双つの都 10-26 暗躍する影

 ナルニエの小さな手首には、不恰好なほどに大きな手枷が幾重にもつけられ、重そうな鎖で壁に繋ぎとめられていた。ただの金属のようだが、相当な重量がありそうだ。


 暗かった室内は、トルテの魔法の光で隅々まで照らし出されていた。牢獄か拷問部屋か……それに準じるほどに嫌な雰囲気を漂わせている空間であるのは間違いない。


「ナル、ぜってぇに動くなよ。トルテ、どいてろ」


 リューナは剣を振り上げた。ナルニエの手首に向けて振り下ろす。もちろん、幼女の細い手首そのものからは外した位置を狙って。


 ヒッ、とばかりに硬直したナルニエだったが、言われたとおり微動だにせずリューナの剣を受け止めた。だが――。


「なッ……なんで壊れないんだよ!」


 リューナは信じられない思いで手枷を睨みつけた。鋼であろうと、このくらいの金属ならば一太刀で断ち切る自信があった。けれど手枷には傷ひとつ刻まれていない。魔法の光に照らされ、不思議な光沢にぎらぎらと輝いている。


 言われたとおりに後方へ下がっていたトルテが戻ってきて膝をつき、覗き込むようにしてナルニエの手枷を見つめる。彼女はすぐに顔をあげ、リューナに向けて口を開いた。


「リューナ、剣の『付与エンチャント』を消して、もう一度試してみてくれませんか」


「あ? あぁ、わかった」


 リューナは長剣の刃に意識を集中させ、空いているほうの手を刃の表面に沿わせてするりと動かした。彼女の言葉どおり、剣を覆っていた魔法効果を消失させる。


 ナルニエの傍からトルテが離れ、彼に向けて頷く。リューナは剣を振り上げ、もう一度ナルニエの手枷に向けて振り下ろした。


 まるで硝子ガラス細工でも落としたときのような甲高い音を立て、手枷は粉々に砕け散った。ナルニエが口を丸く開いて歓声を発し、リューナの顔を嬉しそうに見上げる。トルテが安堵の息を吐き、離れた位置から手をぱちぱちと打ち鳴らした。


「良かった。ここは魔力マナそのもので構成された世界ですから、逆にあたしたちの世界の金属がこんなふうに使われることがあるのですね。魔法では壊せないように加工すれば、この世界の者には揺るぎないいましめの道具となる――」


「そのとおりだ。さすがは魔導士だな。あらゆる観点から物事を見極め、魔法行使のみならず優れた洞察力を発揮するとは」


 淡々とした声に、リューナは弾かれたように振り返った。トルテが立っていたはずの場所を。


 腹の底が凍りついたかのごとくヒヤリと冷え、首筋の毛がぞわりと逆立つ。次いで、火でもついたかのように頬が熱くなる。


「おまえ……いつの間に!」


 重厚な鎧に身を包んだ男は、竜人族もかくやと思わせるほど丈高く、屈強なものだった。その太い腕に首を締めつけられたトルテの足が、床からかなりの高さに吊られてしまうほどに。


 黒鎧の男ラムダだ。トルテの首を片腕で締めるように背後から抱きすくめ、こちらを脅すように彼女がもがき苦しむさまを見せつけている。


「一度ならず、二度までも」


 悔しさと腹立たしさのあまり、リューナは唇を血が滲むほどに噛みしめた。接近されても気配に気づかなかったとは――自分を殴りつけてやりたいくらいだ。


「――トルテを放せッ!」


 リューナは叫んだ。体を低く沈みこませ、力任せに床を蹴る。けれど相手は二度も同じようにリューナを簡単に近づけさせてはくれなかった。


「動くな!」


 鋭い声と同時に、トルテの表情がはっきりと苦痛のそれに変わる。息が継げないのだろう、すべらかな頬がみるみるうちに血色に染まっていく。


「ぁ…………!」


「お、おねえちゃんっ!」


 ナルニエの引き攣ったような悲鳴が響き渡った。


「くそぉっ」


 何もできず、リューナは奥歯を噛みしめるしかなかった。もっと悪いことに、このタイミングで床に倒れ伏していた兵士たちを縛っていた魔法陣が消失した。効果時間が切れたのだ。三人のうちふたりが頭を振って腕を突っ張り、起き上がろうとしている。


 そんな醜態を晒している部下たちを睨みつけ、ラムダが忌々しげに舌打ちした。野太い声で恫喝する。


「魔導の心得があるとはいえ、こんなガキ共に簡単にやられおって。無能もここまでくればゴミ同然だ。……さっさと立たんか! 光の領域の間者を捕らえよッ!」


「ナル逃げろ!」


 リューナはそう叫んだが、ナルニエが彼らを置いて逃げることができないのは痛いほどに理解していた。この場をのがれてひとり脱出できても、その先どうするというのか。


 リューナは周囲に視線を走らせた。目の前にラムダと名乗る敵、その腕に囚われたトルテ。相手から真横に見た位置に、ナルニエと兵士ら三人。リューナはじりじりと足を動かし、男から見てナルニエとは反対の位置へゆっくりと移動しはじめた。


「動くな、と言ったぞ」


 黒鎧の男が腕にさらなる力を籠める。苦しげなトルテの腕があがり、むなしく男の篭手を引っ掻いている。男はリューナの動きに合わせて油断なく体の向きを変え、隙を作ることなく彼の動きを追っていた。


 回り込んだことで、ナルニエの小さな姿が男の背後に移動した。


「……俺たちは、あきらめないぜ!」


 リューナのニヤリと不敵な笑みとともに威勢よく発せられた言葉。男の向こうに見えるナルニエの表情が変わった。小さな唇がキッと引き結ばれ、空色の瞳にはっきりと力が籠もる。


 リューナは頷き、次の瞬間、下げていた剣を撥ね上げつつ床を蹴った。瞬時に男との距離を詰める。


「動くなと――ウワッ!」


 黒鎧は奇妙な声をあげて重心を崩した。ナルニエが突進し、男の膝裏に体当たりを食らわせたのだ。男が虚を突かれたのは、ほんの一瞬。


 だが、リューナにはその一瞬で充分だった。


 踏みこむと同時に、長さのある剣を力いっぱいに突き出す。狙ったのは相手の肩口、重厚な黒鎧の僅かな隙間だ。狙い過たず、剣先が鎧の隙間から内側へ滑り込む。いかに鍛え上げられた戦士といえど、肉体の痛みには反応する。力が緩む反射行動は抑えられない。


 リューナはそのまま男に飛びかかった。黒い篭手を掴んで力任せに引き下ろし、トルテの体を開放する。滑り落ちた失神寸前の少女を片腕で受け止め、相手の鎧から剣を引き抜く。


「ナル、みんな。逃げるぞッ!」


 威勢の良い声をかけると同時に、リューナは男の足首を蹴り払った。


「ぬおッ!」


 黒鎧が完全に均衡を失い、後方へ倒れこむ。その足の隙間を抜けるようにして兵士たちの腕から逃れたナルニエが、リューナたちへと駆け寄った。体勢を立て直そうとした男は腕を振り回し、それに当たった兵士のふたりが完全に昏倒する。


「逃すかッ!」


 逆上した男が大声で叫び、鎧の背に留め付けてあった漆黒の大弓に手を伸ばす。


「ピッピューイ!!」


 甲高く鳴いたピュイが飛び上がり、炎を吐いた。顔面に食らった男は仰天したように腕を振り回し、その動きでさらに残っていたひとりの兵士も吹き飛んだ。


「おのれええぇぇぇぇッ!」


 火傷を負った男は凄まじい形相で吼え、巨大な弓を構えて矢をつがえた。通路奥へと消えかけるリューナたちの背に向け、引き絞り、放つ。


 黒い雷撃が狭い空間を震撼させ、リューナたちは衝撃で前方に吹き飛ばされた。視界が激しく明滅し、髪が逆立つ。その衝撃で、トルテがうっすらと目を開いた。


「くそぉっ、なんてメチャメチャな野郎だ!」


 リューナは激しい怒りのあまり、両の瞳が熱くなるのを感じた。涙ではない。魔導の輝きが自分の内側から溢れるのを感じ、魔導の力に導かれるままに腕を跳ね上げ、素早く魔法陣を描き出す。白い輝きが生じ、リューナたちを優しく包み込んだ。


 完全ではなかったが、腕に、足に、再び力が戻ってきた。リューナは立ち上がり、トルテとナルニエに手を貸した。目を回していたピュイも立ち直り、リューナたちはすぐに駆け出した。進む通路は戻る方向しかない。


「おにいちゃん! ここから出る道を知ってるの?」


「いや、わかんねぇ! けど道はひとつしかないんだ。突っ切っていこう!」


 きっぱりとしたリューナの答えに、ナルニエは呆れたように瞬きをしたが、すぐにニッと笑った。なんとも嬉しそうに。その笑顔は、リューナの浮かべるいつもの笑顔と似ていた。


 それに気づいたトルテが笑顔になり、次いでその瞳に決意の輝きを生じさせた。駆け走っていた足を緩める。背筋を伸ばして後方へと向き直り、完全に立ち止まった。


 彼女の突然の行動に戸惑い、リューナも急制動をかけて振り返った。


「トルテッ?」


 背後から迫り来る殺意に満ちた気配と足音。焦ったリューナは彼女の腕を掴もうとした。けれどすぐに彼女の意図を感じとり、伸ばしかけていた腕を自ら制する。


 トルテは深い呼吸をひとつしてオレンジ色の瞳に力を篭め、腕を素早く振り上げた。複雑な動きを交えつつ振り下ろし、追っ手が迫っているほうへ突き出す。


 通路を塞ぐように光が駆け走り、幾重にも重ねられた魔法陣が現れた。まるで蜘蛛の巣のように折り重なって通路を完全に封鎖する。足止めとしては充分すぎるほどの壁であった。


 トルテは止めていた息を吐き、長い髪が揺れるほどの勢いでリューナを振り返った。


「さぁ、いきましょ! これで時間稼ぎになるはずです。物理的な障壁と魔法障壁を重ねて固定したの」


「すっげぇ、やるじゃんトルテ!」


 思わず発したリューナの賛辞に、彼女はホッとしたような表情で応え、すぐに駆け出した。


 ふたりがナルニエとピュイに追いついたところで、後方から通路全体を揺さぶるほどに凄まじい衝撃と轟音が響いてきた。


「あの弓と矢は、なにでできてやがるんだ。すっげぇ嫌な力を感じるんだけど」


「そうですね。憎悪と怒り、不信と傲慢……あらゆる負の感情がかたちを与えられたような、凄まじい破壊の力を使っているみたいです。あんなものを生きている相手に向けて撃つなんて、信じられません。――あ、リューナ、どうしましょう、行き止まりです!」


 トルテに言われるまでもなかった。おそらくここが、ラウミエールが開いてくれた通路の入り口が現れた場所なのだろう。頑丈そうな鉄格子によって閉ざされた扉が、きっぱりと進むべき道を閉ざしている。憶えのある光景だ。


「どうしよう、ぜったいアイツ、ここまで来るよ!」


 ナルニエが言った。その言葉を裏付けるように、背後から凄まじい音と衝撃が連続的に伝わってくる。


 おそらくあの弓矢か、他の剣呑そうな武器を、トルテの複合魔導の障壁へ向けて叩き込んでいるのだろう。破壊されるのも時間の問題だ。


「トルテ、俺に任せろ」


 扉を調べようと魔導の瞳を凝らしていたトルテを制し、リューナは剣を構えた。


 裂ぱくの気合とともに叩きつけると、鉄格子はすっぱりと断ち切られた。もう一度剣を閃かせ、リューナたちが充分に通れるほどの隙間を作る。


「さすがです、リューナ。先ほどの手枷と同じだったんですね」


 感心しながら隙間を潜り抜けたトルテの後を追い、リューナはナルニエを連れて扉の向こうへと進んだ。ピュイが張り出した腹を少々つかえさせながらも後に続く。


 その先もまた通路だったが、今度はとても複雑な構造になっていた。まるで巨大な空間に幾つもの階段と渡り廊下を張り巡らせ、立体迷路でもこしらえたかのようだ。


「おそらくこちらですわ――イタっ!」


 率先して駆け出したトルテが、勢いよく壁のひとつに衝突した。かなり痛そうな音が響く。


「無理すんなよ、トルテ。地図を覚えているときには頼もしいけど、おまえすっげぇ方向音痴なんだからさ」


「ふ、ふぁい」


 打ってしまったらしい鼻と額を押さえ、トルテがくぐもった声で返事をした。


「牢ってたいてい、地下にあったりするよな。ここもそうなら、上に登っていけばいいんだろ。これだけスッカスカに通路と階段の隙間が開いているんだ。『飛行フライ』の魔法で飛べばすぐだぜ!」


 自信たっぷりに発したリューナの言葉に、トルテが首を振った。


「いえ、リューナ。魔導の技で空中を……というわけにはいかないみたいです。ほら、あそこ、見えますか? 飛び出している不自然なでっぱりと、描かれた紋様――おそらく空間属性の魔法を封じるための仕掛けだと思います」


 彼女の瞳の虹彩に白い魔導の煌めきが現れているのに気づき、リューナはすぐに頷いた。


「なら、徒歩で登るだけだな! トルテ、平気か? ナルはまた俺の背に乗っかってろ。それからピュイ、おまえの翅は魔法じゃなくても、飛ぶこと自体が危険かも知れねぇから、とりあえずは飛ぶなよ。俺たちのあとに続いて移動しろ」


 ピュイは、リューナの言葉にいつものごとく反射的に抗議の声をあげかけた。けれどすぐに態度を改め、おとなしく床に降り立つ。


「ドテッ腹が引っ込んで丁度いいだろ」


 余計な軽口を叩いてやったら、噛み付いてきた。危ういところで子龍の牙から自分のかかとを避難させ、リューナはナルニエを背負った。


 走ってきた通路から響いていた轟音が止んでいる。ラムダとかいう危険な黒鎧の巨漢は、すぐに追ってくるに違いない――リューナは奥歯に力を入れ、目の前に待ち受けている立体迷宮に揺るぎない視線を向けた。片腕でナルニエの小さな尻を支え、もう一方の手でトルテの温かい手をしっかりと握る。


 遺跡巡りをしていた頃の勘を呼び覚まそうと精神を集中させながら、リューナは急ぎ足で階段を駆け上っていった。


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