南国の花嫁 11-6 願いのゆくえ

「ご、ごごごめんね! ……痛かった?」


 起き上がると同時に声をあげたナルニエは、すぐに膝を落として座り込んだ。


 毛に覆われた枕のようなものに手をのばし、毛並みに沿うようにしてゆっくりと撫でながら、その不思議な体躯を見回してみる。全体の長さは、ナルニエ自身の背丈の半分ほど。けれど横幅と厚みがあるので、抱きかかえては運べないほどの重量がありそうだ。


 みっしりと生えている白い毛は、手のひらが埋まるほどに長くたっぷりとしている。ふんわりと弾力のある温かな手触りは、生き物で間違いなさそうだ。全長の三分の一ほどは太い尾になっており、こちらのほうはうっかりすると指先をりむいてしまいそうなほどに硬く、金属めいた光沢と手触りであった。胴の部分の見える位置に、手足に相当する出っ張りはない。


「ね、気絶しちゃってるの? だいじょぶかなぁ……」


 ナルニエの傍に、警戒するように態勢を低くしたピュイが寄ってきた。喉の奥から唸り声を発しつつ、鼻をヒクヒクと動かしながら、正体不明の生き物をじっと睨むように凝視している。


「キケンな感じ、する?」


 ナルニエは友人に問い掛けた。


 言葉の割には警戒心のかけらもなさそうな様子の彼女に、ピュイはどうだろうというようにくびを捻ってみせた。だが、眼前の生き物が妙な動きを見せたらすぐに鉤爪の一撃を喰らわせてやれるよう、鋭くすがめた視線を断固として生き物の背中からがさずにいる。


 地の底の薄闇の中でも、ピュイにははっきりと判別できていたのだ。目の前に横たわる生き物が、ただの昆虫や動物ではなく、魔獣と呼ばれるものであることが。かけ離れた知性と魔力をもつ始原の存在であるとはいえ、彼もれっきとした魔獣なのだから。


 魔獣は本能として、濃い魔力マナに惹きつけられる。実体をもつとはいえ、ナルニエは魔力マナそのもので構成された幻精界の住人だ。もし相手が知能の低い凶暴な魔獣ならば、起き上がると同時に彼女へ襲い掛かるかもしれなかった。


 だが、ピュイの心配をよそに、ナルニエは気楽な様子で生き物の尻尾とは逆のほうをひょいと覗き込んだ。「あっ」と声をあげる。


 そこには、ぱちぱちと盛んにまたたいている真紅の瞳があった。幻精界の住人であるナルニエの発しているほのかな光を映して、宝石さながらつややかに美しくきらめいている。


 その瞳に浮かんだ輝きはあどけなく、闇夜におこされたささやかな焚き火のように控えめで、おずおずとした好意すら感じさせるものだった。


「うっわぁああ、可愛いー!」


 ナルニエが歓声をあげる。驚きで語尾の撥ね上がったピュイの声に構わず、彼女は謎の生き物にグッと身を寄せ、耳があるとおぼしき場所に口を寄せた。


「さっきはごめんね、わざとじゃなかったんだよ。ナル、転んじゃったの。ケガはない? どっから来たの?」


 親しげに笑いかけた幼女のやわらかな頬を、白い生き物がふいに出現させた大きな舌でペロッと舐める。


「ひゃっ! くすぐったーい」


 不意討ちを食らったナルニエが笑い転げる。ピュイは気が気ではない。低い唸り声で威嚇してみたが、白い生き物は気にも留めていないようだ。


「キュキュ、キュイ……」


 成り行きを見守っていたキュイが心細げな声で鳴いた。けれどナルニエはにこにこ笑ったまま、「だいじょぶ、すっごくおとなしいよ」と自信満々で請け合った。


 ピュイは白い生き物を胡散うさん臭げに睨みつけた。正体不明の生き物のことが、どうにも気に食わないのである。


「ピュリリェ――」


「心配しないでピュイちゃん! 魔獣さんかもしれないけど、お友だちになれそうじゃない? だってピュイちゃんとキュイちゃんもナルの大事なお友だちだもん。でしょ?」


「ピピュピィ……」


 警戒の欠片もない発言にピュイが言葉を継ぎかけると、れたナルニエは勢い良く立ち上がった。スカートの裾を小さな手ではたきながら声を大きくする。


「そんなことより! ココへ来た目的を忘れちゃうとこでしょ。ナルたち、探さなきゃいけないものがあるんだよ。幻精界の花が、ここのどっかに咲いているんだから。ゼッタイ見つけなきゃ!」


 決然と発した彼女の言葉に、白い生き物がピクッと反応した。もぞりと動いたあと、地面を滑るように動き出す。


 白い毛に隠れて判別できなかったが、腹に無数の足でもあるのだろうか。地面を覆う苔や草の葉を掻き分けるようにして、窪みや起伏をものともせず、滑るように見事な速度で進んでゆく。少し先に進んだところで止まり、丸く厚みのある体躯を器用に折り曲げるようにして振り返った。


 ぽかんと呆けたようにその動きを見守っていた幼子おさなごたちを、赤く丸い瞳でじっと見つめる。まるで、ついて来い、とでもいうかのように。


 ナルニエの表情が、ぱっと輝いた。


「どこにあるか知ってるのね!」


 叫ぶが早いか、白い生き物の後を追いかけはじめる。


「キュイ、キュイ!」


 取り残されては大変とばかりに、キュイがナルニエの後を追う。


 ピュイは最後まで逡巡しゅんじゅんしていたが、苛立たしげに蒸気混じりのため息を吐き出したあと、地面を荒々しく踏みつけながら仲間たちの背を猛然と追いかけていった。


 地中の大地に響いていた彼らの賑やかなり取りが、奥へ向けて急速に遠ざかっていく。


 それらの音が失われたことで地下空洞の静寂が強調されたかのように、小さな虫の音や、小動物が立てた葉ずれの音が、ひどく大きく響くのであった。


 ふいに、先ほど彼らが居た傍の暗く深い水底から、巨大な黒々とした影が音を立てることなく浮上した。全体の大きさからいえばほんの少しだけ水面に現れた影の両端に、紅玉ルビーのような煌めきを放つ眼球がある。


 それは、岸から遠ざかるナルニエたちの様子を、熱心に見つめているようにもみえるのだった。





 白い不思議な生き物の進む速度には、すさまじいものがあった。


「はやくコッチ、見失っちゃう!」


 遥か頭上にある無数の崩落跡から差し込む陽光も、苔や羊歯シダ植物に覆われた地下空洞の地面まで充分に届いてはいない。


 ナルニエは、滑るように這い進む白い生き物を見失わぬよう、全力で駆け走っていた。枝葉や幹の隙間をすり抜けることも多く、小柄なナルニエより幅のあるピュイのほうが苦労をいられていたので、彼女は振り返りながら何度も声を掛けていた。蛇に似た体躯をもつキュイのほうがよほど余裕のありそうな状況である。


「ピ……ピュイ」


 はねを広げるわけにもいかず、駆け走るのがあまり得意ではない龍の幼子は、すっかり息があがってしまっている。あまりに苦しそうな様子に、この探索を言い出したナルニエは彼を巻き込んでしまったことを申し訳なく思いはじめていた。


 地下空洞の広さは、それほどまでの規模があった。


 陰なる生命力に満ちた暗い森には、光に満ちた地上とは異なる独自の生態系が展開されているようだ。燐光を発する不思議な樹木は光を求めて枝葉を広げ、通常種の中でも根性のあるものは地上への崩落跡からこずえを上へと突き出している。地面を覆うのは、靴底を滑らせる緑の苔だ。


 そして何より一行の進行を妨げていたのは、数多くの魔獣や昆虫たちの存在である。


 巨大な倒木の下の隙間をくぐったときには、その上をゆったりと移動する小屋ほどの奇っ怪な影を目撃したし、うっかり手をのせた岩がグラリと揺れて動き出したり、木の枝だと思っていた無数の柱が、実は細く長い足をもつ甲虫だったというのもあった。


 白く不思議な生き物は、それら全てを巧みに避けて走っていく。


 ナルニエもすばしっこく駆け抜けていったので、眠りやいこいを邪魔されて憤慨した彼らの唸りや一撃を浴びせられたのは、どちらかといえば一行のなかでも遅れがちであったピュイなのであったが。


 けれどとうとう、けたりくぐり抜けたりすることで回避できるものとは違った困難が、ナルニエたちの進行を阻んだ。最も奥まった細い通路の先で、ひときわ巨大な崩落跡に出くわしたのだ。


「あー、なにこれぇ……」


 天井だけではなく左右の壁からも岩や土くれが大量にがれ落ち、幾重にも積み重なって、隙間など存在しないほど徹底的に埋め尽くしていたのである。


「ここからじゃ、向こう側へはいけないね」


 ナルニエが悔しそうにつぶやく。彼女が何気なく蹴った小石の転がる音が跳ね返り、反響する様子から、この先に広い空間が続いているのだと判別はできた。


 だが、どうすれば通り抜けられるというのか。


「キュイィ……」


 一行のなかでは一番細いキュイにもお手上げらしい。


 白い生き物は、さかんに周囲をぐるぐると落ち着きなく這い回っている。まるで岩の隙間から向こう側へいける場所を探してでもいるかのように。クゥクゥとひどく切なげな鳴き声を発しながら、赤い目を崩落した岩土の壁の向こうへと向けていた。


 ナルニエは再び嗅覚に意識を集中させた。小さく整った鼻が、幻精界の住人にしか判らぬほど微細な香りを嗅ぎ分ける。


「うん、間違いなさそう。お花はこの奥に咲いてる。……ね、あなたはやっぱり、ナルたちを案内してくれようとしたんだよね?」


 ナルニエは姿勢を低め、白い生き物に語りかけようとした。けれど白い生き物のほうは、鳴きながら周囲をぐるぐると這い回っている。


「違うのかな? なんとなくナル思ったんだけど、もしかしたらおうちに帰るとこだった、とか」


 クゥ、と一声鳴き、白い生き物は動きを止めた。その反応に、幼女の目が大きく目を見開かれる。


「ピュリュイリリ……」


 ようやく追いついてきたピュイが、地面に突っ伏すようにして情けなさそうな声をあげた。


「やっぱりそうだったのね。お花あるとこと、同じ場所に住んでるんだ。たぶんこの子のママとかパパとか、あっち側で待ってるんじゃないかな。きっと心配してる、何とかしなくちゃ!」


 ナルニエは、小さな胸の前でこぶしをぎゅっと握りながら力説した。なるほど確かに、白い生き物は向こうへ行きたそうにみえるし、どのみち花が咲いてる場所を探していた訳だし――ピュイとキュイは互いに目を見交わし、頷いた。


 幼子おさなごたちは散開して、通り抜けられそうな岩の隙間や掘り抜けそうな箇所をさぐりながら、崩落跡のあちこちを覗き込んだ。


 魔獣たちは夜目が利く。ナルニエは自身の体の発するほのかな光があったので、周囲の様子くらいは判別できる。けれど熱心に探し続けても、全員を通してくれそうな場所は一向に見つからなかった。


「ないね……どうしよう」


 どれほどの時間が経過したのだろう。崩落して塞がれている場所は、地下空洞と比較すれば狭いといえる横道の洞穴内、奥のそのまた奥だ。陽光の差し込む天井のある地下空洞は遥か後方である。太陽の位置で判断することもできない状況だった。


「ピュイィ……」


 ピュイが突き出た腹を押さえ、頭上を振り仰いだ。彼なりに、腹の減り具合で判別しているのだ。そろそろ日が傾き、空の色も変わってくる頃かもしれない――リューナやトルテたちが、いつ戻ってきてもおかしくないはずだ。


「ピュリリェ……リリ――」


「だめっ、あきらめないもん!」


 戻ることを提案しかけたピュイの言葉を、ナルニエが強い口調で遮った。彼女は小さな両手を土埃まみれにしながらも、隙間を求めて崩落跡をさぐり続けている。その隣では、白い生き物が切なげな声で鳴き続けていた。


「家族は……いっしょ。ひとりぼっちは、寂しい」


 うつむいたナルニエの足元に、ぽたりと何かがしたたった。小さな靴が、慌ててそれを踏み消す。


「キュッ、キューイ!」


 少し離れた場所にいたキュイが飛ぶように戻ってきて、ナルニエのスカートにすり寄った。ピュイも友人たちの傍に、ゆっくりと歩み寄る。


「うん……お花のためだけじゃ、ないんだよ」


 暗く深い地底の洞穴内で、ナルニエ自身、心細さを我慢してきたのだろう。友人たちを巻き込んでここまで来てしまったことを後悔しているのかも知れない。それとも、帰れなくなってしまったらしい白い生き物に、同情したのだろうか……。


 ピュイは瞳に決意をともし、息を大きく吸い込んだ。


 崩落した岩土の壁に向き直る。腕先をゆっくりと慎重に動かし、自分の喉奥に向けて『強化』の魔導の技を行使した。薄暗い洞穴内に、魔導特有の透明度のある緑と青の光がひらめき、小振りながらも美しい魔法陣を描き出した。


 唐突に、背後から凄まじい爆音と衝撃が轟き渡った。ガガガガと鳴り響く連続音と、洞穴のあちこちを削り取るような破砕はさい音は、尋常ではない。ナルニエたちは弾かれたように背後を振り返った。


「な、なななな、なに!? なにかコッチに向かってくるよ!」


 気づいたときにはもう、それは眼前に迫っていたのである。


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