第43話 甘美な罠
桜雪、正宗、そして冬音の三人は、食事が終わった後も酒を酌み交わしながら歓談していた。
「白魂は冬になると雪がたくさん降るので、お酒を雪の中に埋めて熟成させるんです。口あたりが柔らかくなって、つい飲みすぎてしまうものだから、酔いつぶれる人が多くて。だから『うわばみの酒』と呼ばれるようになったんですの」
「酒飲みのための酒、ということですね。そんなに美味しいのなら飲んでみたいものです」
「正宗、お前、去年の宴の席で酔いつぶれて立てなくなっただろ。また恥をかくことになるぞ」
桜雪がそう言って笑い出す。釣られて冬音も笑みを浮かべた。
「嫌だなあ、桜雪さん。そんな事、思い出さないでくださいよ」
頭を掻きながら、正宗はふと窓から外を眺めた。
「あれ、もう夜ですよ」
「本当だ。もう、そんなに時間が経つのか」
正宗の言葉に、桜雪も外を見てつぶやいた。
「では、そろそろお開きにしましょうか」
冬音がそう言って膳を運ぼうとするのを見て
「冬音殿、後片付けは俺がしますよ」
と桜雪が止めようとするが、冬音は首を横に振った。
「私が勝手に押し掛けて料理したんですもの。最後までさせて下さいな」
「では、皆でやりますか。その方が早く終わりますよ」
正宗の提案で、三人が食器を洗うことになった。
桜雪と冬音が隣り合って作業をしているのを、少し離れたところで皿を洗っていた正宗が、じっと見ている。その視線に気づいた桜雪が
「どうした?」
と尋ねた。
「いや、こうして見ていると、仲のいい夫婦に見えたものですから」
そう言われて喜んだのは冬音だ。
「まあ、嬉しいわ、夫婦だなんて。ねえ、あなた」
少し首を傾げながら、冬音は桜雪の顔を覗き込んだ。その色気ある仕草に、桜雪はしばらく言葉を発することができなかった。
「あ、いや、夫婦とは、ね」
しどろもどろになる桜雪を見て、正宗が声を押し殺して笑っている。
「何がおかしい」
顔を真っ赤にして怒る桜雪に正宗は
「さっきの仕返しですよ」
と言い返した。
食器を全て洗い終え、正宗が
「では、私はそろそろお暇しますよ」
と桜雪に告げた。
「それでは私も宿へ戻りますわ」
冬音はそう言って桜雪の方へ顔を向け
「今日は本当に楽しかったわ」
と笑顔で話し掛ける。
「冬音殿、美味しい料理をありがとうございました」
桜雪が、軽く会釈してから冬音の顔を見て微笑んだ。お互いに笑みを浮かべながら、しばらくの間二人は見つめ合っている。その様子を見ていた正宗は
「桜雪さん、私の家は冬音さんの宿とは逆の方向です。もう夜ですし、桜雪さんが宿まで送ってあげたほうがいいんじゃないですか」
と提案した。
「そうだな・・・では冬音殿、一緒に参りましょう」
「まあ、そうして下さると助かります」
こうして、三人は桜雪の家を後にした。
途中で正宗と別れ、桜雪と冬音の二人は宿へと向かった。まだ人通りは多く、店の中からは話し声や笑い声が絶えず聞こえてくる。冬音の姿はここでも人目を引き、多くの男性がすれ違いざまに後ろを振り向いた。
「相変わらず賑やかですわね」
店の中から呆けた顔で自分を見ている男達を横目に冬音が口を開いた。
「もう少し静かになってくれると嬉しいんですがね」
「でも、いろんな場所から人が集まるから、お店にいると面白い話が拝聴できて飽きませんわ」
「しかし、集まるのはいい人間ばかりではないですから。我々の仕事も減ることはありませんよ」
「兵士のお仕事も大変なのですね。ところで、桜雪様は、どうして兵士になられたのですか?」
「父親も兵士でしたからね。子供の頃から自分は兵士になるんだと思っていました」
桜雪の家系は代々、兵士として名を馳せてきた。中でも桜雪は剣術に長け、周囲の信頼も厚かったため、大府の中でも屈指の人物として一目置かれていた。
彼に関する逸話は数多くあるが、武勇談ばかりとは限らない。
「何があったんだ?」
「女房が浮気していると旦那が疑っているらしくて、女房を人質に浮気相手を連れて来いと騒いでいるらしいです」
桜雪の質問に、兵士の一人が答える。桜雪は頬の傷を触りながらしばらく思案していたが、やがて
「よし。じゃあ、俺がその浮気相手として近づいてみよう」
と言った。
部屋の中では、旦那が女房の首を左腕で締め付けた状態で立っていた。右手には包丁を持ち、女房の顔の近くにかざしている。
桜雪が部屋に入ってくるのを見て、旦那が叫んだ。
「桜雪さんか。俺は浮気相手を連れて来いって言ったんだ」
「だから、こうして来たんだ」
桜雪の言葉に、旦那は絶句した。
「まさか・・・」
「俺は丸腰だ。それでも人質がいなければ心配か? お前は臆病者だな」
本来なら、いくら丸腰とはいえ兵士である桜雪に包丁一本で勝てるなどとは思わないだろう。しかし、桜雪の挑発にまんまと乗せられてしまった。
「貴様、言わせておけば」
女房から手を放し、旦那は包丁を振り上げて桜雪に突進した。しかし、桜雪に腕を掴まれ、あっという間に組み伏せられてしまった。
こうして事件は解決したのだが、思わぬおまけが付いた。桜雪が浮気相手だったということが噂になったのだ。もちろん、これは相手を動揺させるためについた嘘なのだが、しばらくの間、その噂を消すのに桜雪は大変苦労したという。
宿に到着し、冬音が桜雪の着物の袖をそっと掴んだ。
「少し中で休憩なさって下さいな」
「しかし・・・」
「夜とはいえ、まだ宵の口。そんなに急いで帰る必要もないでしょ?」
首を傾げ、微笑みをたたえた冬音の顔に魅了されるように桜雪はうなずき、宿の中へ引き込まれていった。
暗がりの中、小春と晶紀の二人は、石畳の道と青白い炎を頼りに前へ進んでいた。胸を張って堂々とした小春に対し、その後ろを歩く晶紀は及び腰で、あたりを気にしながら歩いていた。
「あの広い道に出られたら、左に進めば洞窟の入り口にたどり着くはずだ」
その言葉に反応がないので、小春は振り向いて晶紀の様子を見た。
「晶紀さん、大丈夫かい?」
「なんだか怖くて・・・お化けでも出そうな雰囲気」
「悪ささえしなければ、別に出ても問題ないさ」
晶紀は両手をギュッと握りしめ、祈るような格好で歩いていた。よほど怖いのか、その手は震えている。小春は、晶紀の方へ手を差し出した。
「手をつないで行こう。少しは安心できるだろ?」
晶紀はうなずいて小春の手を握った。晶紀の手は氷のように冷たく、小春は驚いて
「晶紀さん、冷たい手をしているね」
と尋ねたが、晶紀は何も言わず、ただうなずくだけだった。
しばらくして、広い道にたどり着いた。左右には、道があることを示す炎が点々と輝いている。右の方から、気味の悪い咆哮のような風の音が聞こえてきた。音のする方向へ目を凝らしてみるが、暗くて何があるのか全く見えない。
「ここから左に進めばいいんだな」
小春がつぶやいた。すると晶紀が
「いいえ、右に進むのですよ」
と言い出す。
「右に行ったら永久に出られないよ」
「それでいいんです。私達はここから出ることはできないのです」
小春は、隣に立っている晶紀の方を見た。晶紀の目が赤く光り、自分を見つめている。
「まさか、炎獄童子がまだ乗り移っているのか?」
晶紀が右の方へ小春を連れて行こうと手を引っ張る。その力は恐ろしく強く、小春が抵抗しようとしても全く歯が立たない。
体が晶紀である以上、刀で傷つけるわけにもいかず、小春にはどうすることもできなかった。そのままズルズルと引きずられていくだけだ。
やがて、晶紀の顔に変化が現れた。小春の目の前で、晶紀の顔が崩れていく。肉が落ち、骨がむき出しになる。目玉は溶けてなくなり、その跡には深い穴が開いているだけだった。髪は抜け落ちて頭蓋骨がむき出しになる。至るところに蛆が湧き、耐え難い異臭まで放ち始めた。
小春は、その姿を見た瞬間、目の前の異形の化け物が晶紀ではないことを悟った。
古来、妖怪や幽霊といった存在は人間を恐怖に陥れることが仕事のようなものである。小春を襲った謎の化け物もその例に漏れず、普通なら相手が泣き叫び、気を失うほどのおぞましい姿で小春を怖がらせようとしている。しかし、小春は妖怪である。怖がらせるどころか、自分が晶紀ではないことを教える結果となってしまった。
小春は冷静に背中の大刀を手に持ち、自分の手を掴んでいる相手の腕に切りつけた。肘のあたりから切り落とされた腕は煙のように消えてなくなり、化け物は漆黒の渦に形を変え、不気味な笑い声とともに消え去ってしまった。
「いったい、何者だ?」
小春は、正面を見据えて闇の中に潜む何かを探した。少し進んだ先に何かがいるらしい。恐ろしいほどの冷たい冷気が、腐臭とともに漂ってくる。しかし、その正体は分からない。
しばらく、小春は立ち止まっていた。しかし、相手は襲ってくる気配がない。小春は、晶紀を探すことが先決だと考え、先に進むことは止めて、未知の何かを凝視しながら後退した。
いつの間にか、晶紀とはぐれたらしい。そう思った小春は、とりあえず来た道を引き返す。すると、道端でしゃがみこんで泣いている晶紀を発見した。
「晶紀さん、大丈夫かい?」
泣いている晶紀に近づき、声を掛ける。晶紀は顔を上げることなく、ただ泣くばかりだ。
「怖い目にあったのかい?」
「・・・化け物が現れたの」
「こっちにも出てきたよ。変な奴だったな。晶紀さんはどんな化け物を見たんだい?」
「こんな奴だよ」
そう言って上に向けた顔には目玉も鼻もなく、まるで骸骨のようだ。さすがの小春も、相手が晶紀ではないと知り驚いた。
そして相手にとっては運の悪いことに、小春は驚きのあまり刀を手に取り、あっという間に脳天から一刀両断にしてしまった。しかし、刀で斬った時の手応えは感じられず、また煙のように消えてしまう。
「からかっているのか?」
あたりを見渡し小春が叫ぶ。どこからともなく気味の悪い笑い声が聞こえてきた。それも一つではない。たくさんの笑い声が小春の神経を逆撫でする。
小春は、その笑い声を無視することに決め、晶紀の捜索に専念した。しばらくの間、笑い声が続いていたが、小春が怖がらないことに気づいたのか、やがて声はしなくなった。
あたりが静まり返る中、暗闇の中を小春は躊躇なく前進する。小春が全く恐怖を感じないので、相手はあきらめたらしく、それ以上は何も出てこなかった。
小春はついに、『風』の道の前まで戻ってきてしまった。しかし、途中で晶紀に会うことはできなかった。
「いったい、晶紀さんはどこへ行ってしまったんだ?」
小春が途方に暮れていたときである。遠くから悲鳴が聞こえてきた。小春はすぐに声のした方へ駆け出した。
晶紀は、姿勢を低くしながら小春の後ろを歩いていた。
あたりには、鬼が出没するときのような霧が立ち込め、青白い炎の明かり以外にはほとんど何も見えない。
時々、何者かがヒソヒソと話している声が聞こえてくる。何を言っているのかは分からないが、晶紀には自分のことについて話しているように思えてならない。
しかし、前を歩く小春は、全く気にする様子がなかった。それは晶紀にとって頼もしく見えたが、何の迷いもなく進んでいくことに少し不安も感じていた。
「小春様、道はこちらの方向で正しいのでしょうか?」
「ああ、間違いないよ」
自信ありげに答える小春を見て、晶紀は安心したようだ。それからは黙って歩き続けた。
やがて、小春がピタリと立ち止まった。晶紀は不思議に思い
「どうしましたか、小春様?」
と尋ねる。
「到着したよ」
そう小春に言われて、晶紀はあたりを見回す。しかし、霧に覆われて何も見えない。
小春は、振り向くことなく前方をじっと見ている。その後ろ姿に不安を抱き、晶紀は一歩後ずさった。
「どうしたんだい?」
小春が晶紀の顔を見た。その顔は小春そのものだ。しかし、晶紀は違和感を感じた。本物の小春ではないように思えたのだ。
すっと手を差し出す小春を見て、晶紀は首を横に振ってさらに後ろへと下がっていく。すると小春は目にも留まらぬ速さで晶紀に近づき、手首のあたりを掴んだ。その手は氷のように冷たく、晶紀は自分の体温が奪われていくように感じた。
「放して下さい」
晶紀は逃れようとするが、相手の力は強く、離れることができない。小春は不気味な笑みを浮かべ、晶紀の顔をじっと見ていた。
やがて、小春の額から血が流れ出した。同時に、小春の顔が溶けていく。目玉が落ち、顔の皮膚は溶けた蝋のように流れ、あとには頭骸骨だけが残った。
それを見た晶紀が甲高い悲鳴を上げた。小春は、恐怖におののく晶紀に顔を近づける。その顔は、骸骨しか残っていないというのに笑っているように見える。
晶紀は腰を抜かし、その場に倒れ込んでしまった。晶紀の上に覆いかぶさるように、もはや小春とは似ても似つかぬ異形の化け物も倒れ込む。
両腕を掴まれ、晶紀は身動きが取れなかった。晶紀の目の前には、もはや骨だけとなった顔が迫ってくる。
言葉にならない声を上げながら、晶紀は泣き叫んだ。顔を背け、目を閉じ、なんとか自由になろうともがき続けた。
どれくらい時間が経過しただろうか。晶紀にとっては恐ろしく長く感じたが、実際にはあっという間だったのかも知れない。気が付けば、化け物の姿はなく、一人で暴れていただけだった。
起き上がり、あたりを見渡す。まとわりつくような霧に囲まれ、自分がどこにいるのか全くわからない。闇のせいで消されたのか、全く音のない世界で唯一人、晶紀は途方に暮れていた。
また、ヒソヒソと話す声が聞こえてくる。それは笑い声に変わり、あちらから、こちらからと数が増えていく。
やがて笑い声は叫び声になり、その数はどんどん多くなっていった。晶紀は耳をふさぎ、耐えるしかなかった。
そんな時、晶紀の腕をつかむ者がいた。晶紀が驚いて振り向くと、そこにいたのは小春であった。
「小春様?」
「晶紀さんか?」
お互い、本物かどうか怪しんでいるようだった。二人で顔を見合わせて、相手の素性を見極めようとしていた。
やがて小春がポツリと言った。
「本物?」
晶紀がそれに応える。
「小春様も?」
そのうち、二人ともクスクスと笑いだした。すると先程まで聞こえていた笑い声や叫び声が急に途絶えた。小春と晶紀は、笑うのを止めて周囲を見渡した。
腐臭とともに、冷気が流れてくる。背筋が冷たくなり、晶紀はぶるっと震えた。闇の中で、なお黒々とした何者かが近づいてくるのを、小春はじっと見ていた。
それは、様々な生き物の寄せ集めのように見えた。獣の顔には肉がなく、骸骨と化している。黒光りした巨大な体には昆虫のように節があり、左右から四本ずつ、真っ黒な蜘蛛の足が生えていた。そして、その足とは別に、血のように真っ赤な二本の触手が肩のあたりから伸びていて、その先には剣のように鋭い刃が付いている。
小春は、この場で闘うべきか、それとも逃げるべきか、判断に迷った。相手の強さは計り知れず、しかも晶紀を守りながら闘うとなると、小春にとっては不利になる。かと言って、相手の足が速ければ、逃げ切ることなどできないだろう。相手に背を向ければ非常に危険だ。
小春が動かないのを見て、晶紀は小春に
「逃げましょう、小春様」
と言って立ち上がった。晶紀は、小春がそばにいることで、いくらか心が落ち着いたようだ。小春は決心し、晶紀の手を握って駆け出した。その手が暖かかったので、二人ともいくらか安心することができた。
冬音は、薄暗い宿に入り、すぐに灯りを点けた。
行灯の炎に照らされて、冬音の姿が淡く光り輝いているように桜雪には見えた。自分をじっと見つめている桜雪に気づいたのか、冬音が微笑みを浮かべながら尋ねる。
「どうなさいましたか、桜雪様」
その声に、桜雪は慌てて
「いや、失礼しました」
と目をそらした。
桜雪を居間に座らせた後、しばらくして冬音は台所から湯呑を持って戻ってきた。
「茶葉が手に入ったので、ほうじ茶を作りましたの。お酒の後には、お茶を飲むとさっぱりしますわよ」
冬音から湯呑を受け取り、桜雪は香ばしい匂いを楽しんだ。
しばしの間、二人は会話をせず、茶をすする音だけが部屋の中に響いていた。それに耐えきれなくなったのか、桜雪が話を始める。
「この茶葉は、どこで手に入れられたのですか?」
「大通りにあるお店でほうじ茶を注文したんですの。それが美味しかったので店の方にどこの茶葉なのか尋ねたら、特別に譲ってもらえて」
美人というものは、こういう時に得をするものである。茶葉は高級品だ。そう簡単に譲ってもらうことなどできないだろう。
「それは幸運でしたな。茶葉は滅多に手に入りませんから」
「そうですわね。私も、久しぶりにいただきました」
「俺も運がよかったようだ。こうして、美味しいお茶を飲むことができたのだから」
桜雪は、笑顔で冬音に語りかけた。その顔を、冬音は上目遣いで見つめる。その仕草が、桜雪には非常に可愛らしく見えた。
冬音は、その時々で異なる表情を見せる。ある時は妖艶であり、また別の時は清楚な雰囲気、そして今のように無邪気な少女のような顔を見せるときもある。そのどれもが魅力的であり、桜雪の心をかき乱すのであった。
桜雪には、以前から冬音に尋ねたいことがあった。他に誰もいない今、桜雪は思い切ってその質問を投げかけてみた。
「変なことをお尋ねしますが、冬音殿はどうして、この大府のためにいろいろと尽くして下さるのですか?」
冬音は少し首を傾げ
「そんなに不思議に思われますか?」
と問いかける。
「冬音殿にとって、大府は縁もゆかりもない場所。それなのに、大切な従者を犠牲にしてまで大府の民を救おうとなさる。正直に申せば、俺にはそれが理解できない」
「なにか、裏があると?」
冬音は微笑んだ。その顔は先程とは打って変わって艶かしく、また厳かで近寄りがたいオーラをまとっているようにも見えた。
「いや、そんなことはありません。」
桜雪は、その姿を見て慌てて否定する。
「私にとっては白魂だって縁もゆかりもない場所ですわ。お守りしたいと思う気持ちに、ご縁が必要なのでしょうか」
冬音の言葉に、桜雪は何も返すことができなかった。
「でも、強いて挙げれば、ある大切な方をお守りしたいという心から、とでも申しましょうか」
冬音は桜雪の顔をじっと見つめている。桜雪も、冬音の顔を見た。
「桜雪様、私もお尋ねしたいことがあります。桜雪様にとって、私はどんな存在なのかと」
「あなたが、ですか?」
「はい」
予想外の質問を受けて、桜雪は少し戸惑った。
「もちろん、大切なお客様ですよ」
「一人の女性として見ては下さらぬのか」
ほんの一瞬、冬音の顔に哀しみの表情が現れたのを桜雪は感じ取った。しかし、それはすぐに消え、凛とした佇まいに変化していた。
「正直に申せば、あなたにお会いする度に、俺は邪な思いを抱いてしまいます」
桜雪の告白を聞いて、冬音は両手で自分の頬を押さえ、うつむいた。
「そして、それを抑えようとするもう一人の自分がいるのです」
「どうして、抑える必要があるのですか?」
冬音にそう尋ねられ、桜雪は驚いて冬音の顔を見た。冬音は、潤んだ目を自分の方へ向けている。
心臓が高鳴るのを感じる。息遣いが荒くなり、手は震え、水分をとったばかりなのに喉がカラカラに乾く。今すぐ、冬音を抱きしめたい衝動に駆られ、桜雪の顔が険しくなった。
その時、冬音の顔にほんの少し、笑みが浮かんだように見えた。それはほんの一瞬のことであったが、まるで相手が罠にかかるのを待ち構えていたかのような表情に桜雪は感じた。
(彼女は危険だ)
もう一人の自分、本来なら情欲に素直なはずの本能が危険を知らせる。このまま彼女の術中にはまれば、恐ろしい未来が待っていると。
桜雪は、すぐに穏やかな表情に戻った。
「あなたに失礼なことなどできません。先程申したとおり、冬音殿は大切なお客様。みだらな感情を持つことなど以ての外、俺もまだまだ修行が足りないようだ」
冬音は桜雪の言葉を聞いて微笑んだ。その表情には、どこか憂いを含んでいるようにも見えた。
「私はそんなに初心な女ではありませんわ。好きな男性に抱かれることが失礼だと、どうして思うでしょうか」
普段の行動から、自分に好意を抱いていることは桜雪も承知していたが、面と向かって言われるとやはり照れくさくなる。
冬音がすっと立ち上がり、桜雪の隣へ移動してきた。
「むしろ何もされないほうが、女としては恥ですわ」
桜雪を見上げる冬音の顔は恍惚として、男心を惑わせるのには十分な力を持っていた。その顔を、桜雪はじっと見つめていたが、やがて桜雪は冬音を強く抱きしめた。
「ああ、桜雪様・・・」
冬音は、簡単に理性が吹き飛んでしまいそうなほど欲情をそそられる声を上げた。その耳元に桜雪が囁く。
「冬音殿、これは俺の素直な気持ちです。俺はあなたをこうして抱きしめたいと思っていた。しかし・・・」
桜雪は、冬音の肩に手を遣り、その体を自分からそっと引き離した。
「俺はあなたを愛しているわけではないのです」
冬音の目が泳ぎ、顔を伏せてしまったのを見て、桜雪は
「すみません」
と一言謝り、立ち上がった。
「お待ち下さい桜雪様。私の何がいけないと言うのですか?」
冬音も立ち上がり、桜雪にすがってきた。
「冬音殿、あなたに非の打ち所など、どこにもありませんよ。類まれなる美しさと才能を兼ね備えていらっしゃる」
「それではなぜ・・・」
「あなたは俺に畏怖の心を抱かせる。恐れ多くて、恋愛感情など持つことができません」
「畏怖の心・・・」
冬音はしばらくの間うつむいていたが、やがて顔を上げて桜雪にこう言った。
「やはり、あなたは私を一人の女性として扱って下さらないのですね」
その時の顔は微笑んでいたが、例えようもなく哀しげであり、儚げだった。桜雪は生涯、その顔を忘れることができなかった。
冬音は、ぱっと後ろを向いて
「一人にさせて頂けませんか」
と言った。桜雪は
「すみません」
ともう一度謝り、一礼して宿を出た。一人残った冬音は、その場に崩れるように座り込んだ。
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