第29話 速杞の戦い
紀元前705年
夏、鄭の盟邑と向邑が叛いた。この二つの邑は周の桓王から与えられたものであるが、この二つの邑の住民は鄭に懐かなかったようである。
そのため鄭は秋に斉、衛と共にこの二つの邑を討伐した。これを受け、周の桓王は住民らを王都に移し、土地を鄭に与えることにした。
陳の厲公に子が生まれた。この子の名を敬仲または完という。その際、偶々周の太史が通りかかったので彼に筮を立ててもらうことにした。そこで『観』が『否』に変わるという卦がでた。
「これは『国の光を観る,王の賓たるに用いに利し』という象です。この方は陳に代わって国を擁することができます。しかしそれはここではなく、異国においてのはずです。また、この方自身のことではなく、この方の子孫のことです。もし異国においてならば、必ず姜姓の国でしょう。姜姓は太嶽の子孫です。物事は両方面に向かって大きくなることはできません。陳が衰退してから彼の子孫が栄えるでしょう」
周の太史はこのように言った。この完は周の太史の言葉通り、斉に行き、田氏一門という大きな勢力を子孫が作り出し斉を牛耳ることになる。
冬、曲沃の武公が翼の小子候を誘き出し、殺した。そして翌年、紀元前704年になると、小子候を殺した武公はその勢いのまま翼を占領した。
この頃、随君は少師を寵愛するようになっていた。随には賢人と誉れ高い季梁がいるがその彼ではなく、随君が少師を寵愛するのは季梁は正しすぎるためである。
確かに季梁の言葉は一つ一つ正しいものではあるが真面目で細かく慎重なものばかりであった。そのため彼の言葉は随君には心配性なだけであると映り、煙たがるようになった。
一方の少師の言葉は雄大で魅力的な言葉が多いそのため随君には頼もしく映り、少師を寵愛するようになった。
そんな随の状態を見て、笑みを浮かべるのは楚の闘伯比である。彼はこの随の状況を見て、楚の武王に進言した。
「随に隙が生まれました。この好機を失ってはいけません」
武王は彼の言葉を受けるやいなや腰かけていた椅子から立ち上がると、
「出陣の準備をせよ」
と、軍を出すよう命じた。
夏、楚の武王は沈鹿に集まるよう周辺諸国に要請を出したが、随と黄が来なかった。そのことに怒った武王は黄へ薳章を派遣しこれを攻めさせ、自身は軍を率いて随を攻めることにした。
漢水と淮水の間に軍を駐屯させた楚の軍を見て、季梁は随君に進言した。
「一旦降服を申し入れましょう。それで許されなければ戦えばよろしい。許されなければ我が国の人々は憤激させ、降服を申し入れることで楚は油断することでしょうからこれを突けばよろしいのです」
だが少師がこれに反対し、随君に進言する。
「速く戦うべきです。そうでなければ楚軍を逃がしてしまいます」
随君は少師のこの進言を受け入れた。随君は先の戦であっさり退いた楚軍を見て、楚は弱兵だと思っていた。そのため弱兵なのに一旦降服せよという季梁の意見は愚かとしか言いようがないと思った。また、
(降服するとして楚に頭を下げるのは嫌だ)
随君の自尊心が楚に偽りでも降服を申し込むのを嫌がったのである。
だが季梁からすれば随君のそのような考えは甘く愚かであった。また少師の意見も愚かとしか言いようがない。この戦は国の存亡を賭けた戦いであり、負ければ滅ぶこもしれないのである。それにも拘わらず、一方的に戦えとしか言わない少師はそういったことを考えてないまさに愚者である。
また楚軍を逃がさないために速く戦えというのも変な意見である。この戦は防衛戦なのである。それなのに相手が退いてくれるのを危険を犯してまで攻めるべきではないのである。本当に愚かとしか言いようがない。
だが、戦を仕掛けることに決まった以上は戦をするしかない。
(どうすれば随は滅びなくて済むかこれを考えなくてはならない)
季梁はそのための術を必死に考えながら戦の準備を始めた。
随軍は楚軍と対峙した。季梁は随君に進言した。
「楚は左を尊びます。楚君はきっと左軍にいるでしょう。楚君とはぶつからず、まず右軍から攻めましょう。右軍には精兵はおりません。そのためこれを打つ破ることができましょう。これを打ち破ることができれば楚軍は壊滅します」
またしても季梁の進言に少師が反対した。
「楚君と正面からぶつからねば対等とは言えませんぞ。正面からぶつかるべきです」
少師の意見に随君は頷き、季梁の策を用いず速杞の地で楚と随は会戦した。
楚の兵は長年鍛えられた兵ばかりであり、特に楚の武王の回りはその中でも精兵中の精兵である。そんな軍にまともに当たればどうなるかは一目同然であった。
結果、随軍は楚軍の前に完膚なきまでに倒され、大敗した。
随君は必死に車右である少師と共に戦場を逃げ回っていた。それを追いかけるのは楚の大夫・闘丹である。
「速く、速く逃げなければ捕まってしまうぞ」
「わかっております」
随君は鼻水や涙で顔を滅茶苦茶にしながら少師に縋るように言う中、少師は必死に車を操り、逃げていた。
少師は何度も後ろを見ながら、しつこい闘丹を何とか撒こうとした。
(もうすぐ味方のところにいけるはずだ……なっ)
そう思いながら、逃げていた少師だがその時、有り得ないことが起きた。自分の進む方向から矢を射られたのである。
矢は少師の右肩に刺さり、少師に激痛が襲った。それにより車を操っていた手綱を放してしまい、更には馬に矢が刺さり、馬は痛みのあまり体を上に反り上げた。それにより、少師と随君は宙を浮き、そのまま地面に落下した。
痛みを堪える少師は自分の肩に刺さった矢を見て、
(なぜ矢が突然前から前には味方しかいないはず、なのに)
少師が何とか立ち上がろうとした時、目の前に剣が現れた。
「大人しくせよ、でなければ殺すぞ」
剣の主は闘丹である。少師は剣を見て、恐怖し、大人しくなった。それを見て、闘丹は前方を見た。そこには随君を助け起こしていた季梁の姿とその回りを固める兵の姿があった。
これでは随君を捕らえられないと思いながら闘丹は捕らえた少師と随君の用いていた戎車を本陣に連れて行くことにした。連れていかれる中、少師は味方の方を向いた。そこで季梁の姿を見て、彼は矢を放ったのは季梁だと確信した。
随君は季梁に守られながら城へ戻った。随君は大敗の影響で衰弱しており、そのためか彼は城に戻ってから季梁に縋り付いた。
「どうすれば助かることができるのだろうか。季梁よ、どうすれば良いのだ?」
「大丈夫でございます。これから使者を出し、講和を申し込めばいいのです」
「楚が講和を受け入れるだろうか?」
「必ずや楚は受け入れましょう」
季梁はそう随君に言い笑みを浮かべた。
その頃、少師を捕らえた闘丹が楚の本陣に戻ってきた。武王はこれを喜んだが闘伯比は心の中で舌打ちをした。
(これでは随は落とせない)
そう闘伯比が考えていると随から使者がやって来た。使者は講和を求めた。武王はこれに不快感を顕にし、講和を断ろうとしたがこれを闘伯比が止めた。
「天は随から害(少師)を除きました。随を手に入れることはできません」
少師を捕らえたことで随の政権を季梁が握るだろう。そうなれば容易に随を攻略するのは難しくなる。そう言っているのだと理解した武王は悔しそうにしながらも随との講和を決めた。
秋、随と楚は講和し。楚は随から引き上げた。
講和の際、闘伯比は季梁と会った。
「随の賢人と知られる季梁殿に会えて嬉しく思います」
「いやいや、こちらこそ闘伯比殿に会えて嬉しく思っております」
そのような簡単な挨拶を交わし、闘伯比は切り出した。
「ところでこちらが捕らえた少師殿のことでございますがその彼が矢を季梁殿に射られたと申しているのですが」
「はて、何のことでしょうな」
季梁はとぼけたように言った。
「では両国は講和されましたので少師殿をこちらにお返ししたいと思うのですが」
「それは構いませんがね」
何か含みを持ったように言う季梁に疑問を闘伯比は抱いていると
「報告があります」
兵が闘伯比の元にやって来た。そして、兵は近づき闘伯比に耳打ちした。
「何だと」
兵の報告に闘伯比は驚いた。
「どうなさいましたかな?」
そんな彼に季梁が問いかける。闘伯比は季梁を睨みつけながら
「少師殿が自害なさったそうです」
「なんと、少師殿が……彼は人一倍責任感の強い方だったとは言え、そのようなことを……」
季梁は悲しそうに言った。そんな彼を闘伯比は冷たい目を向けるだけであった。
「そこまでなさいますか?」
「国を守るということは非情でなくてはならないのでございます」
そう季梁は答えるだけであった。
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