第33話 恐れない者には
紀元前700年
鄭の厲公が即位した後、頻繁に宋が賄賂を要求した。即位を助けたためである。そのことを理解している厲公は賄賂を渡そうとしたがこれを祭仲が反対し、宋に賄賂を渡さなかった。
それによって鄭と宋の関係が悪くなり始めた。
その関係を修復しようとしたのが魯の桓公(かんこう)である。魯は近年、宋との関係強化に努めていた。そのため今回の鄭と宋の間を取り持とうと考えたのである。そこで魯の桓公は燕君も交え、宋の荘公と穀丘で会盟した。
陳では陳の厲公が死に、弟の林が即位した。これを陳の荘公という。
しかし、ここで疑問が生じる。陳の厲公には子の完がいる。それを差し置いて、なぜ弟が即位したのか。表向きは完がまだ幼いという理由であったが、既に完は大夫に任命できるだけの年にはなっている。それ故か陳ではこんな噂があった。
荘公は兄である厲公を殺したのではないか?
兄を殺し、即位したのが本当であれば陳の荘公は大逆を犯したことになる。だが証拠がない。そのためそのまま陳の荘公が政務を行った。
一方、魯の桓公は再び、宋の荘公と虚の地で会見した。宋が本当に鄭との関係修復に好意的か確認するためである。
だが、宋の荘公にはそういった部分が見えなかった。そのため魯の桓公は十一月、再び宋の荘公と龜で会見を行った。だがそこで宋の荘公は鄭との関係を修復しないと伝えた。
宋側からすれば鄭が宋に賄賂を渡すということを条件に、鄭の厲公の即位に協力したのである。その恩を鄭の厲公は仇で返そうとしているのだ。
だが魯からすれば未だ鄭は強国である。その鄭と対立するわけにはいかなかった。そのため魯は宋との会見の後、武父の地で鄭の厲公と会盟し、魯は鄭と連携することを伝えた。
十二月、魯と鄭は宋に侵攻し、二度宋を破った。
その頃、南方でも戦が起こっていた。
楚が絞の城を攻めたのである。楚軍は絞の城の南門に駐屯した。
莫敖(他国における宰相)の屈瑕が楚の武王に進言した。
「絞は小国でありながら軽率です。軽率な者には策がございません。柴を刈る者の護衛を外し、城内の兵を誘き出しましょう」
武王はこの進言に従い、数十人の兵に護衛をわざと外して柴狩りに行かせた。
絞の兵は彼らを見ると、護衛がいないため彼らに襲い掛かった。その結果三十人の捕虜を得た。
翌日、再び柴刈りに来た楚の人を見て、絞の兵は功を上げようと我先にと彼らに襲い掛かった。今度は楚の者たちは山に逃げ込んだ。絞の兵はこれに疑問も抱かず、山中に入って行くと、そこには楚の兵が伏しており、絞の兵たちが来るや否や襲い掛かった。
これに驚いた絞の兵は我先に逃げ出したが、南門には楚の本陣がある。そのため彼らは北門から城内に逃げ込もうとした。だが、ここにも楚の兵は伏せられており、北門に来た絞の兵を片っ端から殺した。
これに恐れを抱いた絞は楚と城下の盟を結ぶことにした。城下の盟は降伏するということである。
盟を結んだ楚は退却した。その途中、楚の武王は屈瑕に、
「此度の勝利はお主のおかげである」
と、褒めたたえた。屈瑕はこれを大いに喜びを露わにした。武王に褒められたためか楚に戻った後も今回の戦の功を周りに誇るようになった。
それを見ていたのは闘伯比である。そして、こう呟いた。
「危いかな」
紀元前699年
世界史的には紀元前7世紀に入った頃である。
前年、楚が絞を攻撃した時のこと、楚軍の一部は彭水を渡った。羅は楚軍を攻撃しようとし、大夫・伯嘉を送って様子を探らせた。伯嘉は良い目を持っている。彼は三回、楚軍の兵を数えると勝てると思った。
春、楚の屈瑕が羅を攻撃した。闘伯比が屈瑕を送り出す役目が与えられたが、彼は屈瑕と会ってから、車に乗り、御者に言った。
「屈瑕は敗れるだろう。なぜなら歩く時に足が高く上がっているからだ。これは心に冷静さが無いためである」
彼は御者に急いで王宮に向かうように命じた。
闘伯比は王宮に着くな否や武王に
「屈瑕に援軍を送るべきです」
武王は闘伯比を何を言っているのかわからない表情を浮かべた。なぜなら楚は羅以外にも軍を出しているため兵の数に余裕がない。そのため武王は闘伯比の進言を受け入れなかった。
その後、武王は賢夫人として知られる妻の鄧曼に会いさっきの話をした。すると彼女はこう言った。
「大夫・闘廉は以前、軍に必要なのは数ではないと申しておりました。そして、今、大夫・闘伯比は莫敖に援軍を出すことを乞いました。これは信によって国民を安定させ、徳によって臣下を訓戒し、刑によって莫敖に慎ませようとしているのです。莫敖は蒲騒の役(紀元前701年)での功績を自負し、羅を軽く見ています。主君がそれを抑えなければ、莫敖は備えを設けないでしょう。大夫・闘伯比は本当に援軍を出すことを進言したのではないのです。主君が大衆を訓戒し、諸司を集めて徳に勉めさせ、莫敖に会って天がその過失を許すことがないと伝えることを望んでいるのです。大夫・闘伯比は軍が全て出征しており、援軍を送る余裕がないことを知らないはずがありません。」
彼女の言葉にはっと思った武王は急いで頼の人を屈瑕の元に派遣した。だが、この判断は少し遅かったと言っていい。
既に屈瑕は鄢水を渡り始めていた。渡っている屈瑕の軍は隊列は乱れ、敵への警戒も怠っていた。屈瑕がしっかり命令を出していないためである。
これを不満に思うものもいないわけではなかったが、屈瑕は軍中に諫言するものは斬ると布告を出していた。そのため軍で彼を諌めるものはいなかった。
軍が半分ほど渡り終え始めた頃、
「今だ、かかれぇ」
羅国の兵が襲い掛かってきた。警戒を怠っていたためこの軍に気付かなかった屈瑕の軍は驚き慌てた。まだ軍の半分は川を渡っておらず、陣形を組めてさえいないのである。
ここで大いに慌てた屈瑕は退却を命じた。これは愚策であったと言える。
ただでさえ川を渡るのは大変でしかも敵に攻められている状況であるにも関わらず、渡り終えた兵に戻れというのは難しい。それならばいっそ目の前の軍に突撃した方が得策に思える。
しかしながら一度出された命令を取り下げるのは難しい。そのため兵は生き残るため退却を始めた。
だが、その後方に盧戎の軍が現れた。羅は盧戎と手を組んでいたのである。これにより、屈瑕の軍は挟まれる形になり、軍は大敗した。
屈瑕はこの戦には生き残れたが大敗の責任を取るため荒谷の地で首を吊った。
彼は本来小心者であった。しかし、そのため蒲騒の役で闘廉の言う事をしっかりと聞いて、戦に勝った。そんな彼はこの勝利で僅かに自分に自信を持ってしまった。そのため絞との戦いで策を献じたのである。だが、それで勝った事で彼は驕ってしまった。
もしかしたらこの絞との戦で負けていれば、以前の小心さを取り戻し、慎重な戦をしたかもしれない。
生き残った将は自分で縄を縛り、治父の地で武王の裁きを待った。大敗を知った武王は治父の将たちの元に駆けつけると、
「これは私の罪である」
こう言って、武王は彼らも皆解放した。
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