双つの都 10-14 幻精界の友

「ここが幻精界だっていうのか。俺たちの現生界とは違う世界だと――」


 ルシカが無言のまま腕を伸ばし、テロンの首筋にすがるように抱きついてきた。そっと腕に力を籠め、申し訳なさそうに小さな声で彼女は言った。


「そうね……どうしたらいいのかわからないわ。『召喚サモン』の魔法も『ゲート』の魔法も、生きて実体のあるものを通過させることはほぼ不可能に近い。意識を奪って物質として対象を運ぶのならともかく、術者が意識を保ったまま次元のあわいを越えて渡ることはできないはず……魔導の技は役に立たない」


「ルシカの『送還センドバック』は使えないか? 幻獣をもと居た幻精界へ送り還すことのできる魔法――」


 テロンの提案に、ルシカは彼の肩に顔をうずめたまま力なく首を振った。


「幻獣は、純然たる魔力マナそのもので体を構成しているの。容れ物である肉体をもっていないから。あたしたちでは無理だわ。肉体を失うことにでもなったら……そうしたら……」


 継ぐ言葉を口にすることができず、ルシカが言葉を途切れさせる。万能といわれるルシカの魔導の力だが、胎内の子どものためにも、危険な賭けをするわけにはいかないのだ。


 だが、どうすれば良いのだろう。途方に暮れかけたテロンだったが、諦めるわけにはいかないと心の内で自分を叱咤し、ルシカをしっかりと抱いたまま歩きはじめた。


「とにかく、周囲を探ろう。ここで時間を潰してしまうわけにはいかない。何とかしなければ」


「……うん」


 ルシカが頷き、緊張していたことで疲れてしまったかのようにテロンの腕のなかで力を抜いた瞬間。


「――ウッ! あぁぁ……!」


「ルシカ!」


「痛い……! やだ……どうしよう。テロ……んッ!!」


 今度はテロンもすぐに理解した。陣痛だ!


 もう産まれてしまうのか、それともまだ猶予があるものなのか――。


 テロンは、腕のなかで頬を染めて痛みに耐える妻の体を抱いたまま、周囲に視線を彷徨わせた。薄明るい霧の存在が疎ましい。足を速め、何か助けになりそうな気配を探りながら必死で駆ける。どこへ行けばよいのか、どこへ向かおうとしているのか、それすらもわからないまま本能のままに走り続けた。


 そして唐突に、彼の感覚を激しく揺さぶるものに気づいたのだ。


 ひどく懐かしいこの気配は――まさか!


「ここだぁッ!! 手を貸してくれ、ルシカが――ルシカが!」


 気づいたときには大声で叫んでいた。そしてテロンの期待したとおり、その声にこたえてくれたものがいた。


「わかっています。我らはそなたらを捜していた――間に合ったようで良かった」


 姿はまだ見えない。感じる気配まで二十リールメートルはある。その彼我ひがの距離をものともせず、滔々と心に響いてきた思念の言葉――その典雅な響きと穏やかな気配。そして、痛みに苦しむルシカがまぶしそうに目を細めた様子で、眼前に現れた者が相手が誰であるかをテロンはすぐに察した。予感が確信に変わった。


「エトワ!」


 そう、それは、魔の海域に浮かぶ絶海の孤島でルシカたちとともに出逢った、幻精界に住まう上位種族『夢見る彷徨人フラウアシュノール』だったのだ。


 幻精界を故郷としていた彼ら上位種族は現生界への憧れを抱き、彼らの優れた技術によって次元を渡り、定住の地として『千年王宮』を建設した。けれど魔力マナの薄さに抗えず多くの仲間たちを失ってしまい、弥終いやはての地へと去ったのである。


 『無の女神』によって崩された王都復興のために、その建設技術を学ばんとして、彼らが去ったと謂れのあった魔の海域の孤島へテロンやルシカたちは赴いた。最後の生き残りであったエトワと出逢い、友人となった――。


「だが、君は幻精界へと帰っていったはずなのに」


 ようやく距離を詰め、薄明るい霧のなかから浮き上がるようにして現れた白と水宝玉アクアマリン色に輝く姿が視界に入る。テロンの記憶にあった容姿と寸分違わぬ、この世のものとも思えぬほどに整った左右対称の顔に、なつかしそうな笑みを浮かべている。


「帰ったとも、友よ。ここがその幻精界であることをお気づきか。さすれば不思議はなかろう。だがそのような瑣末なことより、暁の魔導士と胎内の子の生命が危機に瀕しているのだ。急ぎ、救わねばならぬ」


「危機」


 テロンは思わず声をあげ、腕のなかのルシカに視線を落とした。痛みに呻いていた彼女は、半ば意識を失いかけていた。それでも必死に抗おうとしている。


 あの感覚が再び伝わってくることに、テロンは気づいた。狂おしいほどの焦燥感と喪失感に打ちのめされ、息を呑むテロンに、エトワは言葉を継いだ。


「彼女の生命そのものを構成している多大な魔力マナが、彼女に属する本来のものではないゆえに、分離しかかっているのだ。出産とは、そなたらの世界の大いなる神秘。おそらくそれがきっかけとなり、生命を維持している魔導そのものが不安定なものになったのであろう。このままでは胎盤から赤子が離れるとき、生命維持に必要な魔力マナそのものを引き裂かれてしまう。結果的に待っているのは、死だ。そなたら現生界の胎生の生き物は母体が死ぬと子も助からぬ。――双方を助けたくば、急がれよ!」


 エトワの言わんとしていることがようやく理解できたテロンは、やはりという思いとともに、ルシカと子を失うという恐ろしい可能性に真っ青になってしまう。


「どうすればいいんだ、教えてくれ!」


 必死の想いで、エトワに詰め寄る。


「愛しきものを我らに任せよ。我らはそのために都の力で『光の道』を開き、そなたらをここへ呼んだのだから。とはいえ、『転移』の位置が僅かに逸れてしまい、見つけるまでに時間を要してしまった」


「なんとかなるのか?」


「参られよ。今すぐに。我らが『光の都』トゥーリエへ!」


 エトワが片腕を宙高く跳ね上げると、頭上に広がっていた空が降下してきた。テロンは驚愕のあまり言葉を失ってしまった。まるで空そのものが天から剥がれたかのごとく、遥かな高みからすみやかに雪崩れ落ちてきたのだ。


「あれこそが、幻精界の光の領域を彷徨う『光の都』トゥーリエ。我らの故郷であり、存在の本質。そなたらの瞳には都市として映るはず。案ずることはない、魔力に満ち溢れたこの世界にあれば、我らの力で暁の魔導士の魔力を繋ぎとめることができる」


 剥がれ落ちてきた空はあっという間に地表に到達した。実体のない光そのものに包まれたかのように唐突に、テロンの視界が閉ざされる。次に目を開いたときには、そこはもう都市の内部であった。


 まるで王宮の正門を思い出させる、凝った造りの柱が立ち並んでいる。ひと柱の規模は王宮のそれより遥かに大きい。表面に幾重にも重ねられた半月状の浮き彫りには、遥かいにしえの文字とされていた帯状の文様が延々と綴られている。


「お産を手伝うものたちだ。名はイシェルドゥ、ソーナ、ユフィリ」


 その言葉と同時に、離れた場所から、冴え冴えとした月光を想わせる銀紗を纏ったみっつの人影が進み出てきた。その誰もが、眼前に立っているエトワのように背が高く、左右対称に整った容姿をしている。


 関節など存在していないようになめらかな動きで、エトワが奥へ案内するように片手を動かした。


「急がれよ」


 エトワについて不思議な都市に踏み込んだテロンは、ルシカを抱えたまま急ぎ足に進んだ。先を歩む幻精界の住人たちは、果たして足が地面についているのかいないのか、かなりの速度で進んでゆく。


 彼らが立ち止まった場所は、クリスタルそのものの煌めきをもつ乳白色の外壁に囲われた美しい建造物である。テロンは魔導士ではないが、凄まじいまでに圧縮された魔力マナの存在を建物の内部に感じた。


 テロンがルシカを抱いたまま建物に入ろうとすると、エトワが制した。


「そなたが入れば、そなたの生命たる魔力マナは微塵も残らぬ。ここからは、暁の魔導士の身、我らで預かる」


 イシェルドゥと紹介された、テロンより遥か歳上にみえる女性が進み出て、テロンの腕に抱かれたままのルシカにほっそりとした手を差し伸ばした。痛みと苦しみに閉ざしていた目蓋を薄く開いたルシカの眼差しが、ほんの刹那、テロンに向けられた。その瞳には、「心配しないで、待っていて」という想いが込められていたようにテロンには感じられた。


 ルシカの体がテロンの腕を離れ、ふわりと宙に浮く。同時に薄い虹色の膜のようなものが周囲に生じ、彼女の体を包み込む。残りふたりの女性が魔法で封じられていたクリスタルの扉を開き、宙に浮かべられたルシカを中へと導いてゆく。


 イシェルドゥがテロンに向き直った。


「破水もまだ見られませぬが、痛みの様子が尋常ではありませぬ。魔力マナの分離が進んでおりますゆえ、このまま内部にて魔力を繋ぎ留め陣痛を促進させる結界を貼り、なるべく早くお産へと移行できるよう努めるつもりです」


 隣に立つエトワが言葉を継いだ。


「体力と気力が尽きてしまう前に、決着をつけねばならぬ。類稀なる魔導の力と万能なる可能性を秘めているとはいえ、暁の魔導士もひとりの娘。死すべき定めに縛られた、限りあるいのちなのだ」


「けれど暁の魔導士さまは、堅固な意志と諦めぬ心をお持ちとみえまする。きっと持ち堪えてくれると信じております。待っていてくれる相手がいることは、何よりも生きようとする力になりますから」


 イシェルドゥは意味ありげな眼差しでテロンを見やって、にっこりと微笑んだ。額にかかる長い髪を纏め上げた銀紗の紐が周囲を包む白き光を受け、テロンをいたわるようにキラキラと輝いた。


 女性たちのあとに、結界をく役割を担うエトワが続く。


 扉が閉まる直前、テロンは彼らの背に声をかけた。


「ルシカを頼む……!」


 エトワが振り返る。ひたと向けられたテロンの眼差しを受け止め、エトワは静かな面持ちで、だが力強く頷いた。重々しく閉ざされた扉の前で、テロンはルシカと、まだ見ぬ我が子の無事を祈って待ち続けた。


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