青と嵐のセプテンバー

 セプテンバー,それは青と雷の季節.はげしくたたきつけるような季節.でもね,僕にとっては花火の燃えカスみたいな日々.僕はその過ぎ去っていく日々を眺めている.漠然とした何かにすがり,それが僕をどうか生かしてくれますように,と毎朝いのるような心地で生きているんだよ.

「このトースト焼きすぎじゃない?」

 と彼女が言う.

「いやこれでいいんだ」

 脱水の終わっていない洗濯機がカラカラと頼りない音を立てる.

「だってなんだか焦げ臭いし,耳の部分は固いし」

 まるで木の皮みたい,と彼女は言う.

「君にトーストの何が分かるって言うんだ」

「分かるわよ.だってあなたのことだもの」

 僕は返事をしないで洗濯機の音が止まるのを待っていた.彼女はまだ何か言いたげだったけど僕の耳には届かなかった.時折,洗濯機がカッカッと咳をした.

 僕は冷蔵庫にあるアヲハタのストロベリージャムを取り出しトーストにたっぷり塗って,煮出した濃いコーヒーを氷の入ったグラスに注いだ.無線ラジオは今日の天気について語ったあと,T.Rexのメタルブルーを流した.僕はジッポライターをカチンと鳴らし,アメリカンスピリットに火をつける.口いっぱいに大地の味が広がった.窓の外には洗濯物が物干し竿にかかっており,その向こうには残暑を従えた青空が鎮座していた.

 お前もこっちに来いよ,と残暑が手招きした.雲の切れ目からのぞく生暖かい光が毒をはらんでいることを彼女はまだ知らない.

「ちょっとでかけてくるよ」

 静止する彼女の声を振り切って僕は準備する.擦り切れたズボンと虎の写真がプリントされた赤いシャツに着替え,シアトルマリナーズの野球帽を被り僕は部屋を出た.朝食は彼女に用意したものだから僕はいらない.

 ドアを開くとむわっと湿気が僕を出迎える.梅雨の残り香がまだ立ち込めて,まだ床がひんやりと冷たい.日差しはない.屋根に遮られている.ここは二階だから直射日光はあたっていないんだ.僕は廊下の手すりから身を乗り出して外を見る.外は朝にも関わらず日がカンカンに照っていて,僕たちのアパートを重く照らしていた.でも僕の足元には影がある.光は無い.僕たち以外のものをギロチンのように隔てている.サンクチュアリだ.断頭台に立ったような気分だ.

 僕はとりあえず,駅前にあるハンバーガーカフェに向かって歩くことにした.この店のフィッシュバーガーはいつ食べてもおいしい.バンズの焼き加減が絶妙なのだ.魚も得体の知れない深海魚ではなく,きちんとした白身魚を使っている.そしてあの娘は知っている.世界の裏側でどんな残酷なことが起きていようとも,少なくとも,あの緑のキャップを付けたアルバイトの女の子は,バンズを僕の好みの焼き加減にしてくれる.

 彼女はいつもレコード板のような仏頂面でカウンターの裏に立っていた.接客やレジは愛想のいい,頬に少しそばかすのある同年代の友達に任せて,自分はただ炭を焼く翁のようにバンズを焼いていた.メズ,という名札をぶら下げたハーフアップの女の子だ.バンズ,メズ.メズバンズ.どんな漢字なのだろう.

 そんなことを考えながら歩いていると不意に横から飛び出してきたトラックに轢かれそうになる.運転手は目もくれない.僕のことなんてどうでもいい,とばかりにアクセルを吹かして行ってしまう.

 そんな僕の心中を察してかぽつぽつと雨が降り出してきた.音の孤立はやがて連続性を帯びていき大きな一つのまとまりになる.みんなはそれを通り雨という.なんでこんな朝から,と僕はぶつくさ文句を言うが,言うほど朝でもないな,と思い直した.

 どうしたものか,と辺りをうろついているとちょうど大きな橋が視界に入ってきた.僕はすっかりぬれねずみになっていたので,やれ幸いと橋の下に逃げ込んだ.ハンカチでちまちま頭を拭いていると雨飛沫と一緒にもう一人飛び込んできた.

「すごいですね」

「ええ,ほんとに」

 雨,と僕はその人につぶやく.

「仕事の帰りですか」

「ええ,まあ」

 その子はぬれた髪をハーフアップにしている.それでも仏頂面は変わらない.うっかり屋なのか,名札が付けっぱなしだ.

「メズ,さん.ですか?」

「え? あ,はい」

 メズはちょっと驚いた顔をした後,また仏頂面に戻った.

「どんな字を?」

「あ,えっと,ふあいと書いてめずって読むんです」

「ふあい?」

「あ……不愛です.不可能の不に慈愛の愛で」

「それでメズ?」

「ええ」

 僕は思わずため息をついた.雨はまだ止みそうにない.

「メズさん,と呼んでも?」

「えっ,ええ.かまいませんよ」

「メズさん」

「はい」

 僕はにっこりと笑った.彼女も薄く笑い返してくれる.彼女の笑顔を初めて見た気がする.雨脚は強くなる一方だ.ここは孤立している.僕は胸の高鳴りを押さえられなかった.

「メズはそこのハンバーガーカフェで働いているよね?」

「あ,そうです」

「君の焼いたバンズ,僕はとてもすきなんだ.実に僕の好みどおりの火加減で.すごい上手なんだね,焼くのが」

「いえいえそんな……」

「好きなんだ君の焼き加減」

「ありがとうございます」

「僕はトーストをカリカリに焼くのがすきでね.いつもあのバンズみたいに焼けないものかと試行錯誤しているんだけどうまくいかないんだ」

「ちょっとコツがいるので」

「コツ?」

 彼女はしまった,という表情をして「たいしたことじゃないんですけど」と訂正した.

「いやでも本当に気になるな.そのコツっていうのを.ぜひ教えてもらえないかな?」

「いえ,ちょっと……,それほどのことでは」

「じゃあこんど店に行ったときにでもこそっと耳打ちしてほしいな」

「あ……,もうお店辞めたんで」

「え?」

「あの,じゃあ失礼します,ほんとに」

「辞めた?」

 彼女はごうごうと降りしきる雨の中走っていった.傘も差さず,一目散に.

 僕は取り残された.孤立した.メズの名札が落ちていた.僕はそれを拾い,握り締めた.

 しばらくすると雨が止んだ.また日が差す.さっきより強く.橋の下はサンクチュアリだった.強度の聖域だった.僕は耐え切れなくなって日の下に身をさらす.うなじが焼ける.チリチリと.バンズも焼ける.カリカリと.僕の足は自然とハンバーガーカフェに向かっていた.

 カフェに入ると心地よい冷気が僕を出迎えてくれた.思わず顔がほころぶ.なんてあたたかいんだろう.僕は涙が出そうになるのをこらえてフィッシュバーガーを注文する.そしてメズの姿を探してしまう.

「お客さん」

 僕に話しかけてきたのはそばかすの女の子だった.あのやたらと愛想のいいメズの友達.

「メズは辞めましたよ?」 

  でも今日は何故だか愛想が悪かった。

「それを確かめに来たんだよ」

「やっぱり」

 そう言うと彼女は足早に奥に引っ込んで行き,店長を呼んできた.

「店長,この人です.メズに付きまとっていたストーカー」

 そばかすの娘は僕をきっと睨み付けてそう言う.

「ストーカー?」

 僕が事態を飲み込めずにいると店長が落ち着いた声で言った.

「もう店には来ないでください」

 店長の目は深く僕を見据えていた.ぼくはしどろもどろに答える.

「そんな……,ちがうよ」

「違う訳あるか.メズはあなたが怖くてやめたんだから」

 そばかすの娘の瞳は侮蔑に満ちていた.

「もう店には来ないでください」

 店長は断固とした口調で言った。

「でも」

「出て行け」

 警察呼びますね!と正義感に駆られたどこかのおばさんが110番していた.僕は一目散に出口に向かい,自動ドアを手動で開けた.冷気がひんやりとぼくを一瞬まとって消えてゆく.僕は熱気に包まれた.

 汗だくになって家に戻る.洗濯機がまだからからと音を立てている.腹が減っていた.僕も洗濯機も空腹だった.とてつもないほどに.僕は朝食を作ったのを思い出す.もう食べてしまっただろうか.少しでも分けてくれたらいいんだけど.

 でもテーブルの上にはまだ朝食は残っていた.トーストはかさかさになっていたけど食べられる.僕はそれをかじる.唾液がじゅわぁとあふれ出す.さっきの雨みたいに.たくさん,たくさん流れ出る.僕の口の端から.泡のように唾液が吹き出していく.

「エイミー」

 と彼女を呼んだ.

「いっしょに食べよう」

 しかし彼女はいなかった.

「エイミー?」

 僕は立ち上がる.

「エイミィ!」

 僕は怒鳴る.でもこだま.無い.

 どうしよう……,行方不明だ.と僕はあせった.エイミィ,ゆくえふめい…….

 僕はとりあえず母に電話することにした.母とエイミィは仲が良かった.いつもこの部屋でご飯を食べていて,三人でお話をしていた.携帯電話を取ると留守電が入っていた.父からだった.僕は母にかけたい衝動を抑えまずその留守電を聞く.

「母さんの葬式は明後日やるぞ」

 父は暗い調子で言った.

「それから栄美ちゃんのご両親も来るからお前もちゃんと来なさい」

 電話はそれきりだった.とおい断絶の音がした.

 そう,エイミィも母さんもいないのだった.昨日死んだ.トラックに轢かれて.ぐちゃぐちゃのミートパティになったんだ.二人とも仲が良くて,僕のために服を一緒に買いにいってくれて,その帰りに.ミートパティになったんだ.

 洗濯機がカラカラと音を立てていた.うるさいほどだった.僕は無言で洗濯機に近寄り蹴った.それでもとまらないので何度も蹴った.すると洗濯機はしゅうんと動かなくなり音も立てなくなった.

 中を覗き込むと指輪が入っていた.これは僕がエイミィにあげたものだ.昨日からここに入っていたのだろう.からから.

 僕はいまに戻ってテーブルに座った.ジッポとアメスピがある.僕はアメスピに火をつけて,座布団に火をつけた.燃えた.ゴザにも付けた.燃える.アメスピを吸いながらいまに火をつけていった.着火,点火.すると呼び鈴がなった.僕がドアを開けるとそこにはメズがいた.メズはにっこり笑っていた.

「コツを教えに来たんだよ」

「どうやったらあんなにうまく焼けるの?」

「人をカリカリに焼くの」

 なるほど,と僕は思った.バンズ,とメンズがかかってるんだね.そうだろ? メズ.

 メズはにっこりと笑った.僕は彼女を抱きしめた.そろそろガスに引火する頃だろう.すでに僕の心には火がついている.僕は燃えカスになるだろう.でもいいんだ,道の上の何かにすがって生きるよりずっと心地よいことだから.

 かくして僕は熱気に包まれた.蒸し暑い,セプテンバーの言い訳に呑まれた.

 そして全てが呑まれたあと,ゆっくりと喪失の匂いが立ち込めてくる.そう,秋がやってきたのだ.

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