目線に従った見方ができるということだ。端から端までジャイルズが知っていてこの物語を書き上げているとまではいえない(リチャードがどんなセックスをしていたかは流石に知らないだろう)が、たとえばラストシーンのイライザが〈彼〉に連れていかれるシーンは、観客としては何が起こったか分からない。それは〈彼〉が何を考えているか分からないからで、この映画がハチャメチャだからということにはならない。むしろその場面にジャイルズが居合わせたことによって、観客は視点のよりどころを見つけることができた。最後にジャイルズは「たぶん今も二人は幸せですよ」的なことを語る。当然この発言には根拠も何もないのだけれど、映画の結末をより強化するのには役立った。要は、観客はイライザと〈彼〉がその後どうなったかを自分で考える必要がなくなった(SFの終わり方としてはこれは必然なものと思う)。我々はジャイルズに同意すればいいわけだ。ずるいやり方と言えるかもしれないけれど、ほとんどの観客はそれ(=ものすごく楽観的で、唐突な終わり方(のように一見するもの))を許容してしまうわけだからうまいと言ったほうがいいんだろう。


 話が逸れた。箇条書きの説明に戻る。ふたつめ。

 ここで仮に、この映画を、「人間と怪物が自分のことを人間だと思っていない人間の女性を奪い合う話」として考えるとする(映画にはいくつもの見方・モードがあって互いに独立している)。すると、いうまでもなく奪い合う側の人間はリチャードで、怪物は〈彼〉、自分のことを人間だと思っていない人間の女性とはイライザのことである。

 ここで少し考えなくてはならないのが「実際イライザは自分のことを人間だと思っていないのか?」ということだ。上記のモードを見るためには、これを示す必要がある。

 まずイライザには発話障害があった。耳は聞こえるが声を発することができない。また、幼少期にどういうわけか首に大きな傷を負った。なにかけものに襲われたような痕だが映画の中ではこれに深く言及しない(おそらくラストでイライザにえらを作るために仕掛けたものだろうけれど)。このためにイライザは職場ではほとんどの同僚とコミュニケーションが取れない。ただ一人、ゼルダという女性が手話を理解しくれており、通訳になる場面が多い。彼を救出しようとするときはじめは止めたがすぐにイライザの考えていることを理解した。

 もちろん客観的に見ればイライザは人間である。と同時にとことんまで彼女は自身のことをマイノリティだと自覚している。自身の孤独な生まれ(彼女は孤児院で育った)を認めてしまっている。

 人間の大多数は音声でコミュニケーションを取ることができる。またさらに手話を理解しないし、〈彼〉のような怪物が何をいっているのか理解しない。一方で、イライザは研究室に忍び込む中で〈彼〉が心を持ち、手話をある程度理解できることを知った。そして仲良くなる。そこらの科学者や同僚よりもはるかに打ち解け合う。つまりここからいえるのは、イライザは、手話を理解しないもの(例、リチャード)を他人とし、手話を理解するもの(例、ゼルダ、ジャイルズ、〈彼〉)を同族・仲間・家族として見做しているということだ。

 とどのつまり、イライザは自分のことを人間だと思っていない。自身がマイノリティに属し、人間の大多数は彼女とコミュニケーションを取れないことを彼女は知っている。いうなれば人間のいる空間のはるか無限遠点に彼女は属している。しかし彼女はもちろん〈彼〉の側から見たら人間だろう。だから、「自分のことを人間だと思っていない人間の女性」と言うことができる。

 さて、とすると先のモードが使える。リチャードと〈彼〉がイライザを奪い合う構図である。人間と怪物との境界線上に立つ人間を人間側に引っ張り込むか、怪物側に引っ張り込むかという闘争がある。結果的に勝つのは怪物の側だけれど、これには理由がある。決して映画のお約束的な理由にしたがって怪物が勝つわけではない。より思想的な方面で、勝利の理由を考えることができる。

 ひとつ確認しておかなければならないのが、この映画はアメリカとソ連の両方に対する批判になっているということだ。とくに冷戦期の宇宙開発戦争に躍起になっている両者を、嘲笑うというよりも痛罵している。しかも冷静に。たしかに、皮肉をきかせてリチャードやソ連のスパイを滑稽をえがく描写が多い(腰に手を当てたまま用を足したり、リチャードの車がぶっ壊されたり、ソ連のスパイの合言葉がうまくいかなかったり)が、重要なのは、彼らをありがちな悪役、悪いやつとは描かずに、部下の意見は一顧だにしない、支配的で理性的な人物として描いたことだ――これが痛罵である。基本的に彼らに怒りはない(物事がうまくいかないことに対するフラストレーションはある)し、本能的に何かをめちゃくちゃに破壊したいという欲望もない。リチャードが上層部から脅されてはじめて必死に〈彼〉を捜索するあたりから分かるように、一種サラリーマンとして描かれている。要は映画に出てくる「悪役」としての彼らには思想(哲学といったほうがいいかもしれない)がない。どうするべきかの判断を全て上層部の利益ないし国家の利益のために考えており、それも単なる国家主義だとか功利主義として捉えられるものではなく、自分の保身のために過ぎず、彼らには共通して自己について極端に強いプライドがあると言えるだろう。だからリチャードは、イライザに手話で侮辱されたとき、手話を理解できないにもかかわらず、侮辱されたということだけは気付いた。彼らは自身が貶められたり、自身が傷つけられることにはどうしようもなく敏感なのだ。

 逆に、イライザが同族・仲間・家族とみなしている者たちについてはどうだろうか。つまりエルザやジャイルズや〈彼〉のことだけれど、この者たちにはむしろプライド=自尊心のようなものが少ないように見られる。それはこの者たちが普段から生来的な部分を傷つけられているからであり、誰がそれを傷つけているかと言えば、社会を作り上げている権力者(支配者)と、保身のために支配者に従属する”サラリーマン”たちである。この者たちは、その結果としてマイノリティの中で小さくうずくまることを良しとしている。「マイノリティの中で小さくうずくまる」とはここでは学習性無気力の具体的な場合を言っている。この者たちにもかつてはプライドを守ろうと、人と広く繋がろう(マイノリティの境界線を越えよう)と努力を繰りかえしたことがあったのだろうけれど、推すにそれはことごとく失敗した(もちろんそんなことは映画の中で描かれていない)。そして、努力を繰りかえせば繰り返しただけ、はねっかえりとしての痛みが彼らを襲ったはずだ(この部分はリチャードによる〈彼〉への拷問の描写からもわかる)。そのためにこの者たちは無気力に陥っていた。少なくとも映画の前半部分まではそうだったのだ。しかし、ある時点でこの無気力がひっくり返る。

 その地点とはどこか、はっきり言及することはできないかもしれない。それが段階的に推移しているからだ。しかしトリガーがイライザであることだけは確乎として言えるし、ぼくはたぶん〈彼〉が研究室の床に縛り付けられているのをイライザが発見するシーンがそうなのではないかと考えている。というのも、このシーンでの〈彼〉は過去のイライザだから(理由になってないかな?)。研究室に忍び込んだイライザは〈彼〉の姿と同時に、過去の自分がどれだけ苦しんでいたかを現前と見、しかながら同時に、その束縛が決して脱出不可能なものではないことを知る。なんとかすれば(たとえば誰かと団結して、作戦を立てて、監視カメラを動かして、人を殺して……)、〈彼〉を解放できる。脱出困難だとしても不可能ではないわけだ。自分がいつのまにか諦めていたこと、無気力になっていたことを知ったイライザは再度の〈脱出〉を決意し、仲間を作っていく。――このように考えるわけだけれど、これは流石に妄想の域を出ないから、余談としてのみ受け取ってもらいたい。いずれにせよ映画のどこかで無気力をひっくり返したイライザは、ジャイルズとエルザを巻き込んで、彼らの無気力までもひっくり返してしまう(ここで、ジャイルズがゲイでありエルザが黒人女性であることに注意しなければならない)。

 先に勝利の理由は単なるご都合ではなく、思想的に理由付けできると書いた。つまりこのような思想の上に成り立つ映画なら、このような結末に至るのは不思議じゃないとぼくは言いたいし、これからそれを言うわけだ。

 まずはじめに、権力者およびその従属者と、その権力によって線引きされたマイノリティとの対立がある。しかしその対立は、権力者を打ち倒すというテロリズム的な目的のためにあるのではなく、「マイノリティをマイノリティにしないでくれ」、「勝手に線を引かないでくれ」などの懇願に従っている。つまりマイノリティ(この場合、イライザ側)は自分たちが押し込められている狭い水槽のガラスを破壊することを目指しているのであって、暴力的な側面は一切ない(人は殺しちゃったけどね(あれはソ連のスパイがやったことだからセーフ))。だから、劇中では怪物がかわいそうだという意見は出てこず、〈彼〉も人間であり〈彼〉を助けないならこちらのほうが人間じゃないという主張が(手話によって)発せられる。

 次に、劇中でなんども〈彼〉は神と形容される。これは容姿に対してでもあるし、能力に対してでもある。彼の生物学的構造がどうなっているのかはよくわからないし考える必要もなさそうだが、能力に関しては考えておく必要がある。能力はたぶん三通りあって、1、宇宙空間でも生存可能な呼吸能力、2、自然治癒力の活性化、3、人間を半魚人化する能力と分けられる。とくに2と3は神と言って差し支えないほどだから、ここでは〈彼〉を神になりうる存在として仮定して、このまま議論を進める。

 整理が終わったので、やっとこの映画のもつ思想を書き下せる。シェイプ・オブ・ウォーターは、まず水槽からの脱出を目的としているが、その手段として新しい神を擁立することを提案する。換言すれば、マイノリティをマイノリティじゃあなくする(決してマイノリティをマジョリティにするのではない)ために、方法として今までの大文字の存在を否定して新しい大文字の存在を外部から取ってくる。これが思想である。

 たしかに宗教の成立の仕方はほとんどこのように運ぶんじゃないのか? はじめ、神とあがめられたものはもともとは人間でない、よくわからないものだった(太陽とか自然物、概念的なもの、とくに人間と差別化するものが多い)。しかしある段階から、カトリックが偶像崇拝を始めたように、神が人間に近しいものであるという勝手な解釈が現れた(ところで、リチャードはよく聖書を読んでいるらしい)。要するに宗教の失敗は崇拝対象を人間のようなものにしてしまったことにあるのではないかということを言いたいのだが、ここら辺のセンシティブな議論は自身がないから見逃してもらいたい。

 しかしここで重要なのは、崇拝対象が確かに存在し、なおかつ人間でない、人間を超越した存在であるということだ。どれだけ人間が科学技術を用いても〈彼〉に追いつくことはできないだろう。そしてこれによって従来の宗教の問題を解決できる(?)というわけだ。

 そこで、何度も言うように〈彼〉を神格化するために、映画の中ではいくつかの予定調和的な操作が行われる。それはこの物語を神話化することによって、〈彼〉を神格化しようという発想に基づいている。その一つとして前述した、神聖なセックスシーン(描かれないセックス)があり、これを強調するためにリチャードのセックス(描かれるセックス)との対比が用いられる。〈彼〉とイライザとの関係は単なる恋愛のそれとしては処理できない。どちらかと言えば、主と聖母マリアのような関係だろう。〈彼〉とイライザの最初のセックス(というか一度しかしていないだろうが)でイライザは〈彼〉の子どもを身ごもった。これは卵が暗示している。この子どもはどうなるのかと言えば、映画の最後にイライザが半魚人化することから、子どもも半魚人として生まれてくるはずだ(〈彼〉はすでに懐胎している胎児ごと半魚人化させたから)。ここでイライザの定めた同値関係に従えば、子どもは〈彼〉と同族、同一と言っていいだろう。つまり神であり、人間の外側にいる。そういうものたちはすべてイライザにとっては同族、家族なのだった。

 もうひとつ、神話化の技法として、一回死んだ(?)〈彼〉が復活するという典型的な話型が用いられる。映画のラストでリチャードがイライザたちに追いつき〈彼〉とイライザに発砲する。このとき〈彼〉は胸を二発撃たれ、イライザは腹部を一発撃たれ倒れる。ここで、〈彼〉が一度死んで、復活したという見方をするのは危険で、荒唐無稽だと自分でもわかるから、死んだとはいわずに死にかけたということにするけれども、そのときの彼の復活・イライザの復活は映画の中で何度となく暗示されている。これも卵の小道具としての役割だった。

 要するに、この映画が新たな神の擁立という思想を持っているのだとしたなら、〈彼〉を神格化するために、またこのおとぎ話を神話化するために、奇跡や復活を用いるのは当然だと言える、ということだ。ラストで撃たれた〈彼〉が再び立ち上がるのをご都合だと考えるのは、確かに間違いではないが、確乎とした思想に基づいたものであることを見逃してはならない。

 よって、リチャードと〈彼〉とのイライザの奪い合いを制したのが〈彼〉であるということは、自分のことを人間でないと思っている(人間の外側にいる)女性を介して新たな神話をスタートさせるということであり、思想に対してはたいへん理にかなっている(?)ものと思う。やや大仰になり過ぎている感はあるけれど。

 最後に、この物語がジャイルズによって語られたということまでも、この物語の神話化に一役買っている。ジャイルズは伝道師としての役割もあったわけだ。


 ――という以上の感想を思いついたわけなのだけれど、はっきり言って話が飛躍しすぎて予想以上に妄想を越えない部分がおおかったりするから、そこらへんは聞き流していただきたい。

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