双つの都 10-46 織り成された虹

 すぐさま卵に駆け寄り、トルテはざらつく表面に自分の耳を押しつけた。熱いほどの温度にドキリとしたが、懸命に中の様子を探ろうとする。すぐにトルテは顔を上げた。


「コトコトと微かな音が聞こえます。助かりますか?」


「やってみるわ。少しだけ離れていて」


 彼女が離れると、ルシカは卵の表面に右手を翳した。左手を宙へ撥ね上げ、素早く印を描いて頭上に輝く魔法陣を具現化する。次いで両手を重ねるように卵の表面に置くと、ぽぅっとあたたかな色の光が手のひらの下に生じ、光は瞬く間に広がって卵を優しく包み込んでいった。


 ルシカのやわらかな長い髪が背で舞い踊り、見守るトルテのツインテールが流れる。魔導による力場が大気の流れを生じ、ゆるやかな風となって渦巻いているのだ。


 卵の内で小さな生命を圧迫していたという余剰な魔力が、ルシカの手に触れられた表面からほろほろと溢れるように抜け出してこぼれかかり、空中へ固定されていた魔法陣によって天高く導かれて幻精界の空へと散じていった。


 それはまるでオレンジ色の陽に透け照らされて旅立つ蒲公英たんぽぽの綿毛のように、不思議で胸の奥がじぃんとぬくめられる光景であった。


 トルテは、ほぅと息を吐き、『万色』の魔導士の姿に視線を戻した。上向いていたルシカはトルテの視線に気づいて顔を戻し、にっこりと微笑んだ。


 そのときだった。


 レヴィアタンの尾が、大地に激しく叩きつけられた。ズウゥゥン! と、ひときわ大きく揺れた足場に深い亀裂が次々に生じる。その場にいた全員がひやりと肝を冷やし、ぐらつく足もとに体勢を僅かに崩された。


「きゃっ……」


 トルテたちの立っている場所にビシリと大きなヒビが走った。内なる圧力に押されたように盛り上がった床が傾き、丸い卵がごろりと転がりかける。倒れかけて互いを支えあうようにしてこらえたふたりが顔を上げ、それに気づいた。


「いけない!」


「卵が……!」


 叫ぶと同時に、トルテは卵に跳びついた。


 腕を差し伸べかけたルシカは体勢を崩し、ふらりと倒れかけた。気力体力とも削がれているなかで激しく揺さぶられ、眩暈めまいを起こしたのだ。


「トルテ!」


 リューナが異変に気づいて叫んだ。トルテとルシカの立っていた床は、まるで膨れ上がった膜の表面のように見えた。今にも弾けてしまいそうである。


 呼び声に気づいて顔を上げたトルテとリューナの視線が、一瞬だけ交じり合う。彼の向こうに、小山のような人影が粉塵を割って現れた。


「リューナ! 気をつけて!」

 

 トルテの警告の声に、リューナが慌てて挑んでいた相手に視線を戻そうとする。


 けれどラムダは、その隙を逃さなかった。


「馬鹿めッ!!」


 大弓を構えたラムダが禍々しく輝く矢を素早くつがえ、放った。電雷のような音が空間を引き裂き、トルテたちの傍にあった結晶の塔にまともに突き当たって爆発した。


「きゃああぁぁぁぁッ!!」


 吹き荒れたのは黒い嵐――いや、そうではない。当時生まれていなかったトルテには知るよしもなかったが、王都消失の危機を経験したルシカは息を呑み、ぞっと背筋を震わせた。


 それは『無』を司る神ハーデロスの力そのもの、破壊ではなく消失と消滅に踏みにじられた空間の悲鳴だったのだ。


 結晶の塔のほとんどがごっそりと掻き消え、身の毛もよだつような憎悪と喪失感が取って代わるように空間を埋め尽くした。魔力の流れを断ち切られて沈黙していた場所から噴出するように赤い光が現れ、天へと突き刺さる。消失の余波を受けた周囲の床が激しく震え、生じた亀裂がさらに深いものになる。


 それらがきっかけとなった。


 風船を針でつついたようなものだ。圧せられて限界に達しかけていた魔力が結晶の床を完全に突き破り、爆発するように一気に空へと噴出した。


 凄まじい轟音が周囲を圧し、広場になっていた結晶の床のほとんどが空へ向けて塵のように吹き飛んだ。


 トルテは衝撃の渦に巻き込まれ、宙高く飛ばされていた。近くにいたルシカの体も同様に、一瞬で無機質な空へと跳ね上げられている。


「ルシカ!」


「トルテ!」


 テロンとリューナの声が重なる。噴き上がる魔力の起こした爆風と衝撃に押され、広場外に移動せざるを得なかった彼らが間に合うはずもなかった。


 魔力の渦は一瞬でトルテたちを空中へ押し上げたあと、空の高みに散じていった。トルテは閉ざされていた目を開き、驚いた。落下していたはずの体は、いつの間にかなじみのある広い背に救い上げられていたのだ。


「スマイリー! 無事だったのね」


 トルテは喜びに満ちた声をあげた。母も卵も無事だ。彼女の傍でしなやかな毛に埋もれるようにして支えられている。


 だが、スマイリーの背は塵と血に汚れ、脇腹はズタズタに引き裂かれていた。傷のほうはレヴィアタンを引き回していたときに強烈な尾の一撃を食らい、割れた結晶壁のひとつに突っ込んだときのものであることが、心の繋がりを通して伝わってくる。満身創痍であるにもかかわらず、必死で駆けつけてくれたらしい。


「スマイリー、傷が……!」


 従来の魔法の治癒では、幻獣の傷を塞ぐことはできない――トルテは涙を浮かべかけた。


 ルシカが幻獣の背から顔を上げ、すぐに自身の右の腕先で素早く印を描いた。トルテにとってもなじみのある魔導の光がスマイリーの体をすっぽりと包み込んだ。


 『月狼王』の体に刻まれていたいくつもの傷が、次々に塞がれてゆく。『治癒ヒーリング』特有のあたたかな白い光と温もりを感じ、トルテはルシカを凝視した。


 本来魔導の技とは、神々より伝えられた叡智をもとに定められた範囲で構築された技術なのだ。迷うことなく、こんなにも簡単に状況に合わせた改変ができるものではない。


「すごい……やはりあなたは、すごいです。あたしには全然追いつけないくらいに……リューナたちもきちんと助けることができなくて、あたしは……」


 安堵と焦燥、胸を刺す様々な痛みと突き上げる想いに翻弄され、胸を押さえたトルテが思わず涙を滲ませると、ルシカはゆるゆると首を振って静かに応えた。


「そうかしら。あたしは思うわ。この幻獣は、あなたの為に自らの命を張って頑張ってくれている。こんなふうに幻獣とお友だちになれるなんて、すごいことよ。互いに信頼しているということだもの。……あたしの娘も、そんなふうに優しい思い遣りのあふれる子に成長してくれたらなって、思っているの」


「そうなん……ですか?」


「そうよ。素晴らしいことだと思うわ」


 戸惑うトルテに、ルシカは微笑しながら言葉を続けた。


「信頼や友愛というものは、勉学や才能では獲得できない。みんなを繋げる力というものを、あなたは確かに持っている。それはきっと、魔導を超えるほどにすごいことなのよ。あたしはそう思う」


「つなげる……ちから」


「自信を持って。きっとあなたの両親も、あなたのことを信頼して、誇りに思っていると思うから」


「でも、想いの力だけでは大切なひとを護りきれないこともあります! どうしたら……」


「自分の力に限界を作らないで。限界を定めてしまったら、そこで終わりなの。可能性はいくらでもあるんだから。あなたの中には素晴らしいものが秘められている――継がれた血や魔導の知識だけではなく、もっと素敵なものが」


 トルテは顔を上げた。


「でも、あたしは……」


「あなたは、まだまだこれからだもの。焦らないで。あなたはあなたでいいのよ。あなたにしかできないことがあるんだもの。ね?」


 トルテは口を開いた。けれど何を言ったらよいのかわからず、動きを止めてしまう。


「あたしは――」


 続く言葉を探して視線を彷徨わせ、トルテはようやく気づいた。ルシカの左手が、何かの魔導を行使していることに。意識を凝らして周囲の魔力を探り、事態に気づいたトルテは息を詰まらせた。震える声でようやく尋ねる。


「魔力の放出……さっきので終わりではなかったのですね」


「ええ……もちろんよ。さっきのはほんの僅かに漏れただけ。残る全ての魔力は、あたしが今、抑え込んでいるところ。海面に現れている氷山の一角のようなものだわ。没している本体のほうは……とてつもない濃さと規模になって……いる……から」


 語っている間にも、ルシカの息が乱れてゆく。幻精界の全土を巡っていた魔導の流れのほとんどを、たったひとりの魔導士が意志の力で制御しようとしているのだ。


「これから……少しずつ開放していくから、あなたは……巻き添えにならないように少し離れて――」


「そんな、あたしも!」


 トルテは急いで精神を研ぎ澄ませ、魔導の力を宿す瞳に力を籠めた。焦る気持ちを必死でなだめつつ、母の行使している魔導の構造と魔力の流れを見極め、手助けをするために。


 だが、そのときだ。再び凄まじい衝撃が空間を震わせた。


 噴出した魔力の奔流ではない。稲妻めいた火花を散らし、空間の一部を『無』の領域へと引きずり込みながら、ラムダの放った矢が通り過ぎたのだ。気配に気づいたスマイリーが反射的に回避行動をとってくれなければ、トルテかルシカのどちらかが射抜かれていたかも知れないほどに、危険なタイミングであった。


 直撃は免れたが、魔力の行使に意識を集中させていた魔導士はどちらも咄嗟に反応することができなかった。


 体勢を立て直したスマイリーの背で、卵は何とか転がり落ちずに済んだ。だが、体力に余裕のないルシカが吹き払われるようにしてスマイリーの背から滑り落ちてしまった。


 伸ばした腕も間に合わない。トルテは思わず叫んだ。


「かあさまっ!」


「はははッ! うわははははははッ!」


 下ではラムダが勝ち誇ったように嗤っている。


 大地は激しく揺れ、破砕された結晶が大量の粉塵となってもうもうと舞い上がっている。レヴィアタンがのたうつように激しく暴れているのだ。父の姿も、リューナの姿も見えなかった。


 大地はすっぽりと崩れ落ち、凄まじく巨大な穴が口を開けていた。奥底には揺らめくように強烈な赤い光が太陽のごとく輝いている。まるで真上から煮えたぎる鍋の中を覗き込んでいるかのようだ。真っ赤な輝きがあふれんばかりに激しく揺れ動き、波打っている。


 いまにも噴出してきそうな様子だが、いまはまだその気配がない。ルシカの魔導によって押し留められているのだ。落下しながらも意識を保ち、魔導を行使し続けているらしい。


「スマイリー、お願い!」


 トルテが叫ぶまでもなく、スマイリーが反応した。まだ無事に立っている壁のひとつに着地すると、すぐさま身体を捻って壁面を蹴り、ルシカの落下地点へ向けて再び跳躍した。


 だが、それより早く――。


「……あうッ!」


 黒鎧の男の大きな手が、落下してきた『万色』の魔導士を捕らえ、その華奢な首をがっしりと掴んでいた。


 ルシカは抗うことができなかった。爆発寸前である魔力の奔流を制御し続けているためだ。


 ラムダは大地に穿たれた穴の縁に立ち、これ見よがしに強靭な腕を穴の上に突き出した。その腕先では、ルシカの細い体が揺れている。


 首を絞められたまま完全に宙吊りにされ、それでも魔導を行使し続けているルシカにはすべもない。


「ふはははははッ! もう遅い、もう遅いわ! さあ、世界の終焉のはじまりといこうぞ」


 ラムダは甲冑に包まれた強靭な腕の先に吊るしたルシカの体を眺め、その手に握った細やかな首を握る力をさらに強めた。狂気じみた顔には、恍惚とすらいえる不気味な笑みを浮かべている。


「おまえたち魔導士とやらは、その体内に膨大な魔力マナを秘めているそうだな。死ぬ間際にその身体から抜け落ちた魔導の血は、この状況下においては破滅への確実な引き金となる。おまえのいのちは世界を消滅させる起爆剤となるのだ」


「…………!」


 ルシカが苦しげに眉を寄せ、唇を歪めた。すべらかな頬が紫に変わってゆく。それでも足もとの魔力を抑え込んでいる力を維持しようとして魔導の力を維持し続けている。


 周囲ではレヴィアタンが激しく暴れ続けている。蓋となっていた結晶の大地の崩落は、ますます大きなものになっていった。


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