第55話 黄泉の世界

 小春は、空を飛んでいた。

 大府の街並みが遠くに見える。しかし、それもだんだんと遠ざかっていった。

 上を見上げると、雲がすぐ近くにあった。

(私は空を飛んでいるのか?)

 雲を突き抜け、さらに上へと進んでいく。止まることはできない。小春は身をまかせる他なかった。

(私は死んだのだろうか?)

 晶紀が渡した『鬼の涙』の力で冬音は滅んだ。しかし、まだ全ての鬼を倒してはいないと小春は思っていた。

 志半ばで倒れてしまったことを小春は悔いた。できることなら、もう一度生き返りたいと願った。

 その願いは叶わず、小春は大きな川のほとりに到着した。

 天空に流れる川。空は真っ暗で、たくさんの星が光り輝いている。川を流れる水は透き通り、その底は見えない。

 なんとなく、この川を渡れば黄泉の国へ行けるような気がした。しかし、川は広く、向こう岸が見えないほどだ。

 小春は、その場にしばらく立ち尽くしていた。すると、遠くに灯りが見えた。

 その灯りはだんだんと近づいてくる。それは一隻の小さな船だ。

 船には、誰かが一人だけ乗っているようだった。不思議なことに漕ぎ手はいない。それなのに、まっすぐ小春のほうへ向かってくる。

 小春は、船に乗っている者に見覚えがあった。長い黒髪を束ね、背の高い女性だ。

「夕夏さん!」

 小春は思わず叫んだ。船に乗っていたのは夕夏だったのである。

 やがて、船が岸に着いた。夕夏が船から降りて、小春のそばへと歩いてくる。

 小春は、思わず走り寄り夕夏に抱きついた。柔らかな春風のような香りがする。間違いなく、生きていた頃の夕夏そのものだった。

「小春ちゃん、よく頑張ったね」

 夕夏が、抱きついたまま涙を流している小春にやさしく話しかけた。

 しばらくの間、小春は夕夏に抱きついたまま動かなかった。そんな小春の背中をそっと撫でながら、夕夏は小春に目を落とした。

「どうして夕夏さんがここに?」

 小春がようやく夕夏から身体を放し、涙を手で拭いながら尋ねた。

「小春ちゃんへの伝言を頼まれてね」

「伝言?」

「そう。私がここまで来ることになったんだ」

 小春は、夕夏のほうを向いて

「ここはどこなんだい?」

 と質問した。

「ここは死者の世界の一歩手前さ。この川を渡れば、死んだ者の集う世界に行ける」

「じゃあ、私は死んだということ?」

「いや、まだ死んじゃいないさ」

 夕夏は、小春の頬をやさしく撫でながら話を続けた。

「小春ちゃん、あなたにはまだやるべきことがある。だから、まだここを渡ることはできないんだ」

「やるべきこと・・・」

 小春は、思い出したように

「まだ、全ての鬼を倒していない」

 と叫んだ。

「いや、鬼は全て滅んだよ」

「えっ?」

「人間や妖怪がいっしょになって、鬼を見事に倒したのさ。もう、鬼が生まれることはないだろうよ」

 小春は、月影や桜雪たちのことを思い浮かべた。

「じゃあ、私のやるべきことって・・・」

「それは、あなた自身が一番よくわかっていることよ」

 小春は、夕夏の顔をじっと見つめた。

「あなたがその使命を終えたら、またここに戻っておいで。そしたら、いっしょにこの川を渡ろう」

 夕夏は、そう言って小春に微笑みかけた。

 その微笑んだ顔が、目もくらむような光で見えなくなった。

 小春は、急に腹部に激痛が走るのを感じた。


 晶紀は、小春を背負ったまま山を下りた。

 自分の服の袖を裂いて小春の腹部に巻きつけ、止血しようとしたが、それでも地面に血が点々と落ちていく。

 小春を助けることができるのは自分しかいない。そう思いながら、晶紀は休むことなく北の門へと向かった。

 途中、何度も倒れそうになった。しかし、歩みを止めなかった。持てる力の全てを振り絞って、晶紀は小春を運び続けた。

 桜雪たち一行が、大府の北門の見えるところまで戻ってきた。

「なんだ、この有様は?」

 北門が無残に破壊されているのが、遠くからでも分かった。桜雪が、それを見て思わず叫んだ。

「もしかして、鬼の襲撃に遭ったのでは?」

 正宗の言葉を聞いて、兵士たちに緊張が走る。

「まさか、大府が鬼に滅ぼされたのか?」

 兵士の一人が叫んだ。一行はできる限りの早足で行進を続けた。

 やがて門の近くに兵士たちが集まっているのが見えた。相手もこちらに気づいたようだ。誰かがこちらに向かって駆け出した。

「桜雪さん、ご無事でしたか」

 それは佐助だった。北門の惨状に目を奪われている兵士たちを見て、佐助が鬼に襲われたことを説明した。

「すると、鬼はあっという間に消え去ったと?」

「我々は、小春さんが何らかの方法で鬼を退治してくれたものと思っています。晶紀さんという方が小春さんに助けを求めてくれたのです」

「晶紀殿が?」

「桜雪さんもご存じの方ですか? こうして、戻ってくるのを待っているのですが、一向に帰ってくる気配がないので、今、探しに行こうかと話していたところで」

 桜雪と佐助が話をしている時、月影がふと、遠くからこちらに近づいてくる人影を見つけた。

「あれは誰だろうか?」

 月影の声に、桜雪が月影の見ているほうを見遣った。

「誰かを背負っているように見えますな」

 そう言って、桜雪はその人影のほうへと歩いていった。

 その後ろを、月影も付いて行く。

 相手は誰かがこちらに向かってくる姿が見えたらしく、大声で

「助けて下さい」

 と叫んだ。

 桜雪と月影が、その声を聞いて駆け出した。

「あれは晶紀殿ではないか」

 桜雪が、人影が晶紀であることに気づいた。

「背負っているのは、もしかして小春か?」

 月影は、小春の身に何かあったのだと思い不安になった。

 桜雪が近づいてきたのを見て安心したのか、晶紀は前に倒れ込みそうになった。桜雪が慌てて腕で抱え込む。

「小春様が怪我をしています。すぐに手当を、お願いします」

 晶紀は、それを言うのがやっとだった。疲れ果て、桜雪の腕の中で気を失ってしまった。

「ここまで小春殿を背負ってきたのか?」

 桜雪は、驚いた顔で晶紀を見つめた。

 月影が、すぐに小春を晶紀の背から降ろし、怪我をしている箇所を探した。

「脇腹をやられているようだな」

 月影が脇腹にある血に染まった傷のあたりに右手を添えると、右手が輝き始めた。

「小春、目を開けろ。もう大丈夫だ」

 月影の呼びかけに、小春はゆっくりと目を開いた。

「ここはどこだ?」

 小春が問いかける。

「大府の北門の近くだ。晶紀殿が、お前をここまで運んでくれたんだ」

 月影がそう答えたのを聞いて、小春は目を丸くした。

「晶紀さんが?」

 桜雪に抱きかかえられていた晶紀が、意識を取り戻した。

「小春様!」

 起き上がり、自分の顔を見ていた小春に、晶紀は飛びついた。

 小春に抱きついたまま、晶紀は大声で泣いた。

「晶紀さん・・・」

 小春は、晶紀の背中をさすりながら

「ありがとう」

 と言った。


「鬼は全て滅んだよ」

 小春は、皆にそう告げた。

「なぜ、そうだとわかるんだ?」

 月影が尋ねた。

「教えてもらったんだ」

「教えてもらった? 誰に?」

「私の大切な友人からさ」

 小春の言葉に月影は怪訝な表情をした。

「俺たちは、青い鬼を一人倒したよ。小春殿は誰と闘ったのだ?」

 桜雪が、小春に問うた。

「冬音だ。晶紀さんのおかげで倒すことができたよ」

「私は、見ていることしかできませんでした」

 晶紀が慌てて言い足した。

「そうか、冬音は死んだか」

 桜雪は、そう言って空を見上げた。その目は少し、悲しげであった。

「すると、あの赤鬼たちがいなくなったのは、青鬼や冬音が倒されたからなんですね。やはり、小春さんのおかげで大府は救われたことになる。兵士長殿の考えは正しかったんだ」

 佐助は嬉しげに、そして誇らしげに口を開く。晶紀が佐助のほうを見て

「三玉様や伊之助様は?」

 と心配そうな顔で問い掛けた。

「心配いりません。鬼と闘って負傷しましたが、命に別状はありませんよ」

 佐助からそう聞いて、晶紀は安堵の表情を浮かべた。

「小春、お前、刀はどうした?」

 月影は、小春が刀を持っていないことに気づいた。

「あの山の頂上に置きっぱなしだ」

「俺が取りに行ってこよう」

 月影はそう言って山へと向かった。

「小春殿、俺たちは年寄衆に、冬音たちが倒されたことを伝えに行ってくる。しばらく、ここで休んでいてくれ」

 桜雪がそう言い残して、佐助とともに北門のほうへと去っていった。他の兵士や人足たちも大府の中へ入ってしまい、小春と晶紀の二人だけが残る形となった。

「小春様、本当に鬼はすべて滅んだのですか?」

 晶紀が小春に問いかける。

「ああ、間違いないよ」

 小春がその問いに答えた。

「そうですか・・・」

 晶紀があまり喜んだ表情をしないのを小春は不思議に思った。

「鬼がいなくなったんだから、お祝いをしなくちゃな」

 小春はそう言って晶紀に向かって無理に笑ってみせた。

「そうですね。ならば、小春様が大府に入ることができるようにお願いしなくては」

「いや、それは無理だろう」

「鬼を退けたのは小春様がいたからこそ可能だったんですから、小春様には大府へ入る権利がありますわ」

「別に、大府の民に祝ってもらうつもりなどないよ。外でもお祝いはできるだろ?」

「もしできることなら、小春様には大府にずっと滞在していただきたいのです」

「ずっとここにいることはできないよ」

「どうしてですか?」

「いずれ、ここを去るつもりだからさ」

「そんなこと、私は許しません」

 晶紀は、また目に涙をためながら小春に向かって言い放った。

「晶紀さん?」

「小春様はきっと、刀を人間にお戻しになるおつもりなのでしょう」

 晶紀は、それだけ言うと、わっと泣き崩れた。

「小春様が・・・消え去るなんて・・・いやです」

 そんな晶紀の姿を見ながら、小春は気を失っていた時に自分の身に起こった出来事を話し始めた。

「実はね、さっき空を飛ぶ夢を見ていたんだ。身体がどんどん天へ昇っていって、大きな川に着いたよ。その川を渡れば、黄泉の国なんだと思った」

 晶紀は、小春の話を聞いて泣くのを止めた。

「でもね、ある人に、まだここに来るのは早いって言われたんだ。まだ、やるべきことが残っているってね」

「やるべきこと?」

「それが済んだら、次はいっしょに川を渡ることができる」

 小春は、腕に負っていた傷に触れながら話を続けた。

「これは夢だったのかも知れない。でも、私は信じたいんだ。死後の世界はあるって。だから、私は本当に消え去るわけじゃないよ。死後の世界へ旅立つことができるはずだ」

「でも、この世界からは消え去ってしまうでしょ?」

「ああ、いずれ晶紀さんだってこの世を去るだろう? それと一緒さ」

 小春は、晶紀に笑顔を向けた。

「ならば、私がこの世を去る時まで待ってほしいです」

 晶紀が、すがるような目で小春を見つめる。

 その目をじっと見ていた小春は

「わかった。今はこの話はやめよう」

 と、それ以上のことは口にするのを止めた。


 陽は傾き、薄暗い空の下、月影は山の頂に到着した。

 降り積もっていた雪は溶けていた。湿った地面に大刀が落ちているのを見つけ、月影が近づいていった。

(なんだ?)

 月影には、大刀が淡い光をたたえているように見えた。まるで、鬼が滅んだことを喜んでいるかのように。

 その大刀に、月影はそっと手を伸ばした。

 手が大刀に触れる直前、まるで電気が流れたかのように腕全体に衝撃が走り、月影は思わず手を引っ込めた。

「どういうことだ?」

 過去に、月影が大刀に触ったことは何度かある。その時は何の問題もなかった。

 鬼が滅んだことで、この刀に変化した者の願いは成就した。それが関係しているのかも知れないと月影は考えた。

「俺が刀を運ぶことはできそうにないな」

 そう言って、月影は刀を持っていく事をあきらめた。

 ふと、刀の近くに落ちていた槍に目を遣った。

「これは冬音が使っていたものだろう」

 その槍をつかもうとした時である。まるで氷が熱せられたかのように、槍は溶け去ってしまった。

「これも、冬音しか使えない代物だったわけか」

 結局、月影は何も持たずに山を下りた。


 桜雪は年寄衆に、冬音と風華が倒されたことを報告した。

「それは本当か?」

 小太りの男性が目をしばたたいて叫んだ。

「本当です。おそらく、もう鬼は現れないでしょう」

「誰の手柄なのだ? 桜雪、お前か?」

 白髪頭の男性が尋ねた。

「拙者ではありません。一人は小春という者。そしてもう一人は」

 桜雪は、年寄衆の顔を見渡した後に話を続けた。

「雷獣という妖怪です」

「なに、妖怪じゃと?」

 年寄衆は皆、驚いた顔をした。

「雷獣は、自分の身を犠牲にして鬼を倒してくれました。もし、この者の助けがなければ、我々はおそらく死んでいました」

 桜雪は、何も言うことのできない年寄衆に向かってさらに話を続けた。

「そして、冬音を倒した小春殿もまた妖怪の仲間。大府は、妖怪に救われたのです」

 しばらくの間、沈黙の時間が流れた。

 この静寂を破ったのは桜雪だった。

「大府の救い主である小春殿に、我々は最大限の感謝を伝えなければならないでしょう。結界を解く許可を得たい」

 桜雪は強い口調で

「さあ、ご裁断を」

 と迫った。


 夜になり、大府の城壁の頂に赤い炎が揺らめくのが遠くまで続いているのが見える。

 小春は、立ち上がって山のほうを見遣っていた。山には灯籠の灯りが麓から頂まで一直線に伸びている。

「晶紀さん、あの場所からここまで私を背負ってきたのだな」

 晶紀は、まだ座り込んだままだった。

「私も驚きました。こんなに歩いていたなんて」

「私は、晶紀さんに命を救われたようなものだな」

「そんな、私だって小春様に命を救われたのです。それも二度も」

「そうだったか?」

「そうです。だから、私は小春様の命をもう一度お救いしなければなりません」

 晶紀は真剣な顔で答えたが、小春は笑みを浮かべていた。

「心配しなくても、晶紀さんに黙って消えてしまったりはしないよ」

 小春は、晶紀にそう約束した。


 暗い夜道の中、月影が戻ってくるのが見えた。

「刀を持ってくることができなかった」

 月影が小春に告げた。

「どうして?」

「わからない。俺では触れることができなかったんだ。お前しか触ることができないのかも知れない」

「そうか。まあ、誰かに取られる心配はなさそうだし、後で取りに行くよ」

「それなら、私も付いていきます」

 晶紀が小春に迫った。

「わかったよ、一緒に行こう」

 小春があきらめ顔で応えた。

 しばらく話をしていると、桜雪も戻ってきた。

「すまない」

 小春と月影の顔を見て、桜雪は落胆した顔で二人に謝った。

「なにが?」

 小春が訝しげに尋ねた。

「大府に張られた結界を解くように頼んでみたが、却下された」

「別にいいさ」

「しかし、あなた方は大府を救ってくれた英雄だ。本来なら、大府の民から祝福を受けるべきだ」

 桜雪の言葉を聞いていた晶紀が

「それなら、外でお祝いをすればいいじゃありませんか」

 と提案した。

「外で?」

「そうです。私の勤めているお店の店長さんに、料理をお願いしてみますわ」

「なるほど、それは面白そうだな。会場の設営は兵士たちに声を掛けてみよう」

「鬼が倒されたのです。きっと皆、協力してくれますわ」

 晶紀は嬉しそうに叫んだ。

 そんな晶紀の姿を、小春と月影は何も言わず眺めていた。


 数日が経過して、鬼が倒されたことは大府全体に広まった。

 小春という名の妖怪が鬼を倒したことも知れ渡り、その姿をひと目見ようと小春や月影のいる山の麓までたくさんの人々が訪れるようになった。

 差し入れを持参する者もいて、様々な食料や品物であたりが埋め尽くされていった。

「困ったな。こんなにもらっても食べ切れないぞ」

 月影の言葉に

「今まで大したものが食べられなかったからな。贅沢できていいんじゃないか」

 と小春は笑いながら応えた。

 お祝いの宴は、準備が着々と進められていた。

 宴の日を決め、晶紀が小春の下へ伝えにやって来た。

「小春様、楽しみに待っていてくださいね」

 晶紀の顔は、宴の日が待ち遠しくて仕方がないというような表情だった。

「わかった、楽しみにしてるよ」

 小春が、晶紀に返答した。

「月影様も、ご参加よろしくお願いします」

「ああ」

 月影は微笑みながら返事をした。

 しかし、月影は宴の前に大府を去るつもりだった。

「小春、俺は仙蛇の谷へ戻るよ」

「どうして?」

「こういうのは苦手でな。言うと止められそうだから、黙って立ち去るつもりだ」

「そうか」

「お前はどうする?」

「私がいなくなると、晶紀さんが探しに出ていきそうだからな。もうしばらくはここにいるよ」

「では、ここでお別れだな」

「兄者、今までいろいろと世話を掛けたな。ありがとう」

 小春のその言葉に、月影は二度と小春に会うことはないだろうと悟った。

 必要最小限の荷物を背負い、月影は小春に

「さらばだ」

 と一言だけ告げて、後ろを振り返ることなく森の中を進んでいった。

 その後ろ姿が見えなくなるまで、小春は月影をじっと見つめていた。

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