第7話 鬼人の帰還

 夜になり、勝爺はかがり火の近くで作次郎の帰りを待っていた。

 何もなければ、もう戻ってもいい時間帯だ。自分が命じたことではあるが、やはり作次郎が無事に戻って来ることができるか心配でならないのだ。

 夜も更けて見張りしかいなくなってもなお、勝爺はじっと南の方へ目を向け、作次郎の姿を探していた。

 やがて人影が見えた。それが作次郎であることがわかり、勝爺は駆け寄って

「よくぞ戻ってきた。無事だったのだな」

 と頬を緩ませた。

「ただいま帰りました」

 作次郎は軽く頭を下げ、勝爺に微笑みを向ける。

「約束通り、お前はここに残ってもよいぞ。あの時のことを知る者には強く口止めしてある。だから安心せい」

「ありがとうございます。ところで、与一は今どこに?」

「ここにいるぞ」

 作次郎がその声にはっと振り向くと、与一がこちらに歩いてくるのが見えた。弓を持っているところからみて、今夜は寝ずの見張りのようだ。

「無事だったんだな、よかった」

 与一の言葉に、作次郎はうつむいたまま近づき、いきなり与一に抱きついてきた。

 一瞬、何が起こったのかわからないまま与一は固まっていたが、すぐに作次郎の肩をつかんで引き離した。

「いきなり何するんだ」

 与一が驚いて叫ぶ。作次郎は笑いながら

「すまぬ、安心してつい」

 と答えた。

「今日は疲れているだろう。もう夜も遅い。早く休んだほうがよかろう」

 勝爺にそう声を掛けられ、作次郎はうなずいて自分の家の方へと向かった。

 しかし、途中で突然振り返り、与一に

「ところで、あの娘さんは今どこにいるんだい?」

 と尋ねた。

「小春さんのことか? 今は夕夏の家にいるが、それがどうした?」

「いや、小春さんにお詫びを言っておきたくてな。許してもらえるかどうかはわからないが」

「それなら、明日にでも行ってみればよかろう。小春さんは、明日は何も予定はないはずだ」

「わかった。そうするよ」

 作次郎は笑みを浮かべ、闇の中へと消えていった。

 その夜、与一が見廻りをしていると、暗がりの中に怪しい人影を見つけた。すばやく矢を番え

「動くな、誰だ?」

 と声を掛ける。

「射つな。俺だ」

 という返事とともに姿を現したのは作次郎だ。

「おまえ、休んでいたんじゃないのか」

「いや、今日は当番だったと気が付いてな」

「そうだったか? しかし、戻ってきたばかりだろう。無理するな、今日は休め」

「なあ与一、聞きたいことがあるんだが」

 作次郎は与一に近づきながら言った。

「なんだ?」

「鬼に襲われた時、目に矢を射ったのはお前の仕業か?」

「ああ、そうだが」

「そうか・・・」

 作次郎がそうつぶやいた時、与一は体に悪寒が走るのを感じた。作次郎から冷たい風が吹き付けてくるようで、思わず後ずさり

「それがどうかしたのか?」

 と尋ねた。

 作次郎の目が怪しく光る。その目を見て、与一はそれが作次郎ではない他の何かだと勘付いた。

「誰だ、お前?」

「作次郎さ」

 不気味な笑みをたたえ、与一の方を見据える。作次郎の持つ小刀がキラリと光るのを見て与一は恐怖を覚えた。

「こんなところで何をしているんだ、二人とも」

 そのとき、声がしたので二人はその方向に目を向けた。

「ああ、すまない。ちょっと話し込んでしまったようだ。もう、休むことにするよ。それじゃあ」

 作次郎はそう言って、そそくさと立ち去った。

 与一は、金縛りにあったかのようにしばらく動けなかったが、やがて

「助かったよ」

 と言って見回りを再開した。

 声を掛けた男は一人残され、与一の言葉が理解できず呆然と立ちすくんでいた。


 翌日、夕夏が家で服を繕っていたとき、戸を叩く音がした。

「どうぞ」

 という夕夏の呼び掛けに応じて戸を開けたのは作次郎だった。

「作次郎かい。こんなところに来るなんて珍しいね」

 夕夏が話しかけると、作次郎は

「小春さんはいないのかい?」

 と尋ねた。

「今は出掛けてるよ」

「そうか」

 そう返しながら、作次郎は部屋の中を見回した。

 小春の大刀が部屋の隅に立てかけてあるのを見つけた。

「あれが小春さんの刀かい?」

「それがどうしたの?」

「いや、立派なものだなと思ってね。一度見せてもらいたかったんだ」

「それなら小春ちゃんがいるときにでも頼んでみな」

「ああ、そうだな」

 作次郎は入り口の前で立ったままだ。

「小春ちゃんはしばらく戻らないと思うよ」

「そうかい」

「夕方頃には戻ると思うから、その時に来てみたらどうだい?」

 作次郎は黙って立っていた。夕夏は作次郎の方を見て

「それとも帰ってくるまで中で待っているかい?」

 と聞いてみた。

「そうするかな」

 作次郎が中へ入ろうとした時、大声で

「待て」

 と叫ぶ者がいた。

 作次郎は声の主の方を向いた。そこには与一が立っていた。

「作次郎、少し話がある」

「なんだ?」

「そこでは話せない。ちょっと付き合ってくれ」

 作次郎はしばらくの間、その場を動こうとしなかった。

「どうした?」

 与一の問いかけに、作次郎はようやく

「わかった」

 と一言つぶやいて戸を閉めた。

 夕夏は

「なんだい、あいつ」

 と吐き捨てるように言った。


「小春さんに謝りに来たのか?」

 与一が尋ねると、作次郎は黙ったままうなずいた。

「ならば、夕夏のいない時にした方がよかろう。あいつは、お前のしでかしたことは知らない」

「それを言うために、ここに来たのか?」

 作次郎の質問に与一は

「そうだ」

 と答えたが、実際にはそれだけではない。昨夜の作次郎の様子がどこかおかしいのを感じて、小春に用心するように伝えたかったのだ。作次郎が昨日の見張り当番でないことは、他の者にも聞いて確認している。それなのに小刀を持って深夜に出歩いていたのは何のためか。作次郎は与一に小春の居場所を尋ねた。もしかすると、小春の寝込みを襲うことを考えていたのかも知れない。その理由は何か。与一は、あの『鬼の涙』が作次郎を狂わせているのではないか、もう一度自分の手に取り戻そうとしているのではないかと危惧した。

 与一の返答を聞いて作次郎は言った。

「わかった、ならばそうしよう」

 くるりと向きを変えて去っていく作次郎を見ながら、与一は安堵のため息をついた。


 再び戸を叩く音がして、夕夏は

「誰だい?」

 と一言叫んだ。

「与一だ」

 その声に

「入んな」

 と答え、夕夏は繕い作業を中断した。

 与一が入ってくると、夕夏の方から質問を投げた。

「昨日は寝ずの番じゃなかったのかい?」

「もう昼過ぎだぜ。いくらなんでも起きてるよ」

「いつもは夕方まで寝てるじゃないか」

「それは朝のうちに仕事したときだよ。今朝はすぐ寝たからな」

「そうかい・・・ところで作次郎はどうしたんだい?」

「もう帰ったよ」

「何の用だったんだい?」

「いや、それは俺も聞いてない」

 与一は口ごもりながら言った。

「小春ちゃんに用があるみたいだったけど」

 夕夏は、不審そうに与一を見ている。

「何の用だったんかな」

 しばらく沈黙が続いた。

「あの宝石のことだけど」

 夕夏が尋ねた。

「『鬼の涙』のことか?」

「そう。どこにあったの?」

「えっと、幽霊谷で・・・」

「そうじゃなくて盗賊に盗られたって言ってたでしょ。どうやって見つけたの?」

「ああ、家の中に落ちてた」

 夕夏はあのとき、与一の家の中を一緒になって家探ししていた。

「あれだけ探してなかったのに?」

「ああ、なぜか分からんが片付けしてた時に見つかった」

 女性の直感を侮ってはいけない。夕夏はすでに勘付いていた。おそらく、最初は小春が盗んだ犯人だと決めつけたのだろう。だが、その後に他の者が盗んだことが判明して取り戻した。そして、その犯人はおそらく作次郎だろう。今日、作次郎がやって来たのは小春に謝るためか。

「作次郎が盗んだんじゃないの?」

「馬鹿言うな。そんなことしたら村を追放されるだろう」

 与一の慌てぶりを見て夕夏は確信した。

「それで、あんたは何しに来たんだい?」

 夕夏は話題を変えた。

「ああ、俺も小春さんに用があったんだが」

「何の用?」

「それなんだが・・・」

 少し間をおいて、与一は話を続けた。

「作次郎の様子が少しおかしいんだ」


 夕夏は、作次郎のことが苦手だった。

 作次郎が、自分のことを恨んでいるように思えるのだ。

 普段、話をすることはまずない。それどころか、作次郎は夕夏をわざと避けているように見える。

 しかし、気が付くと作次郎がこちらを睨んでいることが度々あった。作次郎の方を見るとすぐ視線を逸らすが、その顔は明らかに不快感を募らせた表情をしていた。

 当然、今まで家を訪れたことなど一度もない。だから、家の戸を開けたのが作次郎であることを知った時は少し驚いた。しかし、それは小春に謝るためなのなら納得できる。理解できなかったのは、中で待つよう勧めた時、それに従ったことだ。いつもの作次郎なら、出直す方を選ぶものと夕夏は確信していた。

「確かに、少し変ではあったねえ」

 夕夏は作次郎の言葉に同調した。

「今、小春さんはどこにいるんだ?」

「ももちゃんのところだよ。庭を見せる約束をしていたみたいなんだ」

「そうか、ちょっと見てくるよ」

 そう言うと、与一は慌てて出ていった。

 一人残された夕夏は、ふと小春の大刀に目を遣って

「作次郎は刀なんかに興味があったのかねえ」

 とつぶやいた。


「あっ、見つけた」

 小春が叫ぶと、女の子がそちらを振り向いた。

「ほんと?」

 森を抜けた時にいっしょにいた子だ。

 名前は桃香だが、みんなからは『ももちゃん』と呼ばれている。

 シロツメクサの花かんむりを頭の上にちょこんとのせて、桃香は小春の下へと走った。

「ほら、これ。四つ葉でしょ」

「ほんとだ。私はまだ見つからないや」

「じゃあ、これあげるよ」

「いいの?」

「今度ももちゃんが見つけたら、その時に頂戴ね」

「わかった。ありがとう、小春お姉ちゃん」

 ここは村の外れにあたる。森神村では牛を家畜として飼っていて、放牧のための場所が設けられていた。そこはシロツメクサが生い茂り、女の子にとっては格好の遊び場だ。あたり一面が緑と白のコントラストで覆われ、その上を真っ白な蝶がひらひらと舞っていた。すぐそばには小さな小川がゆったりと流れ、水面をアメンボが滑って水紋を描き出す。

 二人は草の絨毯に寝転がって、いっしょに空を眺めた。青空に白いすじ雲が棚引き、遠くで鳶が、上昇気流に乗りながら漂う姿が見えた。

「ほら、あの雲、鳥に見えるね」

 小春は、指で示しながら桃香の方を向いた。

「そうかなあ。私はお馬さんに見えるな」

「お馬さんか。そうだね」

「あ、でも羽が生えてるから鳥かなあ」

「翼の生えたお馬さんかもね」

「あたしも羽がほしいな。小春お姉ちゃんみたいに遠くへ行ってみたい」

「そっか。でも、もう少し大きくなってからだね」

 青々とした草の香りが漂い、ときどき吹く爽やかな風が肌に心地よく当たる。穏やかに流れる時間の中、いつしか二人とも眠ってしまった。


 小春は、何者かが近づく気配を感じて目を覚ました。

 起き上がって気配の主を探すと、与一が近付いてくるのが見えた。

「ここにいたか」

 与一は、近くまで来てから小さく声を掛けた。

「よくここがわかったね」

「ももちゃんの家に行ったら、牧場の方へ出掛けたと聞いてな」

「何かあったのか?」

「ああ、作次郎が昨日、森陰村から戻ってきたんだが」

「作次郎? あの男か?」

 作次郎が森陰村へ鬼の件を伝えに行ったことは、小春も聞いていた。

「それがどうかしたのか?」

 小春が問うと

「うん、ちょっとな。様子がおかしくてな」

 と与一は答えた。

「様子が?」

「はっきりとはわからないんだが、小春さんが持っている『鬼の涙』を取り返そうとしているかも知れないんだ」

「何のために?」

「わからない。でも、もしかしたらあの石に操られているのかも知れない」

「あの石の呪いを信じてるのか?」

「いや、そういうわけではないけど・・・」

 与一は、昨夜の作次郎の様子を小春に説明した。

「俺には、他の何かに変わってしまったように見えたんだ。とにかく、用心するに越したことはない」

「わかったよ。まあ、明日から毎日、昼の見張りをすることになってるからな。警戒は怠らないようにするよ」

「そうだったな」

 小春の任務は、毎日の昼の見張りの他に、一定の周期で寝ずの番もあった。但し、寝ずの番の当日と翌日は昼の見張りは休みということになっている。

 また、昼の見張りといっても、外に出てさえいればいいので何をやっていても問題はない。小春からみれば、かなり楽な仕事だ。

「ももちゃんは寝てしまったのか」

 与一が桃香の寝顔を見ながら言った。

 だいぶ日も傾いていたので

「そろそろ帰らないか」

 と小春が提案すると、与一は

「じゃあ、ももちゃんは俺が運ぶかな」

 と言いながら、そっと桃香の体を抱きかかえた。

 二人並んで歩く後ろ姿は夫婦のようにも見えた。


 その日の夜中、村人はすでに寝静まった頃のことである。

 小春と夕夏も眠りに就いていた。

 外からはたまに、見張り番の歩く足音だけが聞こえる。

 しかし、その足音が戸の前でピタリと止まった。

 その瞬間、小春は目を覚ました。すぐに起き上がり戸の方を見る。

 何かがいる。それは人間ではない。

 戸の向こう側から殺気の風が吹き付けてくるのを感じた。それは鬼の放つ気に似ている。

 まさか鬼が現れたのかと思い、小春は大刀を手にして叫んだ。

「誰だ」

 その声に夕夏が目を覚ました。

「どうしたの?」

 と小春の方を見るや、そのただならぬ雰囲気に慌てて近くにある小刀を握りしめた。

 外からは何の反応もない。やがて別の声がした。

「誰だ」

 見張り番が気づいたようだ。しかし、すぐに何かが倒れる音が聞こえ、その後は再び静寂が戻った。

 相手は動こうとしない。小春はゆっくりと夕夏の方へ近づいた。

「裏口から外に出よう。ここでは闘いづらい」

 小春は小さな声で夕夏に伝えた。

「挟み撃ちにするかい?」

 夕夏が小春にそう応えた時、何かが破裂するような音が響いた。

 信じられないことに、相手は厚さ二寸はある戸を真一文字に切り裂いた。

 戸を蹴破って入ってきたのは小刀を持った作次郎だ。

 小春の姿を認めると、すぐさま小刀を振りかぶり襲いかかってきた。

 振り下ろされた小刀を小春は大刀で受け止める。

 まるで刃を打ち砕かんばかりの凄まじい一撃だった。その衝撃で、作次郎が持つ小刀がひび割れたが、作次郎は意にも介さず、刃を小春に押し付けようとした。小春は左手を棟に当て跳ね返そうとする。しかし、恐るべき力で押さえつけられ、小春の目の前に少しずつ刃が近付いていった。

「何すんだい、作次郎」

 夕夏が叫んだが作次郎は止めようとしない。

 夕夏は持っていた小刀の切先を作次郎に向けた。

「止めないとこいつで刺すよ」

 作次郎の視線が夕夏の方へ移ったその時、小春は体を右側へ素早くそらしながら刀の柄を前側に突き出し、刃を斜めに傾けた。

 作次郎の小刀が小春の大刀の上を滑ってゆく。作次郎は前方へ倒れ込み、小春はその横をすり抜けて間合いをとった。

 作次郎はゆっくりと立ち上がり、小春と夕夏の両方へ交互に目を遣った。

 小春が持っている大刀は、狭い家の中で振り回すには長すぎて扱いづらい。そこで小春は、相手が攻撃を仕掛けたときを狙い、突きで応戦するつもりだった。大刀を中段に構え、刀は地面に水平に、刃は横にして、突きがかわされた時はすぐ斬りに転じられるようにした。

 作次郎は小刀しか持っていない。間合いが狭い分、不利になる。しかも横には夕夏が刀を構えていた。

 しかし大胆にも、作次郎は構えようとはしなかった。自然体のまま小春の方をじっと見据える。隙だらけで、斬れと言わんばかりの格好だ。

 その姿を見て小春も夕夏も攻撃することができずにいた。なにか秘策でもあるのかと勘ぐっていたこともあるが、それよりも作次郎から感じられる強烈な殺気に動くことをためらっていた。

 長い間互いに睨み合っていたが、夕夏が耐えきれず小刀を振り上げた。

 それを見た小春も同時に打って出ようと動きかけた時、作次郎が持っていた小刀を放り投げた。投げた小刀の切先は真っ直ぐに小春の顔めがけて飛んでくる。小春は素早く横にかわし、かろうじて串刺しを免れた。

 すぐに作次郎の方を見て小春は唖然とした。そこには、夕夏を捕らえた作次郎の姿があった。


 夕夏が小刀を振り下ろした時、作次郎は右手にあった小刀を放り投げたところだった。姿勢を低くして一歩だけ夕夏の方に踏み出し、右手で夕夏の右手首を捕らえて自分の方へ引き寄せる。夕夏が前につんのめると、すぐさま夕夏の背後に回り、左腕で夕夏の首を締め付けてしまった。

 一気に形勢が逆転した。

 小春は構えを解いてはいなかったが、夕夏の体が前にあるので攻撃ができない。

 作次郎は薄笑いを浮かべて言った。

「その刀を床に置け」

「先に夕夏さんを放せ」

 小春が言い返す。

「命令できる立場にあると思っているのか。このままこの女の首をねじ切ってやろうか」

 作次郎が左腕に力を込めると夕夏は苦しそうにもがき、締め付ける腕を左手で外そうとするが全く歯が立たない。

 夕夏が持っていた小刀が手から離れ床に突き刺さった。

「待て!」

 小春が叫んだ。ゆっくりと構えを解き、刀を床に置いた。

「よし。そのまま後ろへ下がれ。壁までだ」

 小春が一歩後ろへ下がると、作次郎は一歩前に進もうとする。

 夕夏はすでにぐったりとしていた。

「ふん、気を失ったか」

 そう言いながら作次郎は、右手でつかんでいた手首を離して両腕で夕夏を抱きかかえようとした。

 作次郎の左腕が夕夏の首から離れた瞬間、夕夏が作次郎の左腕を両手で持って思い切り噛み付いた。

「ぐっ、貴様・・・」

 作次郎が夕夏に気を取られたのを小春は見逃さなかった。すぐに前へ躍りだし、喉を拳で突こうとした。

 しかし、作次郎が小春の突進に気づいて夕夏を突き飛ばす。

 夕夏の体を受け止め、小春が後ろに吹き飛ばされたその時、外から数名の村人が駆けつけてきた。

 隣人が物音に気づき、見張り番が倒れているのを見つけて慌てて人を呼んだのだ。

 盗賊が現れたと思い家の中に入ると、そこに作次郎が立っていたのを見て一同は驚いた。

「作次郎、何をしている?」

 作次郎は問いには答えず、夕夏が落とした小刀を握りしめた。

 しかし、小春が刀を手に取り、構えるのを見ると、裏口の方へと後退し、そこから表へ出た。

 しばらくの間、呆気にとられていた村人が後を追いかけようとするのを

「待て、危険だ」

 と小春が制止した。


 見張り番が一人、犠牲になった。心臓を一突きで仕留められていた。

 勝爺がこの騒動を聞いてやって来た。

「二人とも無事だったのだな」

 勝爺の言葉に小春はうなずいた。

 夕夏は、小春にしがみついたまま震えていた。口のまわりの血は、作次郎に噛み付いた時に付いたのだろう。

 目に涙をため、足を横に投げ出してすがる夕夏を、小春はただ抱きしめてあげることしかできなかった。

「ごめんなさい」

 小春は一言、夕夏に声を掛けた。

 気丈な夕夏がこれほど恐れているところを誰も見たことがなかった。それほどまでに恐ろしい相手だったのか。しかし、相手は作次郎だ。皆が知っている作次郎は、争いなど好まない柔和な印象しかない。ましてや武術に長けているとはとても思えなかった。

 それがなぜ突然、夕夏の家を襲撃したのか。その目標が、夕夏ではなく小春であるだろうとは皆が想像していたが、作次郎が小春を狙う理由はわからない。さらには、鬼をも倒す小春がここまで苦戦したのだ。

 誰もが訳のわからないまま、しかしこのままでは危険だろうと、夕夏の家の戸の前と裏口の前に二人ずつ見張りを置くこととなった。

 しばらくして夕夏も落ち着いてきた。口についた血を水で洗い流し、散らかった家の中を片付け始めた。

 作次郎が投げた小刀は柱に突き刺さっていた。刃には血がべっとりと付着している。

 戸は見事に真っ二つに切り裂かれていた。当然、壁の部分にも刀傷が走っていた。相当な技と力がなければ、こんな真似はできまい。小春は、最初に受けた一撃の重さを思い出した。それは、人間の力ではなかった。与一の言う通り、作次郎は何か他の者に変化したのだ。そうとしか考えられない。

 幸い、小春も夕夏も傷を負うことはなかった。しかし、次に現れたとき無事でいられるかは分からない。何より、夕夏に迷惑が掛かってしまうことが辛かった。

 小春は決心した。ここを離れようと。


 片付けが終わり、二人並んで床に座った。

「ごめんね、取り乱しちゃって」

 夕夏が謝るので、小春は

「いや、謝るのは私の方だ。私のせいで迷惑を掛けてしまった。明日から、他の家に移ることにするよ」

 と応えた。

「そんなこと気にしないで。ここにいてちょうだい」

「でも・・・」

「小春ちゃんといるとね、何だか妹が戻ってきてくれたみたいで嬉しいんだ」

「妹?」

「私にはね、妹がいたんだ。でも、まだ小さい時に病に掛かってね。私は治るものと信じてたけど、季節が巡った頃に息を引き取ったの」

 夕夏は、天井を見上げながら言葉を続けた。

「あの時のことは忘れない。死んだ妹はまるで眠っているようだったけど、なんだか悲しげな顔でね。それを見たとき、もう妹には会えないんだとわかったの。長い間、泣き続けてた。初めて、人は死ぬんだって理解できたわ」

 小春は夕夏の顔を見た。目が潤み、涙が頬を伝って落ちてゆく。

「明日を無事に迎えられるかなんて誰もわからないでしょ。一日が終わる度に自分の寿命は減ってゆくけど、いつ尽きるのかなんてわからない。私は毎日を精一杯に生きるだけ」

 涙を手で拭い、夕夏は小春の方を向いた。

「後悔はしたくない。だから、せめて小春ちゃんが村にいる間だけでも、こうして一緒に暮らしたいの。それで命を落とすようなことがあったら、自分の寿命がそこまでなんだと考えればいい」

 夕夏のその言葉を聞いて、小春は小さくうなずいた。

「わかった。もうしばらくの間、お世話になるよ。でも、一つだけ条件がある」

「なに、条件って?」

「危なくなったら、すぐに逃げてくれ。夕夏さんに何かあったら、私が後悔することになる」

「・・・いいよ。なるべくそうするよ」

 夕夏は正面を向くと小春の肩を抱いて

「もう少しの間、こうしていてもいいかな?」

 と小春に尋ねた。それで夕夏が落ち着くのならと思い、小春は答えた。

「いいよ」

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