第51話 空を仰ぎて

 管仲が射た矢は公子・小白の腹部に刺さった。それを見て、鮑叔は轡を放すや否や、公子・小白に覆い被さり、小白と共に馬車から落ちた。


 周りの兵たちはこの事態に動揺し、それぞれが勝手な行動をし始めるがこれに鮑叔が喝を入れた。


「落ち着かんか」


 鮑叔の喝により兵たちは動揺を抑えた。しかし、鮑叔も相当、動揺していた。


(やられた。管仲であろう。主君は無事か)


 声を震わせながら下にいる小白に問いかける。


「大丈夫ですか」


「大丈夫だ。それよりも重いぞ」


 腹部に帯鉤を付けていたため無事だった小白は覆い被さっている鮑叔を退かそうとした。


「いけません」


 彼は小白が生きていることに安心しながらそんな彼を止めた。また矢が降ってくる可能性もあるためである。小白はそんな状況であったが冷静であった。


「馬車のおかげで丘にいる連中には私のことは見えない。だから私の生死に対しわからないでいるはずだ。そこでお前は立ち上がり、悲しみを表せ。そして、温車(霊柩車)を用意し、死んだふりを私はするからお前は私をそれに乗せろ。そのままそれに乗って斉に向かえば良い」


「なるほど。そのようにします」


 鮑叔は小白から離れると大げさに悲しみを表わし始めた。


「これで連中は騙されるはずだ」


 小白は死んだふりをしながら思った。そうなってもらわなければ困る。






「どうだ」


「わかりません」


 管仲は必死に小白の死を確認しようとしていた。


 矢が小白に刺さったのは確かであった。手ごたえはあった。しかし、鮑叔が小白に覆い被さり、小白と馬車から転げ落ちたため馬車が邪魔で彼らの姿をここから見ることができない。


「確かに矢が刺さったのは見えました。死んだのでは」


 配下はそう言うがそれにしても相手の動きがあまり無さ過ぎる。第二射、第三射に警戒し、隠れているだけかもしれない。しかしならばもっと動揺があるべきだ。それにも関わらず、静か過ぎた。もしかすれば小白は生きており、指示を出しているのではないか?


 (それに相手には鮑叔がいる。あの鮑叔であれば、この状況で何かしらの手を打つはずだ)


 管仲は鮑叔を警戒するあまり動きに柔軟性がなかったと言える。


「あっ」


 配下が声を上げた。


「見てください。あれは温車です」


 配下が指差す方にそれが見えた。そして、鮑叔が立ち上がり、悲しみを表わにしている。


「小白は死んだのでしょう」


「いや、我らを騙そうとしているだけかもしれない」


 彼はじっと鮑叔らを見る。彼らは淡々と小白の遺体を温車に乗せようとしていた。


(死んだのか死んでいないのか)


 ここにもっと兵数があれば鮑叔らに向かって突っ込んで直接、確認するのだが、ここにいる兵数ではそれを行っても生きている場合、確実に仕留めるのは難しい。あの鮑叔がそう簡単に仕留めさせてくれるとは思えなかった。


(確証が欲しい)


 だからこそそう思った。同時にこの時の管仲は鮑叔と直接、矛を交えることを無意識に避けようとしていたのかもしれない。


「まだ立ち去りません」


 鮑叔は小声で温車に横になって死んだふりをしている小白に言った。


「わかっている」


 小白は内心、冷や汗をかきながら目を瞑りながら考えたが、


(ここは我慢するしかない)


 そうするしかない。今、この状況で相手が退かなければ、被害が出る。ここで相手を退かせれば、


(私の勝ちだ)


 国君まであと一歩なのだ。あそこまで我慢し続けた。ここでも我慢することなど容易い。


(後は天に任せる)


 天の時を待ち続けたあの我慢の日々が彼に強さを与えていた。


 配下の者たちには小白が生きているように見えず、また鮑叔たちによって温車に小白の遺体を運び込み乗せていることから、小白は死んでいるだろうと思った。それにも関わらず、管仲が動こうとしないことに配下を始め、魯から預かった兵たちも焦れ始めた。


「もうこれは確実に小白は死んだのでは?」


「そうだな」


 本来ならこの目で確実に確認したい。だが、小白らの動きはずっと変わらず、小白を温車に乗せて運ぼうとしているだけである。


(小白は死んだのであろう……本当にそうか。鮑叔が……私は鮑叔に拘り過ぎているのではないか)


 管仲はそう思った。鮑叔は神でも何でもない。自分と同じ人なのだ。どんなに鮑叔に才覚があろうとこの小白を守り切れるとは限らない。


(どんなに才覚があってもなんでもできるとは限らない)


 そのことは自分がよくわかっているではないか。


「良し、退くぞ」


 彼は決めた。配下たちと共に退却し始めた。


「退却していきます」


「そうか」


(勝った……)


 小白はそう思った。天の試練に打ち勝ったのだ。


「完全に退却したところで、馬車を走らせるぞ」


 小白は配下にそう命じた。やがて管仲らが去ったことが確認されたところで、馬車に小白と鮑叔は乗った。


「揺れますのでお気を付けを」


 御者がそう言った。


「とにかく急げ。おっと」


 小白が言うと馬車は大きく揺れた。


「もう少し、揺れないようにしてくれ。私は矢を射られたのだぞ」


 彼はそう言って笑った。ふと空を仰いだ。その空は青く透き通るほどの綺麗な空であった。


「いい空だ」










「公子・小白を射殺しました」


 魯軍の陣幕に戻った管仲は魯の荘公に報告した。


「おぉよくやったぞ管仲」


 公子・糾は大層喜んだ。


「真によくやってくれた管仲殿」


 荘公もそのように言うものの管仲を見る目は相変わらずである。


(この人は最初に持った考えを変えることのない人だ)


 そう思いつつ彼は荘公に感謝を述べる。


「魯君のお力添えがあったためであります」


「これで悠々と進めますな」


「いや。進軍をもっと早めるべきです」


 魯の大夫の言葉を遮り、管仲はそう主張した。


「何故だ。お前は公子・小白を殺したのであろう」


 慶父が嘲笑うように言う。


「確かに仕留めましたがそのことを斉の上卿である高傒が知れば、何らかの行動をする可能性があります」


 高傒は公子・小白に公孫無知の死を伝えた人であるはずだ。できれば速く公子・糾を斉に入れ、そのまま彼を即位させたいというのが彼の思いであろう。


 それに公子・糾が即位することは彼の政治生命さえ脅かしかねない。何故なら今まで協力せずに敵対していた公子を指示していた自分に公子・糾が許すとは思えないと考えるはずだからだ。


「我ら魯の軍が迫れば我らに逆らうようなことはしないだろう」


 慶父は忌々しいそうに言う。


 確かに慶父の言うように魯軍を前にそうしようとはしないかもしれない。


(だが急ぐべきだと思うのは何故だ)


 管仲は自分自身を考えを説明できないまま魯軍はこのまま進軍することになった。


 六日後、魯軍は悠々と進軍を続けていた。


「もう直ぐ国君になれますぞ」


「ここまで長かったな」


 召忽の言葉に感慨深そうに糾は頷く。そんな二人を見ながらも管仲の不安は大きくなっていた。


(公子・小白はあの時に確実に殺したはず)


 その時、太鼓の音が響く。


「何事か」


 召忽が叫ぶと、配下がやってきて報告した。


「前方に軍が迫っています」


「軍だと」


 しかも前方である。前方からやって来る軍は一つしか無い。


「斉の旗があります」


 魯軍の前に斉の旗がたくさん並び立ちふさがった。そして、そこには、


「あれはまさか」


 公子・小白がいた。小白の傍らには鮑叔がいる中、小白が声を上げ魯に対し言った。


「魯軍の方々。既に斉には国君が立ったそれにも関わらず軍を率いてここまで来られたのは如何なる事でありましょうか」


(大きくよく通る声だ)


 管仲は状況の中、この小白の声を聞いてそう思った。


「既に斉の国君にはこの私が立った。魯の者たちよ。この国より立ち去っていただきたい」


 力強い声が大地を震わす。


「この地より立ち去らなければ我らに対し、敵対の意思有りと見なし開戦いたすが如何致すか」


(あれが公子・小白か)


「管仲、これはどういうことだ」


 糾は声を震わして言うが彼は淡々と答える。


「すべては私の罪でございます。この後に処罰はいかようにも。されど魯君はきっと退却を命じるはずですのでその準備をしましょう」


 この後、荘公は悔しそうにし、慶父が怒気を表わにする中、魯軍は退却を開始した。


(私は負けたのだな)


 空を見ながら管仲は思う。鮑叔に、いや恐らく自分は公子・小白に負けたのであろう。その公子・小白の天運を信じ続けた鮑叔。そんな二人に負けたのであろう。


(所詮、私はこの程度の男だったのだな)


 もう彼には糾を国君に立てる術をほとんど思い浮かばなかった。そして、魯に戻れば自分は処罰されることになろう。


(私は天下のためにも働けず、糾様を国君の立てることもできず。何も成し遂げることが出来なかったな)


 そう思いながら彼は天を仰いだ。その空は青く透き通るほどであったが管仲の心には虚しさが広がっていた。

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