第48話 鬼の襲撃

 冬音が逃げてから三日が過ぎた。

 噂が広がるのは早いものである。大府の近辺に鬼が現れたことはあっという間に知れ渡った。

 しかし、大府から逃げようとするものはいなかった。まだ、それほど脅威であるとは考えていないのだろう。

 その状況が一変するのは、さらに二日後のことである。

 大府から物資を他の村へ運び出そうとしていた商人が鬼に襲われた。十人ほどが一瞬にして殺されたのである。

 この頃から、物資の流通が滞り始めた。鬼に襲われるという危険を冒してまで大府へ物を運ぶ商人などほとんどいない。

 物資が届かなければ商売はできない。売り物を外に運び出すこともできない。あんなに賑わっていた大通りの店はほとんど閉まり、道を歩く人の数も急激に少なくなっていった。

 大府を立ち去ろうとする者も現れ始めた。中には逃げ出す兵士までいた。

 そんな状況の中、桜雪と正宗が、新たな札といっしょに大府まで戻ってきた。

「どうしたことだ。店がほとんど閉まっている」

 大通りを歩きながら、桜雪が不思議そうにつぶやいた。

「確かにおかしいですね」

 正宗も首をかしげる。

 集会所に到着した桜雪が

「何かあったのか?」

 と取り次ぎに尋ねた。

「桜雪様、一大事でございます。とにかく早く年寄衆の下へ。今は松の間にいらっしゃいます」

 桜雪は二階へと上がり、松の絵が描かれた襖の前に座った。

「桜雪でございます。ただいま、八角村より戻りました」

「おう、桜雪か。よく戻ってきた」

 襖を開けて中へ入る。年寄衆の顔には苦渋に満ちた表情が浮かんでいた。

「いったい、何があったのですか?」

 桜雪の言葉に、白髪頭の男性が応えた。

「我々は、冬音に騙されておったのだ」


 桜雪は、冬音が逃げてしまったこと、それから鬼が大府の近辺に出没し始めたこと、そして、それは生贄を差し出さない限り続くということを年寄衆から聞いた。

「店がほとんど開いていなかったのはそういうわけですか」

「もはや、大府は陸の孤島だ。鬼を恐れて物を運ぶ者はいなくなった」

「食料だけはなんとか調達しなければ。兵士を護衛に付けましょう」

「桜雪よ、もう一度兵士長として兵士たちを束ねてもらえぬか?」

「それは構いませんが、紫音は?」

「紫音は冬音に斬られ右腕を失った。今は療養中じゃ」

 桜雪は言葉を失った。


 桜雪と正宗はすぐに療養所へ向かった。

「信じられん。あの紫音が斬られるとは」

 道すがら、桜雪が口を開いた。正宗も神妙な顔をしてうなずく。

 桜雪、正宗、そして紫音の三人は、大府の中で最も優れた剣士として有名だった。桜雪と正宗は、どの流派にも属さず、それぞれのいいところだけを取り上げた無手勝流である。それでも強いわけだから、剣の才能があったのだろう。対する紫音は一子相伝の伝承者として小さい頃から父親に鍛え上げられてきた。その精緻な剣さばきには、桜雪も正宗も一目置いていたほどだ。実際、大府で毎年行われる剣術大会で、二人は紫音にほとんど勝ったことがなかった。その紫音が斬られた。二人にとって、それは信じられないことであった。

 一室に入ると、そこには紫音が眠っていた。

 二人に気がついたのか、紫音は目を開けた。

「戻ったのか」

「ああ」

 桜雪が紫音に一言、返事をした。

「具合はどうですか?」

 正宗が心配そうな顔で紫音に尋ねた。

「だいぶよくなったよ」

 正宗の方を向いて、紫音は話を続ける。

「しかし、しくじったよ。色香に惑わされてしまったな」

 紫音はニヤリと笑みを浮かべた。

「お前ほどの者がどうして・・・」

 桜雪が問いかける。

「油断した・・・いや、それは違うな。相手は鬼かもしれないから、俺はかなり警戒していた。だが、奴の動きが早すぎた。気がついたときには刀を奪われ、右腕を落とされていたよ」

 紫音の言葉に二人は戦慄した。紫音がいとも簡単に刀を奪われてしまうなど、考えられなかったからだ。

「確信したよ。冬音は人間ではない。我々が闘って勝てる相手だとは思えない。二人とも用心するんだ」

 しばらくの間、無言の時間が過ぎる。いつもなら、外の賑わいが聞こえてくるのだが、今は静まり返っていた。

「分かった。傷が瘉えるまでは、ゆっくりと療養しな。こちらの心配はいらないから」

 桜雪が紫音に静かに告げた。

「ああ、そうするよ。もう、兵士に戻るのは無理だしな」

「お前ならできるさ。まだ左腕がある」

 桜雪が笑みを浮かべて言った。

「おい、まだこき使う気かよ」

 紫音も笑みを浮かべた。


 桜雪はまず、兵士全員に対して鬼の対処法を伝授した。まずは攻撃する瞬間を狙い、前に進んで足下に潜り込む。横や後ろに逃げれば、衝撃波で吹き飛ばされるから絶対に避けなければならない。足下に入ったら両足を斬る。しかし、鬼の足は固く、完全に斬るのは無理だ。だから、刀を二本携えるか、二人が同時に斬り込む。

 口で説明するのは簡単だが、桜雪のように剣術に優れ、かつ肝が座っていない限り、実際に鬼と対峙して一発で成功する可能性はかなり低いだろう。そこで、桜雪は特別な練習道具を考案した。道具と言っても、足に見立てた二本の木の柱に台を取り付け、その上に人を立たせただけの単純なものだ。鬼の棍棒代わりに、台の上の人間が水を下に落とす。その水を浴びる前に台の下に入ることができれば成功だ。これが意外に難しく、多くの兵士がずぶ濡れにされた。

 この訓練を成功させる事のできる兵士は、斬り込み隊として鬼と対峙する役目を負った。その他の兵士は鬼が倒れた後の後始末に徹するわけだ。

 次に桜雪は商人に掛け合い、食料だけは大府へと流れるようにした。最初は桜雪の申し出を断っていた商人たちであったが、粘り強い説得に加え、このまま兵糧攻めに屈していたら、大府の民は全て餓死することになるという危機感もあり、最終的にはほとんどの商人たちが応じてくれた。

 今のところ出てくるのは赤鬼ばかり。敵の大将は現れない。

 しかし、赤鬼が倒されるようになれば、いつか冬音は姿を見せるはずだ。

「冬音は妖術を使うようだが、それなら封術が効くはずだ」

 桜雪は、封術で冬音の恐るべき力を封じ込めるつもりだった。

 桜雪の指導が効果を見せ始めた。兵士の力で赤鬼を倒すことができたのだ。

 大府は、なんとか鬼に対処することができた。青鬼が姿を現すまでは。


 北門の近くに、霧が現れた。

 兵士たちは、鬼の出現に対して警戒態勢をとった。

 背筋に水が流れるような感覚を覚え、押さえつけられるような圧力を感じる。

 間違いなく、鬼の襲来の前兆であった。

 やがて、門から見て橋を挟んだ向こう側に黒い煙が現れた。

 それはだんだんと人の形へと変化していった。

 いつも現れる赤鬼ではなかった。それよりかなり小さい姿であった。

 青々とした髪が風になびいている。真っ青な肌に虎柄のさらしと腰巻きが妙に艶かしく見えた。

 その女はゆっくりと、橋を渡り始めた。初めて見る相手に兵士たちは一瞬、戸惑ったが、妖術を使うことを警戒し、素早く一列に並んで封術の準備をした。

 女が手を伸ばして十字架の形を作る。

「防の陣!」

 兵士の一人がそう叫んだと同時に、あたりを無数の稲妻が走った。

 兵士たちの周囲には稲妻が及ばないのを見て、女は笑みを浮かべて言った。

「封術で防ぐつもりかい? じゃあ、これならどうだい」

 稲妻が消え去り、女はまた前に進み始めた。女の立っていたあたりは、橋が焦げて火の点いた箇所もあった。

 兵士たちが一斉に刀を抜く。

 女は気にする様子もなく、歩きながら手にしていた鞭を軽く打った。

 兵士の一人が倒れた。首を掻き切られていた。

 兵士たちはその様子を見て動揺したが

「一斉に斬りかかるぞ」

 という号令とともに女に斬り込んでいった。

 その数六人。

 六つの刃が女を斬り刻もうとしたその時、女は上空へふわりと舞い上がった。

 全員、女がどこへ行ったのか見失った。その時、女は六人の兵士の頭上で逆さになっていた。

 その状態で女が鞭を振るった。

 六人の兵士の頭が胴体から離れ、首から放たれる血の噴水があたりを赤く染めた。

 女は、首を失った兵士に背を向けて着地すると、門をくぐり中へ入っていった。


 同時刻、南門にも鬼が現れた。

 冬音が姿を現したのだ。

 手には長槍を携えていた。その刃は氷のようで、触れれば瞬く間に凍りつきそうだ。

 橋を渡り、門に近づく冬音に対し、兵士は刀を抜いて待ち構えた。

 突然、あたりが吹雪に覆われた。

「いかん、封術を準備しろ」

 兵士たちが慌てて札を懐から出す。

「防の陣!」

 の掛け声とともに、全員が印を結ぶと、吹雪は消え去っていった。

 しかし、冬音は動じることなく近づいてくる。

 長槍と刀では当然、長槍の方が間合いは広い。このまま冬音に近づかれたら、一方的に兵士の方が斬られてしまう。

 だが、封術を解くことはできない。解けば、たちまち吹雪によって凍りついてしまうだろう。

「いったん、門の内側へ入るぞ」

 結界の内側に入れば、妖術は消え去るはずだ。兵士たちはそう考えた。

 兵士たちが中へ入るのを見て、冬音は立ち止まった。

「ふふっ、考えたわね」

 冬音はそう言って、槍を構えた。兵士たちの方へ切先をピタリと向けている。

 兵士の数は八人。

 冬音がまた歩を進め始めた。

 冬音の間合いに入らないよう、兵士たちは少しずつ冬音を取り囲む形に並んだ。

 兵士たちの円陣の中心に冬音がいる。冬音の背後にいる兵士たちが、少しずつ距離を詰めていった。

 突然、冬音は持っていた槍を半回転させると、背後に槍を突いた。顔は前方を向いたままだ。

 槍は正確に背後にいた兵士の胸に刺さっていた。その一撃で、兵士は絶命した。

 槍を引き抜くと、間髪入れずに背後へ槍を突く。さらに二名がその餌食になった。

 残った五人はその様子に慌て、一斉に冬音に襲いかかった。

 冬音は、槍を思い切り横に薙いだ。

 五人の兵士の首が一斉に掻き切られた。皮一枚残しただけの者もいた。

 兵士たちの遺体を残し、冬音は前へと進んでいった。


 桜雪は、二人の鬼が南北から同時に攻めてきたことを聞き、大府の中央にある広場にありったけの兵士を集めた。

 住民たちは皆、家の中に隠れ、道を歩く者は誰もいない。

 桜雪は、遥か彼方からゆっくりと近づいてくる白い姿を眺めていた。それは炎のように揺らいで見えた。

 冬音は、少し離れた場所で歩みを止めた。

 北側では、雷縛童女が笑みを浮かべながら兵士たちを眺めている。

「桜雪様、お久しゅうございます」

「冬音殿・・・」

 冬音は、寂しげな表情で桜雪の顔を見ていた。

「今日は、話し合いに参りました」

「門番を皆殺しにして話し合いも何もなかろう」

「そうしなければ通してはもらえませんから」

「俺には、ただの脅しとしか思えないのだが」

「どうお思いになろうと構いませぬ」

 冬音は、桜雪の顔を真正面から見据えたままだ。

「もうすでにご存知かも知れませんが、私たちには人間の死体が必要です」

「そのようだな」

「人間たちは生きていくために動物を狩るでしょ? それと同じことではありませんか?」

 桜雪は何も言えなかった。狩られる動物の気持ちが初めて分かったような気がした。

「必要なだけの人間さえ用意して頂ければ、私たちはそれ以上の人間を狩ることはしません。約束します」

「これからは生贄を用意してほしいということか?」

「そう約束して下されば、次の新月の夜まで鬼は決して出しませぬ。どうか、私の頼みを聞いてはくれぬか」

「俺にそれを決める権限はない」

「年寄衆に任せていても、何もまとまらないのはあなたもよくご存知でしょう?」

「俺の役目は、こうして現れた侵入者を倒すことのみ」

 冬音の顔に怒りの表情が浮かんだ。

「妖術が使えなければ私たちを倒せるとでも?」

「これだけの人数に勝てるつもりか?」

「そうでなければ、こうして来ることはないでしょ?」

 冬音の顔に笑みがこぼれた。桜雪は背筋に冷たいものが走るように感じた。今まで桜雪が知っていた冬音とはまるで別の存在であった。こうして対峙しているだけでも、膝から崩れ落ちそうになるほど圧倒的な力で押さえつけられているようだった。周りの兵士たちも、冬音の持つ強大な圧力に飲み込まれていた。

「ならば、俺が相手になろう」

 目の前の恐るべき力に抗うように、桜雪は刀を抜いた。

「桜雪様・・・」

 冬音の顔には何の感情も見いだせなかった。槍を構えることもなく、桜雪の顔をじっと見ている。

「なぜ構えぬ?」

 刀を中段に構え、桜雪は冬音に尋ねた。

 冬音は、ゆっくりと槍を構えた。槍の切先は、桜雪の刀の切先に向けられている。

 桜雪は少しずつ冬音の下へと近づいていった。その目は、冬音の顔を凝視していた。

 冬音も、桜雪の顔をじっと見つめている。桜雪には、その顔が苦悶の表情を浮かべているように感じた。

 桜雪が、冬音の槍の届く範囲まで入った瞬間、冬音は槍を桜雪の顔めがけて突いた。

 桜雪は横に避けながら刃を槍にあてがい、そのまま冬音の方へと近づいていった。

 冬音の目の前まで来ると、桜雪は冬音の頭上へ刀を振り下ろした。

 冬音が、刃を槍の柄の部分で受け止めた。同時に強烈な膝蹴りが桜雪を襲った。

 みぞおちを蹴られ、桜雪は前方に倒れ込んでしまった。

 苦痛に顔をゆがめながらも、桜雪は振り向きざま刀を構えようとした。

 その顔の前に、槍の切先がピタリと止まった。

「まだ続けますか?」

 冬音が尋ねた。

「なぜ殺さぬ?」

 息を弾ませながら、桜雪が問うた。

 冬音は何も言わない。憂いを帯びた表情で桜雪の顔を見ている。

「桜雪さん、逃げて下さい」

 正宗の声が聞こえた。

 桜雪が、冬音から遠ざかった。

 いつの間にか、弓を持った兵士たちが並んでいた。

「放て!」

 正宗の声と同時に、冬音に向かって矢が放たれた。

 しかし、その一本も冬音に当たることはなかった。冬音は横へと数歩動いただけである。まるで、飛んでくる矢を全て見切っているようだ。

 しかも驚いたことに、その矢の一本を冬音は手に持っていた。

 冬音は手に持った矢を槍のように投げた。

 その矢が弓を持った兵士の一人に命中した。

「その矢を放てば、兵士が一人ずつ死ぬことになる」

 冬音が警告した。

 正宗は、それ以上命令することができなくなった。

「私たちの願い、聞き入れてはもらえぬようだな」

 そう言い残すと、冬音はゆっくりと門の方へと向かい去っていった。

 同時に、雷縛童女も元来た道を戻っていく。

 兵士たちはその二人をただ見ていることしかできなかった。

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