第三章 天下の主催者

第54話 長勺の戦い

 紀元前684年


 斉の桓公は管仲と共に政治改革を行い。国を発展させ軍備を増強していた。


 正月、そのことに自信をつけた桓公は公宮に大夫たちを集めた。


「我が国は軍備を増強し、国内は安定した。それは貴公たちのおかげである。されど未だ我ら斉に対し侮りの心を持つ国が多い。そこで同盟国でありながら我が国の混乱に乗じ兵を出した魯に対し兵を出すことにする」


 これを管仲が諌めた。


「いけません。『領地を擁する国君は軍事にばかり勤めず、辱めを受けたとしても憎まず、過ちを繰り返さないようにする。このようにすれば社稷を安定させることができる』といいます。軍事を優先し、辱めを晴らそうとし、過ちを繰り返す、これでは社稷を危うくするでしょう」


 しかし、桓公はこの諫言を退け、軍を動かした。彼は武威を諸国に示すことで国の威厳を示せると思っていた。


「やれやれ困った方だ」


 斉は確かに発展し始めているがまだ諸侯を従えるほどではない。今の政治が本当の意味で生かされるのは数年は掛かる。だが桓公はそれがわずわらしいのか軍を動かした。


(痛い目に会わなければ良いが)


 管仲はそう思いながら政務に戻った。








 魯に斉が進行したという報が伝わり、民衆は動揺した。


「斉が攻めてくるってよ」


「昨年も戦ったじゃないかまた戦うのかよ」


「斉は最近強くなっていると言うぞ」


「前の戦で魯は負けているがまた負けるのかね」


 そんな言葉が飛び交う中、一人の男が戦の準備を進める魯軍に向かおうとしていた。その男の名を曹沫という。


 彼は魯軍に直接乗り込み、荘公に謁見しようとした。


 これを同郷の者が彼を止めようとする。


「毎日肉を食べる人達が対策を練っているのだから、お前が行っても無意味だ。行くべきでは無い」


 これに曹沫が笑ってこう言った。


「毎日肉を食べていると頭が固くなるようだ。彼らは遠謀を持っていない」


 こうして彼は魯軍の元に行き、荘公に謁見を申し込んだ。


「君に謁見を申し込んでいる者が居ります」


「この忙しい時に何だ。ほっとけ」


 荘公は苛立ちながら言った。前年、斉に負けて以降、斉は強大になり始めた。しかもそれに力を貸しているのが管仲であるという。


(あの時、処刑していれば)


 斉との戦いでは役に立たなかった管仲が宰相になっただけでも驚きであるのに、斉を強大にし始めるとは思っていなかった。


 そんな斉が魯に侵攻しようというのである。荘公は動揺と焦りがあった。


「しかし、何度もそう言っているのですが自分が魯を勝利させてみせると言って引かないのです」


「勝たせるだと。何を言っているのだが」


「その通りだ。さっさと追い払え」


 荘公の傍らにいる慶父も苛立ちながらそう言った。


「その者は曹沫と名乗っています」


「曹沫。どこかで聞いたことがあるな」


 彼はその名前に聞き覚えがあった。


「あぁ、あの時の男か」


 彼は思い出した。かつて、襄公と狩りを行った時に会った男のことを。印象的な男であった。その男が魯を勝たせると言っている。不思議な何かを感じた彼は、


「良し、その男を連れて来い」


 と言い、荘公は自分の直感を信じることにした。


「ではこちらにお入りください」


 配下の者が曹沫を連れてきた。


「君が曹沫か」


「はい」


 曹沫という男は一農民でしかないわりには荘公を前にして何ら動揺することは無く。堂々としていた。


(面白い)


 そう思った荘公が訪ねた。


「君は魯を勝たせると言うがどのような策をお持ちかな」


「それは君が如何のように兵を率いられるかで変わります」


 淡々とそう言った彼に、


「貴様。無礼ではないか」


 慶父が怒鳴るが荘公は彼を手で止める。そしてこう言った。


「私は暖衣飽食を一人占めせず、全て人と分けて共有することを心がけている」


「そのような小さなことでは、人々には行き渡らず、人々は従わないでしょう」


 荘公の言葉に曹沫がそう言った。それに怒ることなく、荘公は続けてこう言った。


「祭祀で用いる犧牲や玉帛を増やすことも余計なものを加えず、信をもってやってる」


「そのような粗末な信では不十分です。神の福には期待できないでしょう」


 荘公が心がけていることに淡々と意味を持たないと曹沫は断じていった。


「貴様。君に対し無礼であるぞ。いい加減にせよ」


「よさんか」


 再び慶父が怒鳴るが荘公が止める。彼とて内心むっとしていたがそれでも曹沫に続けて言った。


「大小の訴え事に対して、真相を完全に、明らかにすることはできないかもしれないが、実情を把握に努め理にかなった裁きをするようにしている」


「それを人々は忠といいます。そのような忠が君におありならば一戦できます。戦で私を同行させていただきたい」


 荘公は曹沫に伴をすることを許し、軍を率いて、斉と長勺の地でぶつかった。


 荘公は攻め太鼓を鳴らそうとするとそれを曹沫が止めた。


「お待ちください」


「何故止める」


 それに曹沫は答えず、言った。


「私が良いと言うまで太鼓を鳴らさないようにしてください。そして太鼓が鳴るまでは守りに徹するように指示を出して下さい」


 斉側は太鼓の音が三回鳴らされた。すると曹沫は言った。


「今です」


「良し、わかった」


 荘公は太鼓を一回鳴らした。


「攻めるよう御命令を」


「わかった。出撃ぃ」


 魯の兵たちは一斉に斉軍に襲いかかった。すると斉軍は大崩れになり、退却を始めた。


「このまま追撃を駆けよう」


「お待ちください」


 曹沫は戦車から降りると地面の車轍の跡を見て軾(車上の横木)に登って周りを眺めてから彼は言った。


「追撃しましょう」


 魯軍は斉軍に追撃を駆け、散々に打ち破った。


 戦勝後、荘公は彼に戦勝の理由を聞いた。


「戦には気力によって行うものです。一度目の太鼓を敲くことで兵は奮い立ち、二度目の太鼓でそれは衰え、三度目の太鼓で尽きてしまいます。敵は太鼓を三回敲いたことで気を尽きさせることになり、我々は始めの太鼓で奮い立たせていたので勝つことができたのです」


 恐らく曹沫は相手が攻め疲れる時を待ち、攻め疲れた時に攻めさせたのであろう。


「しかし、大国というのは測り難いもの、伏兵を置いている恐れがありました。そこで私は車轍の乱れを確認し、敵の旗が倒れているのを眺めてから追撃させたのは、それによって敵軍が混乱しており、敵に伏兵がないと判断したためです」


 もし相手に伏兵のような策を仕掛けているのであれば、秩序があるはずだ。その秩序があるかないかを確認してから追撃を決めたのである。


 話してみれば、曹沫の戦術は単純明快であった。しかしながらそれを実行する思考と説明する力を当時の農民が持っていたことは驚くべきことである。


「流石であるな」


「されど油断はなりません」


 喜ぶ荘公に対し、曹沫は斉の方を睨みながら言う。


「斉にはまだ余力があります。また攻めてくるかもしれません」


 彼は確実に斉が魯に再び侵攻すると考えていた。


「斉には斉君よりも恐ろしい方がいる」


「それは誰だ?」


「貴方様もよくご存知の方です」


 曹沫は斉軍の後ろに桓公だけでなく。その更に後ろにいる管仲を見ていた。その者こそもっとも斉でもっとも恐ろしい者であると考えていたのである。


「まだ斉とは戦わないとなりません。油断無きよう」


 曹沫はその場から立ち去った。







「魯に負けただと」


 桓公は持っていた杯を床に叩きつけた。


「もっと軍備を増強し、次こそは目に物を見せてやろうぞ」


 彼は臣下たちに更なる軍備増強を命じた。そんな彼を見て、首を振りながら立ち去ったのは管仲である。


「やれやれ困った方だ」


 すると彼に近づく者がいた。


「鮑叔か」


「やあ管仲殿」


 政治の表舞台ではなく裏で管仲の政治を支えている鮑叔は彼にとっての良き相談役でもあった。


「魯に負けたと聞いた」


「ああ、負けたために君はお怒りだ」


 困ったように管仲は言う。そんな彼に鮑叔は笑う。


「困ってばかりもいられないだろう。ついでに魯での戦で策を魯君に授けた男がいるそうだ」


 鮑叔は魯に負けたと聞くやその詳細を調べていた。


「ほう。誰だ。慶父では無いだろう」


 慶父はこのような策を立てるような性格の人ではないと管仲は考えていた。同時にそれ以外にそれを成すことができるも者も思いつかなかった。


「名は曹沫と言うそうだ」


「曹沫。聞いたことのない名だ」


「何でも農民の出だそうだ」


 これには管仲は驚いた。荘公も慶父も身分に拘わる人である。いやもっと正確に言えば魯という国がそうなのだ。そんな国が身分の低い者を受け入れるはずはないはずであった。


「驚いたな」


 それを覆すことができる才覚を有しているのか。それとも魯の荘公という人物の器量が成長したのか。管仲の脳裏に厄介な人物として曹沫の名が刻みながら、


(また頭痛の種が増えたか。困ったものだ)


 何度目かもわからないため息を吐いた。そして彼は鮑叔と共に政務に戻った。

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