第20話 潁考叔

 紀元前712年


 春、魯に滕侯と薛侯が来朝することになった。


 因みに本来来朝とは諸侯が周王朝に朝覲することを言うがこの時代、小国が大国の主に挨拶することを来朝と言った。本来の言葉の意味が変わるほど周王朝の力は劣いていたと言って良いだろう。


 さて、魯に二人の諸侯がやって来たのだが魯の宮中では怒号が上がった。


 滕侯と薛侯の二人は魯への謁見の順番を争っているのである。薛侯が言った。


「私の国は貴国よりも先に封侯を受けた。」


 薛侯は自分の諸侯としての歴史の長さを誇った。薛は周王朝よりも遥か昔、夏王朝の時代に祖先が封侯を受け、薛に報じられていた。


 滕侯がこれに反論した。


「私は周の卜正(卜官の長)に任命されており、また薛は庶姓(周とは異姓ということ)ではないか。私は周と同性である。故に薛の後になるわけにはいかない。」


 滕侯は今の自分の立場と血の尊貴さを誇った。


 二人は自分の主張を互いに曲げず、言い争いが続いた。


 このことを知った魯の隠公は羽父を二人の元に派遣し、薛侯にこう伝えた。


「君と滕君は私に序列を聞いてきました。周にはこのような諺があります。『山に木があるため工匠が整え、賓客に礼があるのであれば主はそれをもてなす』と、周の礼では異姓が後ろになります。そのため私が薛に朝見した時は、私は任姓(薛の姓)の諸侯と序列を争いません。もし君が私に恩恵を与えようと思うならば滕君の請いに同意していただきたい。」


 薛侯はこれに同意し、滕侯を先にした。


 夏、魯の隠公と鄭の荘公が郲の地にして、会見した。


 会見の内容は許を攻める相談である。許は鄭の南の位置にある国である。


 鄭は前から許を攻める準備を行っていた。攻める理由は許が法に従っていないということである。


 実際に許がどのような法を破ったのかわからない。


 五月、鄭の荘公は許を攻める上で祖廟にて大夫たちに武器を配った。この時、ちょっとした諍いが起こった。


 大夫・公孫閼こと子都と潁考叔が車を巡り、争ったのである。子都は美青年故に荘公に気に入られた人物で、潁考叔は荘公と母・武姜の間を取り持ったことから気に入られた人物であり、二人共荘公の寵愛を受けて、卿の位を与えられている人物である。


 この諍いの中、潁考叔は輈(車轅)を奪って先に走り出した。子都は戟を持ってこれを追いかけたが大路に至ったところで潁考叔を見失ってしまった。子都は気に入られていることをいいことに傲慢な振る舞いをする人物であるため彼は潁考叔を怨んだ。


 七月、鄭の荘公、魯の隠公、斉の僖公らは許を攻めた。


 許の城を三国の連合軍は囲み、一斉に攻める。許の城に向かって、矢が飛び交い、兵士たちの怒号が響き渡る。


 許の抵抗は激しく、中々これを攻め落とすことができなかった。


 そんな中、許の城壁に向かって鄭の荘公の旗である蝥弧を持って、駆け出したのは潁考叔である。彼は城壁に着くやいなや、彼は城壁をよじ登り始めた。城壁の上に一番乗りすることで士気を上げようとしたのである。


 潁考叔に向かって、許の兵士たちは矢を放つが彼は気にせず登ってゆく、そんな彼をじっと見つめる者がいる。子都である。


 彼は車を取られたことを未だに恨んでいた。そのため蝥弧をもってよじ登る潁考叔を見て、心の奥から湧き上がるものを感じた。


 その湧き上がる感情のまま彼は弓を構えた。その先にいるのは潁考叔である。周りの者は目の前の許の城に気に取られ、気づかない。


「死ね」


 子都は矢を放った。矢は真っ直ぐ潁考叔へと飛び、そのまま彼の背中を貫いた。潁考叔は中った衝撃で壁から手を離してしまいそのまま転落した。


 それを見て、鄭の大夫・瑕叔盈が駆け寄った。


「大丈夫か」


 潁考叔は全身血まみれであり、もはや助かる見込みはなかった。


「旗を、旗を持って、城壁の上へ」


 そう言って、絶命した。潁考叔は城壁から落ちてなお、旗を離してはいなかった。


「おお、私が必ずや、これを持って行きまする」


 死んでもなお軍のための行動をする潁考叔に感動した瑕叔盈は蝥弧を持ち直し、城壁をよじ登り、城壁の上に登ると蝥弧を振って叫んだ。


「国君が城壁を登ったぞ」


 蝥弧は国君そのものであり、その声を聞いた将兵はおぉと歓声を上げた。そのまま士気の上がった連合軍はよじ登り始め、許の城を落とした。


 許の荘公(そうこう)は衛に奔り、鄭の荘公、魯の隠公、斉の僖公は城の中に入った。


「良くぞやったぞ。瑕叔盈よ」


 鄭の荘公はこの戦いで城壁に勇気をもって、活躍したと瑕叔盈を称えた。


「私には過ぎたお言葉でございます。すべては潁考叔殿の勇気あれぼこそのこと。これを君に返却いたします」


 瑕叔盈は蝥弧を荘公に渡した。


「うむ・・・ところで潁考叔は背中に矢が刺さっておった。これは後ろから矢を射られたということ。如何なる者が射たのかわかるか」


 荘公は怒りを堪えながら瑕叔盈に問いかけた。


「子都殿でございます」


「子都だと・・・それは確かか」


「この目ではっきりと射るところを見ました」


 荘公は子都の名を聞き、動揺しながら確認を取ると瑕叔盈がはっきりと答えたため子都がやったのだと確信した。


「そうか、わかった。下がって良い」


 瑕叔盈は荘公がそう言ったことに怪訝な顔をした。彼からすればなぜ子都を罰しないのかと思うからである。しかし、彼は荘公の言う通り、荘公の前から立ち去った。


 瑕叔盈が去った後、荘公は一人で考え込んだ。彼は出来けれ、子都を罰したくなかった。なぜなら子都を罰することでこの戦で二人の卿が死ぬと人々に余計な混乱をもたらすと考えたためである。また潁考叔にも非があるとも考えた。だが潁考叔は


(自分と母の間を取り持ってくれた。彼のおかげで私は母と過ごすことができた。)


 母武姜は既にこの世にはいない、そして、その母と自分を取り持ってくれた潁考叔も世を去った。この時荘公は不意に孤独を感じた。そして、一人、悲しんだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る