双つの都 エピローグ1 大切なひと

 穏やかな光に満ちた『千年王宮』の室内、星の巡りを光る糸で織り描いた天蓋てんがいの張られた寝台――。長い金の睫毛が震え、再開された呼吸とともにかすかな声がもれる。


「……ん……」


 ルシカがゆっくりと目蓋をあげた。


 彼女が最初に見たのは、夫であるテロンの顔だった。彼は意思の強そうな口もとをわななかせ、澄んだ秋空のような青い瞳を潤ませていた。いつも揺るぎないはずの眼差しに、深い安堵と喜びがあふれている。


「テ……ロ、ン……?」


 囁かれた呼び声に、彼は大きく何度も頷いた。


 ルシカが再び目を開いたのだ。ゆっくりと瞬きをし、テロンの顔を見つめている。


 長く暗かった夜闇を越え、明るくなりはじめた天空から降りそそぐ太陽が地表を染める最初の色――あたたかなオレンジの色彩。澄み渡った泉のような彼女の瞳に、彼自身の姿が映っている。


 朝の光が室内に差し込み、ふんわりと優しく彼らを包み込んだ。


 ルシカはまだ力の入らぬ頬と唇を何とか微笑みのかたちにした。腕を持ち上げ、夫の頬に触れようと手を伸ばす。


 おずおずと震えながら持ち上がってゆく細やかな手を握り、その温もりを感じとったテロンは顔を歪め、妻の上に覆いかぶさった。細く甘やかなルシカの上体を抱きしめ、やわらかな金の髪を、しなやかな首筋を、すべらかな頬を何度も撫でさする。そこに生命の温もりを感じ、鼓動を、息吹を確かめるかのように。


「ルシカ……良かった、俺は……俺は……」


 抱きしめられたルシカもまた、涙をあふれさせていた。夫の腕の、常日頃では考えられぬほどの勢いと力強さ。テロンにどれほどの心配と衝撃と安堵を与えてしまったのかに思い至り、彼女は強く抱きしめられたまま、テロンの耳にそっと優しく囁いた。


「テロン……もう大丈夫よ。だいじょうぶ……ね?」


「ルシカ。体は平気なのか、もうどこも何ともないか? いったい――」


「話せば長くなるかも。あの子たちのおかげなの……覚えている?」


「ああ……」


 テロンはようやく腕の力を緩め、愛妻の体を寝台に戻した。上掛けを整えながら、ごめん、と申し訳なさそうにつぶやくのがいかにも彼らしく思われたのだろう、ルシカが頬を染めてくすくすと笑う。


 その笑顔を見たテロンの口もとにも、ようやく笑みが戻った。


「さっきルシカに言われた言葉で思い出したよ。不思議だな……今の今まで記憶になかったなんて」


「そういうものなのよ。るがままに受け入れて」


 ルシカは優しく囁き、夫の瞳をじっと見つめた。その思いを正しく理解したテロンが顔を近づけ、妻に口づける。少しの間ふたりは無言で互いの温もりを確かめ合った。


 しばらくしてテロンは身体を起こし、魔導士である彼女の稀有なるオレンジ色の瞳を見つめながら口を開いた。


「つまり……ルシカ、こういうことなのか? 今出掛けているはずのふたりが幻精界へ入り込み、過去の俺たちと逢ったということか。――アウラセンタリアから膨大な魔力マナが噴き出してきたあのとき、俺たちは渦に呑まれ、体の自由が利かなくなっていた」


「そう、あたしの残存魔力ではどうしようもなかった。せめてあなたを護りたかったけれど……そのときあの子の魔導の力を感じたのよ」


「あの子……魔導の力?」


「生まれたばかりのあたしたちの赤ちゃん。まるで『万色の杖』にはじめて出逢ったときの光の奔流みたいに、あたしの中に流れ込んできたの」


「トルテではなく?」


「違うわテロン、どちらもトルテだったのよ。あたしたちの娘――あたしたちの危機を本能で感じ取ったのね。世界の危機を、そして自分と両親の生命の危機を……」


 ルシカは爆発するように噴出した『中心の地』アウラセンタリアの魔力マナの奔流に呑まれたとき、凄まじい魔導の力が身体の内に流れ込んでくるのを感じたのだ。それは純粋な「生きようとする力」そのものであり、母を求める赤児の自然な反応でもあった。ただ、生まれながらに魔導の力を持っていたというだけだ。


 容赦なく流れ込んできた魔導の力は、その膨大さと強大さゆえに、母の生命の存続をも危ぶませた。けれど結果的には、世界を、母を救うことができたのだ。


「幻精界と現生界と時間の流れが異なっているとは聞くが、まさか現在のあのふたりと過去の俺たちが出逢うなんて」


「あの子たちに感謝しなくちゃね。いつの間にかすっかり頼もしくなっちゃって」


 ルシカがそっと微笑んだ。ふたりが向かったという、霊峰フルワムンデの方向を見つめて遠い眼差しになっている。


 いつのまにか暗く長かった夜はすでに終わり、室内にも窓の外にもまばゆい輝きがあふれていた。今日もきっと、晴れ渡った青空の広がる、良い天気になるのであろう。


「まだまだ子どもだと思っていたんだけどな、ふたりとも」


「ふふっ」


 新米の父と母であった頃のことを思い出し、テロンとルシカはともに微笑みあった。そして互いの瞳を見つめ、改めてゆっくりと唇を重ねる。


 やがてバタバタと騒々しい足音が部屋の外から響いてきた。複数の気配が近づいてきたかと思った途端、バンッと音高く重厚な扉が開け放たれた。


「ルシカさま! ルシカさまっ!」


「ルシカさま、おぉ、本当に……本当にご無事で!」


 宮廷魔導士の回復を祈り続けていた王宮のみなが文字どおり飛び込んできたのであった。なかには目や鼻を赤くして夜通し起きていた様子の者や、身支度もそのままに駆けつけた者もいる。皆が皆、この上ないほど嬉しそうに顔を輝かせていた。


 テロンと同じ、低くすずやかな声も聞こえた。


「ルシカ、寝過ぎにもほどがあるぞ。毎日忙しく動き回っているから疲れているんだろう」


 扉のところでニッとした笑みを刻みながら言い放ったのは、クルーガーだ。冗談まじりの言葉だったが、表情には深い安堵と喜びのいろが隠しきれていない。


「まァッたく、おまえは俺たちに心配ばかりかけてくれる。しばらくはゆっくり静養でもしてろ、テロンが見張り役としてな」


 寝台の上で上体を起こし、メルエッタやらマルムやら各神殿の神官司祭、医療術師、警護兵、文官たちに囲まれて皆に手を握られていたルシカが、少女のように唇を尖らせて親友であり義兄である国王陛下を睨む。ただし、瞳には彼と同じ安堵と喜びがあった。すぐに口もともゆるんでしまう。


「そんな必要ないわよ、クルーガー。寝てなんかいられないんだもの、魔導書がたっくさん解読と分類待ちになっているんだから」


 笑いながら言葉を返したルシカに、クルーガーが大仰にため息をついてみせる。


「もしおまえに何かあれば、我がソサリアにとって非常に困ったことになるんだぞ。他国を圧倒している叡智が失われる、多大なる損失ってやつだ。持ち込まれる魔導書も行き場を失い、それこそ図書館棟がパンクしちまう。いいから休んでいろ、ということだ。たまには王宮内が静かになるのもいいだろう」


「それだと、あたしがいつも騒がしいみたいじゃない」


「ルシカ、休養は俺も賛成だ」


 兄と妻との遣り取りに、くっくっと笑いを抑えきれなくなっていたテロンが笑いながら口を開いた。


「見張り役として、目の前でしっかりと休んでもらうよ。君は俺にとってかけがえのない大切なひとなんだ。そしてそれは、皆にとっても同じなんだから」


 周囲に押し寄せていた皆からも、口々に賛同の声があがる。大臣たちも到着し、ルシカの無事な姿にホッと胸を撫で下ろした。クルーガーの傍では、王妃マイナが涙ぐみながらにこやかに微笑んでいる。


 窓の外には魔竜のプニールが現れ、王都に隣接した港からは『海蛇王シーサーペント』のウルのき声が聞こえてきた。さらにこの日の夜には、友人であるティアヌとリーファが王都に到着し、ソサリアの天才天災グリマイ兄弟が祝いの花火を盛大に打ち上げるなど、大変な騒ぎに発展したのである。


 『千年王宮』の奇跡を謳った伝説に、この日、もうひとつの物語が書き加えられたのであった。


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