靴を洗う

八谷 のりこ

帰国


旅で履いた靴を洗う。

雨に打たれた靴を。

浜辺を歩いた靴を。

ぬかるみを踏みしめた靴を。


メッシュに染み込んだ恵の雫。

中からは細かい砂粒がさらさらと。

真っ白い縁とロゴマークには赤い泥。

撚れて擦り切れた紐の一部。

靴底には誰かのDNA。


洗面器にぬるま湯を貯め、私は靴を丁重に沈める。

細かい泡を吐き出しながら、靴は質量を増す。

たちまちお湯は濁る。

それを見て私は少し微笑むのだ。


スコールの足音に気付いた時にはもう体は濡れていた。

人の心の機微に気が付けるのは変化があってからのように。

心構えが足りなかったことを悔やみながら受け入れるしかない。

メッシュを優しくこするとお湯は黄土色に染まった。


砂の城は一部が倒壊すると連鎖的に全部崩れてしまう。

信頼を失うには一つの過ちで十分なように。

慎重に少しづつ積み重ねなければならない。

砂浜の欠片を靴の中から洗面器に移した。


汚れというものは取れるからこそ汚れである。

出会いというものは別れがあるからこそ出会いであるように。

二度と同じように付くことはない。

赤土をブラシで丁寧にこそげ落とした。


捻れた紐は癖がつくと元に戻らず傷んでいく。

一度拗れた関係をリセットすることはできないように。

気付かないうちに切れてしまい修復することはできない。

紐を外して刺繍糸でできる限りの補強をした。


遺伝子の記憶は噛み終わったガムからも読み取れるらしい。

ちょっとしたきっかけですぐに君を思い出すように。

そして相手がこちらに思いを向けることは決してない。

躍起になって結局爪でガムを剥がした。


この靴を捨てたくてしょうがないのに

旅をするごとに靴を洗うのが上手になっていく。

あなたのことを忘れてしまいたいのに

こんな安物の靴一つ、失いたくない自分だ。


重曹をまぶして洗った靴をゆっくりとぬるま湯に沈める。

炭酸の細かい泡を吐き出す、君が選んでくれた靴。

たちまちお湯は濁る。

それを見て私はまた、少し微笑むのだ。

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靴を洗う 八谷 のりこ @norikkkkkk

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