僕は姉の代わり、あなたは僕が嫌い

豊羽縁

姉である僕と優しい彼女

 姉の代わりをして欲しい。ある日、僕はこう言われた。その日のことはよく覚えている、忘れるわけがない。あれはそう、蒸し暑い夏の昼のことだった。そして、その時の自分はその意味を良く理解はしていなかった。





「良し。今日はここまでだ」

「ストレッチ終わって、シャワー浴びたら帰っていいぞ」

「はいっ! ありがとうございます」


 今日のレッスンも終わり、かいた汗をシャワーで流して着替える。あれから3年、僕は姉の代わりを続けている。

 1歳年上の姉は歌手だった。いやマルチタレントと言った方がいいのだろうか? デビュー当初は歌が中心だったが、映画やドラマ、アニメなどにも出るようになって期待の新星という扱いを受けていた。弟の僕も姉に似ているということもあったのか姉の事務所の人に誘われて養成所に入っていた。

 そんな時、姉が事故に遭った。姉は運良く、死ななかった。でもその時のショックで姉は歩けなくなってしまった。ガラス片で出来た傷もアイドルとしては致命的なものとなって、活動を続けるのは困難という状況になった。その時、どんなことが起きたのか知らないし、知りたくもない。ただ1つ分かるのは姉ができない仕事を姉としてすることになった、それだけだ。

 姉であるために食事や運動、手入れ全てにプログラムが組まれて生活している。少しでもオーバーすると警告が発され、どこで補うかを指示される。最初は苦痛だった気もするが、いつしかそれを難なくこなせるようになっていた。

 学校で僕が姉――水引陽子だということを知っている人は誰もいない。ただの気弱な男子生徒としか思っていないだろう。でもそれがアイドルとして弱みを見せられない自分にとっては救いだった。弱い自分を認めていてくれる、ただそれだけで僕にとっては幸せなことだった。





 誰もいない家に着き、靴を脱ぐ。今は両親から離れて事務所が借り上げたアパートの一室で生活をしている。こんな生活を続けていたら疲れ切ってしまいそうだが、ある人のおかげで元気でいられた。

 冷蔵庫に入っていたお弁当を電子レンジで温める。この仕事をするようになってからほぼ毎日、このバランスを極限まで調整された弁当を食べてきた。中身は味よりも栄養面が重視されたもので中身もその日の気分よりもその時の体重や身体の調子に左右される。

 美味しいとあまり感じない弁当を食べ終え、写真を撮ってからメッセージアプリを開く。そこにいるのは家族とマネージャー、僅かな仕事での知人、そして――


じゅん 「織くん、今大丈夫ですか?」

ひめ  「大丈夫だよ、何かあった?」


 ちょうど今、学校では唯一の知人にして唯一の親友、絢子からメッセージが来た。内容は宿題の進捗についてだ。


じゅん 「明後日までの宿題できてる?」

ひめ  「いや、まだ出来てない」

じゅん 「私も終わってない所あるから、明日図書室で一緒にやる?」

ひめ  「ありがとう、お願いしてもいいかな?」

じゅん 「どういたしまして、お易い御用だよ」


 一言二言言葉を交わして、明日の放課後に一緒に進める約束をした。絢子とは一緒に出掛けることはほとんど無いがさっきのように言葉を交わす機会が多い気がする。

 彼女と仲良くなったのは確か入学式の時に席が隣だったとかそんな些細なことで切っ掛けは覚えていない程、単純だった。それでも僕らは仲良くなり、自然とお互いのことを打ち明け合うような関係になっていた。

 彼女にだけは自分が姉の代わりとして女装をしてアイドルをしていることを伝えている。絢子はそれを悪いものを見るかのような視線を向けたりせず、そのままの僕として認めてくれた。逆に彼女も秘密にしていたことを打ち明けてくれた。そのことについて僕は驚きはしたけれど軽蔑することではないと思っていた。





 時計の針が10時を過ぎたことを示す。そろそろ大丈夫かな? そう思いながら織くんにメッセージを送る。内容は本当に些細なもので最近出された宿題の進捗についてだ。織くんがまだ出来ていないと言うと私は彼に一緒に宿題をしようと誘う。織くんは忙しいのにいつも直ぐに返事をくれる、嬉しいけれど申し訳ない。

 私は彼の秘密を知っている。広めたら私も終わりだけど彼を完全に抹殺できてしまうようなそんな秘密。それで脅そうなんて思ったことはない、私にとって彼は素敵な人だ。女装をして女性のふりをしてお姉さんの代わりに舞台に立つ。普通できる事じゃない、したいとも思わないだろう。だから、私は彼を織くんを尊敬している。

 でも私も一つだけ織くんを好きになれない所があった。それはとても単純に学校で自分を殺していることだ。姉のふりをしていることがバレるのは彼の生活において終わりを意味することは理解している。それでも私は――





 授業の後、約束通り絢子と図書室で待ち合わせて勉強を始める。進めている宿題は数学ではっきり言って僕には難しいかった。宿題は30分が経過するが全く進んでいない気がする。ふと、目の前に座っている彼女に目を向けるとちょうど頭を上げていたようで視線と視線が交差する。


「絢子さんはどのくらい進みました?」

「私は6割くらい進んだかな」

「すごいですね。僕はあんまり……」

「この範囲は得意・不得意が出やすいから仕方ないと思うよ」


 絢子はあまり頭の良くない僕のことを優しく励ましてくれる。偶に二人で勉強すると多くの場合彼女にフォローされる形になってしまう。学年4位と学年89位という月と鼈のような差も関係しているとは思うけれど。自分のことながら頭の悪さにはほとほと呆れてしまう。勉強をサボっている訳でもなく人並みにやっていても結果が出ないのだから。

 でも彼女は根気強く、理解しやすいように教えてくれる。ここまでしてくれる義理は無いそんな気もしないでもない。僕は彼女に何か返すことができたのだろうか。余計なことを考えつつも時計の針は回っていき、アドバイスと答えを教えてもらいながら宿題はどうにか下校時間ギリギリに終わった。





「ありがとう絢子さん」

「どういたしまして、こちらこそありがとう」


 絢子さんは笑顔で笑って、お礼を返してくる。僕がお礼を言われることはないと思うけど、ここでこちらがもう一度言うとお礼の無限ループに陥ってしまうのでやめることにした。校門を出ると空は深い橙色と黒い影で彩られている。


「絢子さんはこのまま帰る?」

「うん、織くんも帰るのかな?」

「そうなるね、そのまま真っすぐ」

「そっか、じゃあ――」


 彼女は2歩ほど前方から僕の方へ1歩半詰め寄った。髪が移動で揺れ、視界が塞がれる。目は光景を焼き付けているし、頭も理解している。でも感情は動いてくれず、揺れる枝が時間が止まっているわけではないことを見せつける。


「途中まで、一緒に行ってもいい?」

「えっ、うん」


 働かない思考は反射的にイエスを選択する。これで良かったのかを考える暇もなく、彼女に手を掴まれ歩道を歩き始める。斜めに落ちる影を見れば姉弟のようで昔のことを思い出して、懐かしくなる。それにしても絢子はどうして一緒に帰ったのだろう? いつもは校門で手を振って別れるのに。ふと気づいた違和感が頭の中をめぐっていると彼女が口を開いた。


「ねえ、織くん」

「う、うん」

「私、今日言おうと思ったことがあって買い物に行くお店変えたんだ」


 目を前に向けると今歩いている公園の反対側に商店街が見えた。偶にマネージャーに隠れて買い食いをすることもあるので絢子が買おうとしているものがあることは理解している。でも何を言うために一緒に帰ったのかはまだ分からない、彼女は僕に何か伝えたいことがあるのだろうか。


「織くん、私ね……」

「……」


 絢子の沈黙につられて、口を閉ざす彼女が口を開くのを待つように。


「私、織くんのこと好きだけど嫌いなんだ」

「えっ――」


 得てして日常の中には突然の非日常が紛れ込んでいるもので、それは僕みたいな普通の人にも降りかかるのだと実感した。悪意ではない、けれどもこれを優しさだとは思えない。混乱でその場に立ち尽くす僕に対して彼女は――


「私が弱くてごめんね……」


 彼女はそう言って走っていった、この後のことはよく覚えていない。ただ途中から降った雨に打たれながら歩いたことだけは覚えている。私は、僕はどうするべきだったのだろう。私が完璧に姉だったら良かったのだろうか……、重い気持ちに包まれながら今日という日は終わっていった。

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僕は姉の代わり、あなたは僕が嫌い 豊羽縁 @toyoha_yukari

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