南国の花嫁 11-7 奇跡の花

「キュイィッ!?」


「ピュイちゃん!!」


 キュイが悲鳴混じりの声をあげ、ナルニエは考えるより先に飛び出した。


 友人たちの声に驚き、咄嗟に背後を振り返ったピュイは、無理な体勢でナルニエの体当たりを受けた。横倒しになるように、ふたり並んで洞穴の床に転がる。


 だが、それが良かった。ふたりの上をかすめるように、凄まじい質量をもつ黒い影が通り過ぎたのだ。次の瞬間、轟音と衝撃が空間を震撼させた。


 もしそのまま立っていたならば、ピュイの首が吹き飛んでいたかもしれなかった。その可能性にゾッとする暇もなく、ナルニエとピュイは必死で手足を動かし、這うようにしてからくもその場からのがれた。ふたりの居た場所に巨岩が突き刺さり、砕け散ったのだ。


 頭上からの凄まじい圧迫感――ひとつやふたつではない。先ほどの衝撃が洞穴の壁や天井を割り砕いたのだろう。耳を圧するほどに轟音が高まり、先ぶれのように落ちてきた巨岩に続き、次から次へと岩の破片が落下してきた。


「きゃ! いたたたっ、なっ、なにこれ!」


「ピュリリェッ!」


 呆然となりかけたところへ響いたナルニエの悲鳴が、ピュイをき動かした。土埃が広がり、破片が容赦なく降り注ぐ闇のなか、ピュイは彼女のかすかな光に突進し、腕にかばうと同時に上へ向け喉奥から力いっぱいに炎を吐いた。


 先ほどの魔導の技により強化された炎が、ふたりの頭上から大量に崩落してきた岩盤を吹き飛ばす。空隙が生じたタイミングを逃さず、瓦礫に覆われた床を駆け抜ける。


「キュイイィィーッ」


 安全な壁際に退避していたキュイがふたりを呼んでいた。割り砕かれた岩の突起に表鱗を傷つけられながらもキュイの声を頼りにたどり着いたピュイは、ナルニエを背後の壁に押し遣ってかばい、崩落の直下を逃れた安堵でガクリと膝をついてしまう。


「ピュイちゃん!」


 ナルニエが声をあげ、友人を少しでも壁際へ寄せようとして背にしがみつく。そのとき、濃く圧縮された風のようなものが押し寄せるように吹き渡った。一瞬にして土埃が吹き払われ、周囲の状況があらわになる。


 顔を上げた幼子おさなごたちは驚愕し、互いに身を寄せるようにして為すすべもなく立ち尽くした。視界がひらけると同時に、眼前に現れた脅威にようやく気がついたのだ。


 ギギイィィィィィィ……!!


「キュ……」


「な、なにアレ……?」


 天井の一部が大きく抜け落ちていた。黄昏たそがれの色彩に染まった血色の空を背景に、奇怪な黒い影が立っている。崩落した岩盤の降り積もる瓦礫の山を崩しながら起き上がった直後らしかった。


 苛立たしげに身震いをした「それ」は、パラパラと破片を振り落としながら向きを変えて周囲を睥睨へいげいし……寄り添い合うみっつの影に気づいたのである。





「やっべえ! すっかり遅くなっちまったぜ」


 暗くなりはじめた景色に気づき、リューナは慌てて立ち上がった。傍らに座っていたディアンもまた、暮れる空を見上げて驚きの表情になる。


「本当だ、時間の経つのは早いね。じゃあリューナ、話の続きは帰ってから……といっても、もうほとんど伝えたと思うし、あとは実践あるのみだね」


「じ、実践!? いや、でもさ! そんな雰囲気なんて……早々には」


「あのねリューナ、待ってちゃ駄目なんだ。雰囲気っていうのは自分で作らなきゃ。うーん……じゃあ仕方ないな。家に戻ったら夕食のあとにでも、僕が君たちを呼んできっかけを――」


「ちょっ、待てディアン」


 背後から近づいてきた軽やかな足音と気配に素早く反応し、リューナが慌てて友人の口を塞ぐ。


「リューナ、そろそろ戻りましょう。ナルちゃんたち、おなかを空かせて目を覚ましている頃だと思います」


 トルテだ。ミルクで満たした特製の冷温水筒を携えている。背後には山羊やぎたちに囲まれたエオニアの姿もあった。


「そうだな。えっと……それ、重そうだな」


 リューナがトルテの細い腕から水筒を持ち上げると、「ありがとうございます」という素直な笑顔が返ってきた。最近はどういうわけかすぐに眼を逸らされていたが、いまは真っ直ぐにリューナの顔を見つめ、頬を染めながら微笑んでいる。


 暮れゆく空の下であるにもかかわらず、その笑顔がまるで輝いているようにまぶしく感じられ、リューナは鼓動を跳ね上げると同時に心の内で大きく首を捻った――嬉しいことでも、あったんだろうか。エオニアがディアンに何事か耳打ちして、ニコニコ笑顔でこちらに片目を閉じてきたのもすっげぇ気になるんだけど。


「なんかあったのか?」


 リューナに問われ、トルテは微笑んだまま少しだけ目を伏せた。


「あのね、リューナ。あとでお話があるんですけれど――」


 まるで秘密でも打ち明けるときのように熱をもった声だ。リューナの鼓動がさらに跳ね上がる。


「え、は、話? 実は、俺からも……きちんとおまえに伝えなきゃならねえこと、話というか、その」


 互いに落ち着かなげな挙動になりつつも、ふと合った視線が離れない。幼い頃から長い時間をともに過ごし、相手を意識しはじめたリューナが告白めいた台詞を口にしようとも、彼女のほうが実に無邪気な対応であったのだが……雰囲気がいつもと全く異なっている気がした。


 自分より背の高い彼を見上げる表情はとても自然で、無防備そのもの。腕を伸ばして細い肩を引き寄せれば、こちらの胸に倒れ込んでしまいそうなほどに。


「は、はい」


 さらに頬を染めながら、トルテが返事をする。きゅっと握った手を胸に押し付けるようにして息を吸い込み、細い首を少しだけ傾けながら、咲き初めの花のようなくちびるをうっすらと開く。背丈の違いがあるために、視線を合わせていると、上向いた顔はまるで彼の口づけでも待っているかのよう。いとしい想いに胸をかれ、リューナはそっと手を伸ばした。


 けれどそのとき、トルテの表情がハッとしたように強ばった。長い髪が跳ねる勢いで自身の背後を振り返る。


「そんな……大変です! リューナあそこ!」


 振り返る瞬間、彼女の魔導の瞳に、白く輝く星々のような光が数多あまた閃いたのが見えた。どうした、などと訊くようなことはしない。リューナはすぐに身を乗り出して目をせばめ、トルテの指し示した方向に彼女と同じ魔導の力をもつ瞳を凝らした。


 見事な朱色に染まった空と、暗く沈みゆく地表の広大な緑の大地。その一部分に、明らかに水霧ではない土煙が立ち昇っている。まるで今しがた爆発か大規模な崩落でもあったかのように、細い軌道の筋を描きながら岩のような塊が周囲に向けて幾つも飛んでいた。


 爆ぜ割れた大地の下に、見慣れた魔力マナの輝きが見える。奇妙な力場のようなものに歪まされていたが、その生命の根源たる輝きが誰のものであるのかは、はっきりとわかった。


「あれは……アイツら! クソッ、戻るぞ! ――スマイリー、どこだ!?」


 リューナの大声に間髪を容れず、鋭い咆哮が応えた。大地に穿うがたれた亀裂のひとつから跳び上がるように姿を現した『月狼王』スマイリーが、彼らの傍にぴたりと着地する。


「スマイリー、トルテの示す方向だ。あれは幻精界の光に違いないよな。おまえならはっきり見えるだろ、すぐに向かうぞッ!」


「お願い、スマイリー! あ、あの、エオニアさん、ディアン――」


「いいよ、事情はあとで。僕たちもすぐに追うから、君たちは気にせず先に!」


 躊躇ためらうことなくディアンが頷く。リューナはトルテを抱き上げ、スマイリーの背の上までひと息に跳躍した。ふたりが乗ったことを感じるや否や、スマイリーが凄まじい勢いで地を蹴って駆け出す。


 容赦のない速さに体勢を崩されぬよう、リューナはトルテを支えるために腕を回した。微かに震えているのは、後ろへと流されてゆく湿気を含んだ空気のせいだけはないだろう。思わず腕に力を篭め、彼女の細い体を抱きしめる。


「……崩れた地面の下に、ピュイの魔導の行使を感じました」


 トルテの声はしっかりとしていたが、心配と焦燥とを押さえ込んだものだ。顔色が蒼白であることは見なくてもわかる。目指す場所からは、吸い込まれそうなほどに強く謎めいた違和感と、尋常ならざる怒りをもつ生き物の気配が感じられるからだ。


「幻精界の光が地中から現れたのと、ほとんど同時です。おそらく炎を吐いたのだと思います。それに、幻精界の気配は昔からあったみたいに、大地の奥深くの場所と溶け合っているみたい。もしかしたら太古の昔からそこにあって、あたしたちが気づかなかっただけで――」


「フルワムンデの山頂にあったような次元の扉、それがこの地にも存在していたということだな?」


「はい」


「だとしたらアイツらがあそこにいる可能性、すっげえありそうだぜ!」


 なにせ、そのうちのひとりは本来幻精界に属している存在だからだ。そして、いつも一緒にいるはずの突っ掛かり屋と甘えん坊。リューナは表情を引きしめた。


「スマイリー、急いでくれ!」





 ピュイは瓦礫にえぐられた傷の痛みをこらえながら身を起こし、ナルニエとキュイを自身の背後に隠した。


 相手の放つ気配は極めて異質であるが、魔獣のそれだ。崩落によって弱々しいながらも外からの光が入り込んでいるとはいえ、幻精界の住人であるナルニエの放つ魔力マナの輝きは、魔獣を惹き付けるには充分なほどの――。


 そこまで考えて、ピュイは気づいた。信じられない思いで呆然と首を巡らせる。ピュイとほぼ同時に、ナルニエも気づいたらしい。緊迫した状況であるにも係わらず、ほわっとした懐かしそうな笑みを浮かべている。


「これって……幻精界の風だ! まちがいないよ。この奥、幻精界につながってるんだ!」


 現生界にはあり得ない、濃密な魔力マナに満ちあふれた空気が、吹き渡る風のように押し寄せてくる。進もうとしていた洞穴の奥に、間違いなく幻精界へと繋がっている扉があるのだ。探している花があるとしたら、きっとその扉の周囲だろう。フルワムンデ山頂でもそうだったのだから。


 思わず見合わせたふたりの顔が喜びに輝く。だが、次の瞬間!


「キュッ、キューイ!!」


 キュイが鋭い声で注意を促す。慌てて視線と意識を戻した彼らの眼前に、魔獣が凄まじい勢いで迫っていた。


 悲鳴をあげる暇もない。気づいたときには、瓦礫とともに散り散りに吹き飛ばされていた。


 幼児おさなごたちはそれぞれ他の仲間の姿を探しつつ、よろめくように立ち上がるのが精一杯であった。


「ピ、ピュイちゃん! キュイちゃん!」


 声を発したのはナルニエだ。土埃がもうもうと舞い上がり、ただでさえ夕闇に沈みゆくばかりであった完全に視界を閉ざしている。気配を察するなどという能力は彼女にない。


 どちらへ逃げればよいのか、咄嗟に判断できなかった。


 ガリガリ、ズシャリ、と周囲のどこかから不穏な音がする。足もとは砕かれた岩盤や土や砂、落下した根や折れた枝葉で歩きにくく、実体をもつ体のあちこちがひどく痛む。おまけに膝はガクガクと笑いはじめていた。


「どうしよう、ふたりが食べられちゃったらどうしよう……」


 自分のことも心配して然るべき状況であったが、ナルニエは彼らを失うかもしれないということのほうが怖かった。一緒に遊び、同じものを食べ、ともに眠った、大切な絆――彼らは友人であると同時に家族なのだ。


「どうしてナルたちを襲ってくるの? ナルたちなんにもしてないよ!」


 ナルニエは訴えるように大声で叫んだ。叫んだら、悲しみが喉まで込み上げてきた。にじむ視界を指先で払い、ナルニエは心の内でつぶやいた――お花を探しに来て、迷子になっちゃった子を家に帰そうとしてあげただけなのに。ふわふわした白い胴に固い尻尾をもつ魔獣の子どもを、無事に家族のもとへ……。


「そういえば、あの子はどこ?」


 まさか瓦礫の下敷きになってしまったのだろうか――ナルニエが蒼白になって周囲に視線を走らせたときだ。


 ゴオォォォッ! 前触れもなく、凄まじい突風が吹き抜け、土埃を一瞬にして吹き払った。ナルニエは思わず目を閉じ、風が落ち着いたあとに目を開き、ゆっくりと顔を上げた。


 視界のクリアになったナルニエの眼前に、黒い影が立っていた。


 こごった夜闇にも似た漆黒の体躯は、金属とも生体ともつかぬ不思議な質感をもっていた。陽が地平に沈んだのだろう、急速に暗さを増してゆく空間のなかでは細部を見定めることができない。


 ただひとつ、はっきりとそれと認識できる部分がある。赤く光る両眼だ。巨大な紅玉ルビーのごとく美しい光を放つ眼球には白い部分がなく、本当に鉱石が埋め込まれているかと思えるほど見事な多面体であった。その奥に燃え盛る憤怒の炎の揺らめきさえなければ思わず見惚みとれてしまうほどに美しいのが、未知なるものに対する恐怖を深いものにしていた。


 あまりの唐突な対面に、呆けたように動きを止めたナルニエだった。だが視界の隅に白いものが動いた気がして、彼女は視線を魔獣の足もとに落とした。瓦礫の上を器用にちょこちょこと走り回っていたのは、あの白い不思議な生き物だった。


 金属めいた光沢をもつ魔獣は大きく、脚はまるで昆虫のように節目のあるよろわれた柱のようだ。もし魔獣が足を踏み変えればザクリと貫かれてしまうかもしれない危険な位置を、白い生き物は行ったり来たりしている。


「そこに居ちゃだめ!」


 仰天したナルニエは思わず叫び、身を転がすようにして魔獣の長い脚の下へ潜り込んだ。脚の一本が素早く持ち上がり、白い生き物を抱き上げようとしたナルニエの背を目掛けて振り下ろされる。


「ピュリリェ!」


 傷つきながらも必死で割り込んできたピュイが、ナルニエと白い生き物を強引に押しのけた。彼の背を掠めるようにして振り下ろされた魔獣の脚が、瓦礫もろとも大地を割り砕く。


「ピュイちゃん!」


 魔獣の脚は、蜘蛛のように複数本あるらしかった。まるで天空から落ちてくる槍のごとく、次から次へと襲い掛かってくる。ナルニエとピュイは互いに声を掛け合いながら身を転がし、何とか魔獣の腹の下から抜け出さなければと焦りながらも、貫かれぬよう動き回るのが精一杯だった。


 洞穴だった場所は天井ごと抜け落ちて瓦礫と化し、地面は魔獣によって見る影もなく割り砕かれている。魔獣はきしるような激昂音を立てながら、ちょこまかと逃げ回る小さな影たちを執拗に追い続けた。


 白い生き物もまた、ふたりと同じように動き回っていたが、突然その場を離れて洞穴の奥を目指し、進みはじめた。その動きに触発されたように魔獣が急に向きを変え、グラリと大きく姿勢を崩した。


 ひび割れていたのだろう、魔獣の重量がかかった地面が砕けた。傍で膝をついていたピュイが体勢を崩し、生じた穴に落ちかける。


 ナルニエはピュイの腕にしがみ付いて穴とは逆方向に引っ張り、両足を踏ん張った。幼女の力では、子どもとはいえ頑丈な体躯をもつ古代龍の体重を支えきれない。だが、ナルニエが踏ん張ることで落下が止まったその一瞬が、ピュイに好機を与えた。


 頑丈な爪のある両足が僅かな足場を捉え、はねを虚空に打ち羽ばたかせる。そのとき再び、魔力の風が吹いた。ピュイは意を決し、ナルニエとともに一気に跳び上がった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る