双つの都 10-32 幻精界の中心

 静寂に包まれた巨樹の森では風がそよぐこともなく、凍りついた枝葉からは落ちてくる雪もない。


 水の通り道であった雪下の地面は氷となってもろくなり、起伏の激しい斜面に不用意に足を乗せれば滑落することにもなりかねないので、樹々の根元や岩の埋まった箇所を進まねばならなかった。


 テロンは慎重に足もとを探りながら、出来得る限りの速度で進んでいた。フェリエトーラたちの魔法は、彼らを『源』の地たるアウラセンタリアにほど近い場所まで運んでくれたらしい。魔法の気配には疎いテロンであっても、方向を感じ取ることができるほどの距離に迫っていたのだ。


「差し迫る破滅を肌でも感じるな……膨れ上がっているものが全てを吹き飛ばしてしまう、そんな予感がする。これをルシカたちは感じ取っていたわけか」


 腕のなかに視線を落とすと、ルシカはとろとろと微睡まどろんでいた。やはり、相当に疲れているのだろう。


「無理もないな……」


 テロンは思う。彼女は出産という大役を終えたばかりなのだから。本来ならば、このような凍てつく空間を駆け進む途上ではなく、温かな寝台の上でゆっくりと休んでいるべきであったのに。


「本当によく頑張ってくれている。ルシカには苦労をかけてばかりだ。いまも恐るべき脅威に、ともに立ち向かおうとしている」


 出逢ったときの彼女は、メルゾーン配下のごろつきに追われて森のなかを逃げていた。双子の兄クルーガーとともに彼女を助けようとして、追っ手から彼女の姿を隠すために抱き上げたとき、その軽さとあまりの腰の細さに内心驚いた。テロンは兄とは違い、女の子と密接に係わったことがなかった。そのとき初めて出逢ったのがルシカだった。


 ――そのとき初めて? いや、そういえばルシカとは、もっと昔に出逢っていた。実は、森の中での出逢いが初めてではなかったのだ。彼女は王宮で生まれ、三歳まで王宮内で育った。書記官長であった父ファルメスと副書記官長であったフィーナのひとり娘として、当時七歳だった双子の王子と過ごした時間もあったのだ。


 本来ならば、四つも歳下の幼女とやんちゃ盛りの双子が一緒に遊ぶことはなかっただろう。けれどルシカの父ファルメスは、双子のよき理解者であり、相談役でもあったのだ。温厚な人柄と、幼い者の話にも真剣に耳を傾けてくれて、厳しいお目付け役であったルーファスのお仕置きから何度もかばってくれた。自然と、その娘であるルシカと遊ぶ時間もできるというものだ。


 幼すぎたルシカはほとんど憶えてはいないらしいが――幸いなことに。


 そういえば、生まれてきた赤子の輪郭と目もとは、当時のあどけないルシカを思い出させるものだ。受け継いだ魔導の力といい、将来が楽しみでもある。


 これからあの子が歩む人生が、幸せなものであって欲しい。そのためにも、両親である自分たちが失われるわけにはいかないのだ。特に……母親は。自らの幼少の頃の想いを重ね、テロンは唇を噛んだ。


 気は遣うが単調な道中、ルシカと過ごしてきた時間を振り返っていたテロンは、ハッと我に返った。


 全身を緊張させ、テロンは立ち止まった。いつの間にか、彼らを取り巻いている空気が変わっていたのだ。


 ピリッ、とした琴の糸が断ち切れそうな気配は、まるで捕食者の飽く事のない凝視である。ぞわぞわと首筋を這いのぼってくる冷気が肌を騒がせる。くらい影から異様なほどの眼差しで、じっとりと注視されているのを感じる――。


「ルシカ」


 小声で伝えると、彼女はすぐに反応した。薄曇さながらの暗い空の下でも明るい光を失わぬオレンジ色の瞳を開き、テロンを見上げて頷く。腕から滑り降りるようにして大地に立ち、すぐに魔導行使の為の精神集中を整える。


「奇妙な魔力マナの流れが見えるわ……それもひとつやふたつじゃない。あちこちの影から次々と這い出てくるみたい。まるでしなる鞭かうごめく無数の蔓のように、油断ならない器官を周囲に伸ばしている。幻獣と同じ存在だわ、気をつけて」


 ルシカの警告にテロンは頷いた。相手が幻獣だということは、通常攻撃が効かないということだ。全身に神経を行き渡らせ、おのれの内部に流れる魔力マナを活性化させる。テロンは『聖光気せいこうき』に身を包んだ。


 テロンの操る『気』も、万物を構成している魔力マナが形を変えたものだ。体術の師バルバから伝授されたその技によって『気』を外側に纏うことで、魔法を付与エンチャントされた武器と同様、テロンの拳や体術、蹴撃が通用するということだ。


 それに加え、ルシカひとりに魔力にえた幻獣たちの狙いを集中させずに済む――新たな魔導の技が行使されれば瞬間的に敵意が彼女に向いてしまうが、それでもテロンはルシカを護るつもりでいる。


 テロンの気合が周囲の雪を巻き上げる。


 時を同じくして、ふたりを狙う敵の姿が眼前に現れた。ぞわぞわと這い回る触手が乾いた雪の表面を掻き乱す。


 ずるりとあちこちの巨樹の根元から現れたのは、自らの意思で動き回ることのできる植物の球根ような影だ。一体が馬車ほどの大きさがあり、触手そのものは本体の倍以上もありそうなほど異様に長い。触手の赤黒い色が這い回るさまは、白い雪の上に撒き散らされた鮮血が蠢いているかのようにみえる。本体の数は八体。


 ずんぐりとした土か根の塊のような胴体には、眼球めいたゼリー状の球体がいくつも飛び出していた。餌を前にしたときのように熱狂的な視線を、テロンとルシカのふたりにひたと向けている。


「『召喚』の魔法にある『触手テンタクルス』と同じものみたいだけど、魔法陣から出現するのは一部なの。全体像を見たのはあたしも初めてよ……」


 ルシカが吐き気をこらえるように口もとに手を当てながら言った。けれど、視線は逸らしてはいない。口もとの手をすぐに離し、両腕を前へと差し伸べるように動かした。次いで、くるりと多重の輪を描くように複数の魔法陣を同時に描き出す。『倍速ヘイスト』や『防護プロテクション』等の援護魔法だ。


 ルシカの魔法陣から放たれた魔導の光が、テロンの肉体に降りかかり、ふわりと溶け消えた。感覚が研ぎ澄まされ、肉体が躍動するような爽快感が全身に奔る。続けて行使された魔法を受けると、感じていた寒さもほとんど感じられなくなった。氷属性の敵に対する防御魔法だろう。


 テロンは敵を注視し、すぐに納得した。相手の放つ冷気によって周囲に立つ樹々の表面に霜めいた氷の層が生じ、全体がびっしりと覆い尽されはじめていたのだ。芯まで凍てついた樹のいくつかがバリバリと嫌な音を立て、内部から張り裂けてゆく。


 テロンは構えながら周囲に視線を走らせた。敵は八体、じりじりと……だが着実に距離を詰めてくる。触手の間合いは素手で戦うテロンよりも相当に広い。ルシカの魔法の範囲はさらに広いが、後方に立つルシカまで到達される訳にはいかなかった。


 テロンは『衝撃波』を放った。


 ドゥン! くぐもった轟音とともに雪が吹き払われ、本体のふたつを後方へ吹き飛ばす。残る六体はびくりと震え、次いで猛然と突撃を開始した。


 すぐにもう一体を後方へ押しやったが、相手の数があまりにも多い。本体には複数の触手が生えていて、ひどく強靭にできているようだ。本体の一部を吹き飛ばされようとも、這い寄ってくる速度は変わらない。


「テロン」


 背中にルシカの声がかかる。強い意思を含んだその声音に、テロンは顔を引き締めた。言葉はなくとも彼にはルシカの意図が伝わった。いまのルシカにそれほどの負荷をかけたくはなかったが、この戦闘は長引くほうが遥かにリスクを伴いそうだ――テロンは覚悟を決めた。


まかせろ」


 テロンは短くルシカに応え、全身に力を籠めた。拳を握り、体勢を低める。雪深くに隠された足場を探り、固い地盤を踏みしめる。全身を覆う『聖光気』が輝きを増し、太陽フレアのごとく燃えあがる。後方では、ルシカが深い精神集中に入る気配があった。


 次の瞬間、放たれた矢のようにテロンは飛び出した。宙に踊るように触手のたば全てが跳ねるように反応する。彼の動きを追い、ぐるりと触手が滑るように動いた。


 ビュッ! という鋭い音とともに複数の触手がしなり、瞬時で距離を詰めてきたテロンを狙う。串刺そうと尖った先端を突き出してきた。


 戦い慣れたからだが反応し、虚空を切り裂いてくる触手の動きを次々と避けてゆく。避けきれぬ軌道で襲ってきたものは手刀で叩き落した。『聖光気』に焼かれ、ジュワッと嫌な音をあげて触手が震える。鼻を突く異臭。


 地面に落ちた触手が雪を掻き乱し、もうもうと巻き上がって視界を塞ぐ。テロンは触手が空気を割いて迫る音を聞き分け、或いは肌にびりびりと感じた感覚を頼りに、叩きつけ、蹴り、本体そのものを蹴撃でその場につぶし留める。


 離れたところに立っているルシカの呼吸が変わり、タイミングを彼に告げる。魔導を行使する直前だ。


「テロン!」


 彼女の呼び声を聞いたときにはすでに、テロンは空中にあった。まだ無事に立っている巨樹の幹を足場に、さらに大きく跳躍する。


 戦闘によって巻き上げられていた雪煙が、眼前から拭い去られる。触手が絡み合うように暴れている範囲を抜けたのだ。眼下にルシカの姿がみえた。雪煙の中心を見据え、両腕を真上に伸ばしている。


紅蓮ぐれんの業火よ、再臨せよ!」


 ルシカの『真言語トゥルーワーズ』とともに、彼女の体の周囲を魔導の光が竜巻となって吹き上がる。


 白い雪煙をも透かして見極められるほどに鮮やかな真紅の魔法陣が瞬時に組み上げられ、触手の蠢き絡み合う真ん中から周囲を赤一色に染めあげる。次いで周囲の空間が闇に沈んだように黒に没し、空間がひずんでキィンという高い音が鼓膜を打つ。


 次の瞬間、空間が真っ赤に染まった――。


 ドウウゥゥゥゥンッ!!! 轟音とともに触手の本体をも巻き込み、触手のうごめく空間が灼熱の炉に変わった。火属性の魔法のなかでも最高位魔法のひとつである『破壊炎ギガファイア』だ。


 雪に覆われていた大地は焦土と化し、隠れ潜んでいた触手体もろとも敵のほとんどが真っ黒に焼け焦げ、転がった。凍てついた泉や小川の類も、全て蒸発して黒い窪地となっている。


 本来ならば『火』の名を持つ魔導士でなければ行使することは不可能だが、『万色』の名を持つルシカは魔法の制限に縛られることはないのだ。凄まじいまでの威力だ――テロンは空中にあってこれらの光景を打ち眺め、妻であるルシカに一瞬、畏敬の眼差しを向けた。


 大陸に並ぶものがないと言われた彼女の、万能魔導の遣い手としての実力。けれどその反動もまた、凄まじいものがある。


 テロンは空中で体勢を変え、地面に着地した。すぐに駆け出し、ふらりとよろめき倒れかけたルシカの体を抱きとめる。いかに類稀な魔導の力を行使しても、彼女は神ではない。瞬時に魔力を消耗する最上位魔法を躊躇いもなく行使できるのは、テロンを信頼しているからに他ならないのだ。


 魔法の準備にかかる隙も、行使するタイミングも、テロンとともに幾度も死線をくぐり抜けてきた『ソサリアの護り手』としての経験が積まれているからこそ――。


「ごめ、ん……ちょ、と無茶だった……ね」


 ルシカがテロンの腕のなかで薄く目を開き、微笑んだ。テロンは首を振り、彼女の汗ばんだ額にかかっていた髪をそっと手で除けてやった。乱れていた呼吸を整え、ルシカが言葉を続ける。


「たぶん、幻獣たちも本能的にアウラセンタリアを目指しているんだわ。自分たちの生命の存続がかかっているんだものね……そこへあたしたちは飛び込んでいく」


魔力マナに餓え、渇いているところへ差し出されたかのように現れた杯ということか、ルシカ。……冗談なら笑えるが、これが冗談ごとではないとは」


 つまりこれより先には、魔力に餓えた幻獣たちがひしめいているという訳か――テロンは奥歯をギリリと噛んだ。それはすなわち他でもないルシカが、凄まじい数の幻獣たちに狙われるということなのだ。


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