双つの都 10-47 織り成された虹

「ルシカ……!」


 テロンは歯を食い縛り、脇腹を押さえていた手を離した。血に染まったこぶしを握り締め、厳しい面持ちで眼下の光景に眼を向ける。


 視界いっぱいに広がっているのは、濃縮され際限なく高められた魔力マナの発する溶岩マグマのごとき紅蓮の光。広範囲に抜け落ちた大地の下には、覗き込んでいるだけで気が遠くなりそうなほどに眩い輝きが満たされている。まさに爆発寸前の噴火口を覗き込んでいるかのように、本能的な恐怖を覚えずにはおれぬほどの凄まじい光景だ。


 だが、テロンにとって目を逸らすことのできぬ理由があった。彼の最愛の妻ルシカが捕らわれているのだ。


 黒い甲冑に身を包んだ大男が、僅かに残った足場の先端に立ち、大地に開いた大穴へ向けて腕を突き出している。その腕先に揺れているのは、他でもないルシカだ。男の手に喉を絞められ、くびり殺されそうになりながらも必死で爆発寸前の魔力の渦を押さえ込んでいる。


 手を離されればルシカは渦に呑まれてしまい、制御を失った魔力が全てを破壊するだろう。だが、このままではルシカの生命を絶たれてしまう。結果は同じだ。


「ちっくしょうッ! こうもレヴィアタンが暴れてちゃ、ここいら全部が崩れちまうぜ!」


 リューナの苛立たしげな声が聞こえ、彼の気配が傍らに戻ってきた。魔導と剣で戦う青年は、次々と崩落してゆく結晶の壁の下敷きになりかけていた仲間の幼女と子龍を、安全な場所まで移動させていたのだ。


 合流した彼らに向けられたレヴィアタンの攻撃を咄嗟に受け止めたテロンは、あまりの衝撃の凄まじさに爆ぜ割れた結晶壁に埋め込まれ、脇腹に裂傷を負っていた。流血は止まらない。だが、致命傷ではない。今はとにかく、そんな瑣末なことに構ってはいられなかった。


「うわっ、そ、その傷――」


 テロンの腹の傷に気づいたのだろう、リューナが声をあげかけた。だが、すぐにテロンの表情と視線の先に気づき、口を閉ざしたようだ。


 レヴィアタンはこの瞬間にも暴れ続けている。時折狙いすませた鉄槌のような攻撃が降りかかってくるので、油断していると命を失う羽目になる。


 周囲の気配に警戒しつつも眼下の状況を見つめるテロンの視界に、大きな影が割り込んでくる。次々に崩落してゆく結晶の床で足場を失った『月狼王』が、彼らの立っている場所へ向けて跳躍してきたのだ。


「リューナ! かあさまが……かあさまがっ!」


 背に乗った少女が泣きながら何かを叫んでいるが、もうテロンの耳には届かなかった。それほどまでに集中していたのだ。テロンは奥歯を噛みしめ、目を鋭く狭めた。


「ここは頼む!」


 叫ぶと同時にテロンは結晶の壁を蹴った。何もない空中へ一気に飛び出す。


「ちょっ、待ってくれ! 傷に『治癒ヒーリング』を――」


 青年のあげた声が瞬時に遠ざかる。テロンは全身に纏った『聖光気』の輝きを強めた。


 ルシカを救うためには一瞬の隙しかない――彗星のように落ちゆくテロンは『気』を練り上げていた。腕先に収束させ、渾身の力を籠めた『聖光弾』を撃ち出す。テロンが見極めた僅かな隙――満足げに嗤いながら、魔導士の首をへし折ってとどめを刺そうとするラムダの愉悦ゆえつの瞬間に。


「これで全てが終わる。我は神々の抗争に終焉をもたらすもの。思い上がりに相応ふさわしい終焉を、傀儡くぐつには消滅を。神も世界も、我もおまえも……全てが『無』へと消え去るのだ! しねぇぇぇぇぇぇッ!」


 呪詛のような言葉と咆哮が、ふいに途切れる。ずどん! と腹の底にまで響く重々しい衝撃と光が、大男の横っ面を引っぱたいたのだ。悲鳴を上げる間もなく、次の瞬間には凄まじい速さで繰り出された蹴撃が大男の体躯を結晶の足場に激しく叩きつけていた。


 ビシリ! 僅かに残っていた結晶の床がヒビを生じる。


 テロンは男の腕からルシカの体を奪い返していた。血走った目に憤怒の炎をたぎらせながら追いすがるラムダの背を足場に、力いっぱいに跳躍する。まだ崩れていない対岸の足場に降り立ち、すぐに膝を落としてルシカの様子を確かめる。


「……ルシカ! ルシカ、無事か?」


 ようやく腕の中に取り戻した愛妻の頬に手を添え、小さな顔を覗き込む。ルシカの頬は血の気を失い、肌はどきりとするほどに冷たくなっていた。細い首には締め上げてられていたあとが血色の痣となって刻まれている。呼吸は浅く、今にも途切れてしまいそうだ。


「ルシ――」


 あまりの痛ましさに目を見開くテロンに向け、ルシカが震える目蓋を押し上げた。魔導の光が明滅する彼女の瞳に、心からの安堵のいろが浮かぶ。ひゅうひゅうと苦しそうな息を繰り返しながらも、ルシカは口を開いた。


「テロン……なんと……か、やってみ……るか、ら――」


 立たせて。彼女はそう言っていた。ルシカの生命の灯火が消えかかっているのを感じ、刹那、テロンは深い苦悩に包まれた。一瞬の間にさまざまな感情が胸を突き上げる。悲しみ、苦しみ、愛、信頼、そして覚悟――テロンは口もとを引き結び、今にも倒れてしまいそうな彼女の細い体をしっかりと腕に抱き、立ち上がった。


 魔導の準備動作ができるよう、ルシカの姿勢を整えてやる。


「俺が支える、君の思うままやってくれ」


 姿勢を変えるとき、テロンとルシカの視線が交わった。互いの眼差しを映した瞳には、言葉はなくともそれぞれの想いが込められていた。


 ルシカが瞳を微笑ませた。深い愛と揺るぎない決意、そして彼へ向けた感謝を湛えて。


 『万色』の魔導士は決然と表情を引きしめ、意志の力で苦しげな呼吸を整えて穏やかなものにした。半ば閉ざした瞳のオレンジ色の虹彩に、恒星さながらの力強い輝きが数多あまた現れる。


 おもむろに眼を見開き、ルシカは腕を虚空へ向けて伸ばした。然るべき魔導の準備動作によって集中力を高め、事象を望むかたちに具現化させてゆくために。


 かつては幻精界の全土へ向けて魔力を送り出していた恵みと繁栄の象徴、中心の地アウラセンタリア。いまはグツグツと煮えたぎる溶岩だまりのごとく、爆発と破滅の兆しを内包して渦を巻く底なしの赤い海原うなばらのようだ。


「復活と安寧あんねいを――本来あるべき流れを取り戻し、世界に永久とわの恵みを!」


 舞うかのごとき複雑な手指の動きとともに、ルシカの喉から力ある言葉『真言語トゥルーワーズ』が発せられた。周囲の恐るべき光景に彼女の声が響き渡ると同時に、息を呑むほどに美しい魔法陣が空中に現れる。


 駆け奔る魔導の光は金色こんじきの糸さながらに虚空を繋ぎ、事象の秘密を紡いでゆく。一字一句が魔法陣ともいわれる『真言語トゥルーワーズ』が魔導の真理を書き連ねてゆくにつれ、空中に具現化された美しい魔法陣はその構造をさらに複雑なものにした。幾重にも重ねあわされ、織り成されてゆく。


 テロンはゴクリと唾を呑んだ。


 なんという大きさだ――今までにルシカが織り成した魔法陣のどれよりも巨大で、遥かに強大であった。魔法の理に疎いはずのテロンの感覚にも、尋常ではない魔導の形成する力場の凄まじさがびりびりと伝わってくる。


 ついにルシカの魔法陣が完成した。まるで王都の三百年祭のとき、豪華絢爛な数瞬の夢の光景のごとく夜空いっぱいに咲き広がった花火のようだ。ただし魔法陣はすぐに消えてしまうことがない。支えなど何もない空中に固定され、堂々と輝き続けている。


「魔力の渦が……!」


 破壊の兆しに膨れ上がりかけていたアウラセンタリアの色合いが変化していた。禍々しげな血色の輝きが、透き通ったオレンジ色に変わったのだ。中央から細く幾筋もの光の束が魔法陣の中心を貫いて空の高みを目指し、まるで逆向きに流れる滝のように立ち昇ってゆく。色はさらにオレンジから緑や青へと変化し、上空高い位置で放射状に分かたれ、様々な方向へと向かって流れはじめた。


 ルシカの魔導の力が、幻精界の各場所へ向けて溜まっていた魔力を送り出しているのだ。


 少しずつ、だが確実に、爆発寸前まで高められていた圧力が抜けていく。けれど危機は去っていない。まだ僅かも力を緩めることができぬほどに、アウラセンタリアは危険な状態になっていた。


 魔導の技によって形成された、魔力の流れを制御する力場を支える魔法陣。その術者であるルシカの魔力と気力、そして体力がどこまでもつか……ルシカの細い体の震えと乱れる鼓動に、テロンは祈るような思いを込めて彼女を抱きしめ、支え続けた。


 それでも徐々に終息してゆく――そう思えたのも束の間。ぐらぐらと大地が大きく揺れはじめた。


 テロンは両脚に力を籠めてその場に踏みとどまり、状況を見定めようと素早く視線を巡らせた。レヴィアタンではない。先ほどまで暴れ続けていた始原の魔獣ですらも、今は圧倒的な光景と魔導の技に魅入られたかのように身動きを止めていたのだから。


「……う」


 ルシカが苦しげな息を吐いた。魔導の輝きの宿る瞳の奥に、焦燥と絶望の影がかすめ過ぎる。彼女を抱きしめているテロンの腕にも、びくりと撥ねる鼓動が伝わってきた。


「テロン……遅すぎ……かもしれな……わ。このままでは……間に合わな……」


 テロンはルシカが言わんとしていることを瞬時に理解した。足もとの遥か下から、突き上げるような振動が伝わってくるのを感じたのだ。


「事態は刻々と変わる。大地の下から、幻精界を巡る魔力が噴き上がってきたからか」


 草原に吹く風の強さに変化があるように、魔力の流れも常に一定というわけではない。ついに穴の開いたアウラセンタリアの圧力が抜けはじめた影響で、何処かでとどこおっていた流れが一気に押し寄せたのかもしれなかった。もしくは、どこか幻精界の要所が崩れ落ちたか――。


「……うぅ……だめ……!」


 ルシカの息遣いが、さらに苦しいものに変わってゆく。身体の震えが大きくなり、瞳に灯っていた魔導の煌めきが徐々に失われてゆく。それでも瞳に力を篭め、必死で魔法陣を維持し続けようとしている。


「ルシカ……!」


 魔導の力を持たぬテロンには、どうすることもできなかった。魔法の行使を中断させるわけにはいかない。ルシカの魔導が制御を失えば世界の全てが終わってしまう。ただ祈るように抱きしめ、支えることしかできない。


 彼女の生命を脅かすほどの力を遣っても抑えきれぬほどの驚異が、世界の終焉が、眼前にあるというのに――。





 幻精界のかなめたる『光の都』と『影の都』。


 かつてその狭間はざまに存在し、双つの都を繋いでいた幻精界の中心――アウラセンタリアの地が本来の在り様を変えられたことで、世界は確固たる繋がりを失っていた。


 各属性領域はその位置を大きくたがえ、環境の激変によって壊滅的な打撃を受けている。天を巡りし『光の都』トゥーリエもアウラセンタリアといういしずえを失ったことで停滞し、地に墜ちたも同然の状態であった。


 その中心たる『金色こんじきの宮殿』内の一室では――。


 火がついたかのごとく激しく泣きはじめた赤児の様子に、世話を任されているイシェルドゥたちが不安と困惑の面持ちを見合わせていた。


「この泣きようは尋常ではありませぬ。しかし、お体に異常は見られませぬ」


「空腹は満たされているはず。いったいどうなされたのでしょう」


 問われたエトワは顔を上げた。赤児の様子を見守り続けていた彼にも、突然の状態の変化の原因はわからなかった。傍らにいたイシェルドゥが、おののくように思念を震わせる。


「もしや……もしやとは思いますが。母君と父君の身に、何か……」


「暁の魔導士たちの身に? そのようなことが」


 エトワは遠くアウラセンタリアの地があるはずの方向に眼を向けた。瞳に宿っている信頼の光は揺るぎないが、友たちのもとへすぐにでも駆けつけたいという焦燥があった。


「おそらくは本能的に母を求めているのでしょう」


 黄金色の壁面を流れ落ちていた滝が割れ、数多あまたの光の粒とともにファリエトーラが現れた。


「魔導の力は現生界の五種族が神々より賜った大いなる叡智。我らの魔法とは似て非なるもの。けれど魔導の干渉にて変化した魔力を読み解くことは我らにもできまする」


 超然たる容貌を揺らめかせながら、光の領域の統治者は滔々とした輝きを宿す眼差しを周囲に巡らせた。その輝きにあふれた視線が、激しく波打つように泣き続ける嬰児みどりごに留まる。優美な唇をゆっくりと開き、彼女は静かに言葉を発した。


「我々の世界のみならず全ての世界に影響を与え得るほどに強大な魔導の力が、この幻精界全体へ向けて急速に広がりつつあります」


「強大な魔導の……力? あかつきの魔導士のものでしょうか」


「いいえ、そうではありませぬ」


 エトワの問いに、ファリエトーラは華奢な首をきっぱりと横に振った。


「では誰のものだとおっしゃるのですか。まさか――!」


 エトワにもそのみなもとがはっきりと感じとれるほどに、周囲の魔導の力がさらに強まった。純然たる魔力で成り立っている幻精界の住人である彼らが本能的な畏怖を感じるほどに。


 光の領域の守護者だけは僅かも動じることなく、全てを理解しているかのような微笑みを浮かべたまま静かに立っていた。子をしたことのある母親のようにあたたかな目で赤児を見つめたあと、その視線を不安と焦燥を募らせる彼らに向け、ファリエトーラはゆっくりと言葉を続けた。


の地とここと、双つの次元転移の力が共鳴するように互いを急速に強め合っています。すぐに幻精界そのものを呑み込むことでしょう。けれどおそれる必要はありませぬ。驟雨しゅううのあと空に架かる虹のごとく、在るべきかたちで円環は閉じられようとしているのですから」



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