第48話 斉の襄公

 雪が降り積もる大地を兎が駆ける。その兎に向かって矢が放たれ、兎を射抜いた。


「お見事でございます」


 矢を放った斉の襄公に付き添いの臣下たちが讃える。そんな彼らの言葉に襄公は微笑を浮かべつつ、


「糾、お前もやれ」


 襄公は糾に自分の持っていた弓を投げ渡した。


「はい」


 糾は矢を構え、走り回っている兎に狙いを定めた。兎が止まると、矢を放った。矢は真っ直ぐ兎に向かうと兎を射抜いた。それを見て、周りの者を感嘆の声を上げた。


「ほう、お前がこれほど弓の腕を上げているとは思わなかったぞ」


 襄公は珍しく糾を褒めた。


「ありがとうございます。実はここに居ります我が傅・管仲より習いました」


 糾は近くの管仲を指し、紹介した。


「そうか、以後も励め」


 襄公は管仲に何ら興味を抱かず、狩りを続けた。


「糾様が褒められたのはお前のおかげだな」


 召忽がそう言うと、管仲は、


「斉君がこの後も安泰であればな」


 と皮肉気味に答えた。


(しかし、斉君は少し変わられたか)


 襄公という人は鞘から抜かれた剣のような者で誰彼構わず、傷つける人であると管仲は思っていた。だがここにいる襄公はそのような部分を出してはいなかった。


(この方は感情の人だ。良くも悪くも他者に対し自分の感情を現わにする人なのであろう)


 ある意味、襄公という人は純粋な人なのだろう。だが、国君として純粋過ぎるのが彼の最大の欠点と言える。そのように彼が考えていると召忽が言った。


「しかし、行きは何の問題も無かったな」


「そうだな」


 襄公に対し、不穏な動きがあるという情報があると、斉の上卿である高傒に伝えられたため狩りに参加することになっていた公子・糾らはそれに対し警戒しており、動きがあるのは狩りに向かう途中か帰る途中と考えていた。


(情報源である高傒殿が来ていないことが気になるが)


 彼は斉の上卿たる高傒がこの場で指示を出さず、首都にいることを気がかりに思いつつ、召忽とこの後のことを話し合った。


 その後も狩りが続き、襄公は狩りの結果に満足していた。


「流石でございます」


 周りの者たちは讃える中、彼は公子・糾に顔を向けて言った。


「糾、この先は分かれて進むことにしよう」


「分かりました。ならば我らは右に」


「よかろう」


 襄公と糾らは分かれて狩りを続けることになった。


 襄公が狩りを続ける中、草むらから彼の元に近づくものがいた。


「なんだあれは」


 襄公は草むらが動くのを見て、指を指すと、草むらから人間ほどの大きさの猪が現れた。


「なんという大きさか」


 襄公を始め皆、驚く中、ある者がこれを見て叫んだ。


「あれは公子・彭生です」


「彭生だと、何を言っているのだ」


 叫んだ者を睨みつけると彼は猪に向かって弓を構え、矢を放った。すると猪は人のように立ち上がり、鳴き叫んだ。


 車に乗っていた襄公はこれに驚き、車から落ちて、靴が脱げた。周りの従者たちは慌てて襄公を立ち上がらせ、車に乗せた。


 車に乗せられた彼は姑棼の公宮に帰ると言い出し、車の従者に馬を出すよう命じた。


 襄公ら数名が姑棼の公宮に戻ることを別行動をしていた糾らや守備に就いている者たちが誰も知らずにいる中、そのことを知った者たちがいた。公孫無知らである。


「何、姑棼の公宮に向かっているだと?」


「どうなさいますか」


 予想よりも早く襄公が戻り始めていることに、管至父が動揺する中、続けてこのような報告がもたらされた。


「君に従っている者は少数とのことです」


 この報告を聞くと、公孫無知は笑みを浮かべながら連称に言った。


「これ以上ない好機である。このまま公宮に乗り込むとしよう」


 彼らは兵を率いて公宮に向かった。


 公宮に戻った襄公は自分の靴が無いことに気づいた。そのため寺人(宦官)の費にこれを探させたが見つからなかった。


「すみません。ご主君、靴が見つかりません」


「貴様、靴が見つかならないとはどういう事だ」


 かっと怒りを表わにした襄公は費の背中を鞭で何度も血が出るまで打った。


 背中が血だらけになり、ふらふらになりながら費は公宮を出るとそこには公孫無知らの兵がやって来ていた。


 兵らは彼を見つけると縄で捕らえた。


「私は抵抗しない」


 費はそう言うと自分の血だらけの背中を兵たちに見せた。


「私も主君に対し、恨みがある。私が先導しよう。だから縄を解いて欲しい」


 兵たちはこれを信じ、彼の縄を解いた。


「かたじけない」


 そう言って費は公宮に駆け出した。そして、中に入って襄公に会うと公孫無知らの謀反の事を伝え、戸の間に隠れるように言った。襄公を隠れさせると費は剣を持って、迫り来る兵たちに向かって行った。


「騙したな」

 

 それを見た兵が叫ぶと、


「己の主君に剣を向けるよりも貴様らを騙すのは当然であろう」


 費はそう叫び返し、剣を振るったが、数の差を覆すことはなく、兵に殺された。


 その他にも襄公の臣である石之紛如は階下で槍を振るって戦死。侍人の孟陽は襄公の振りをして、床の上にいるのを兵によって殺された。


 忠臣たちが命を散らす中、


「これは主君では無い」


 床の上にいるのが襄公では無いことに気づいた兵たちは襄公は探した。その際、戸から足が見えた。兵たちはそこに向かって、槍を突き出した。


「ぶ、文姜、すまない……」


 妹のことを想いながらこうして襄公は死んだ。


 襄公がいなくなったことに糾らが気づいたのはその頃であった。


「お前たちは何をしていたのか」


 召忽は襄公の兵に怒鳴る。


「い、いつの間にかご主君が居らず」


 兵の言葉に更に激怒する召忽を横目に、


(不味い。この事態は他に知られれば不味いぞ)


 管仲が浮かない顔をしていると公宮の方から兵がやって来た。


「無知様、御謀反。主君が無知様により殺されました」


「何だと」


 召忽は驚き、兵たちは皆、これに大きく動揺する。


(遅かったか)


 管仲は舌打ちをした。すると召忽は槍を手に取り、


「管仲殿、兵を集め無知を討とうぞ」


と提案するが、


「いや、それは無理だ」


管仲は召忽の提案に反対した。


「何故だ」


「ここにいる兵は少数。公孫無知の兵力は不明。士気も上がっておらず、私たちには、他に味方する者はいない。この状態で戦っても負ける確率の方が高い」


「だが、このまま指を咥えているわけにはいかないであろう」


 召忽が管仲に食ってかかるが、管仲は同意しない。


(恐らく高傒殿は味方ではない。彼は公孫無知の動きを察していながらこれを止めようとしなかった。もしかすれば、糾様までここで始末するつもりだったのではないか)


 たまたま襄公が公宮に戻ってしまったために糾は無事であったが、共に糾が殺されていた可能性を管仲はぬぐい去る事ができなかった。では、同じ斉の上卿である国氏はというと高傒と同じであろう。つまり今の糾には味方が居ないのだ。


「ならばどうするのだ管仲」


 糾が聞くと管仲は答えた。


「魯に出奔しましょう」


 糾の母は魯の人である。そのため亡命すれば、魯は受け入れるであろう。それに、


(魯の国君はこの状況で、斉の公子が来るとなれば、後ろ盾として動くことを考えるであろう)


 管仲としては魯の荘公がこれを利用しないほど、野心のない男ではないと思っていた。


「魯にか」


「はい。魯は糾様の母の国であり、魯と斉は同盟関係。我らを迎え入れてくれるでしょう」


「召忽の考えは」


 糾は隣の召忽に聞いた。


「管仲殿の言う通りでよろしいかと」


 召忽としては魯に利用される可能性はあっても、管仲の言う通りに動くべきであろうと思った。


「わかった。管仲の言う通りにしよう」


「では、準備致しましょう」


(魯の方が莒より、近い)


 管仲の頭の中には常に鮑叔がいる。


(鮑叔ならここではまだ動かないだろう。動くとすれば公孫無知が乱にあったときだ)


 公孫無知も襄公のように乱で死ぬと思っている。そのため公孫無知は怖くない。最も怖いのは鮑叔である。


(次が勝負だ)


 管仲は未だ姿を現さない友に向かってそう思った。


 こうして乱を起こした公孫無知は即位し、公子・糾らは魯に出奔した。斉の混乱は未だ続くことになる。

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