双つの都 10-12 遺跡の迷い子
「まあ! とっても素敵ですわ。ねっ、リューナ!」
トルテは心から嬉しそうに手のひらを打ち合わせ、ぴょこんと跳ねた。高く結い上げてもなおサラリと腰まで伸びている金の髪が踊るように弾んでいる。この様子を目にして、リューナはさらなる呻き声を洩らした。
俺の周囲ってば、どうしてまともじゃない思考の奴ばかりなんだよ――と、つい恨めしげな視線で幼なじみを見つめてしまう。そんな彼の視線に気づいたトルテは、きょとんとオレンジ色の大きな瞳を見開き、首を傾げるようにして「はい?」とばかりにリューナを無邪気に見つめ返している。非常に可愛らしい――いや、実にのんきで能天気な様子に、大きなため息まで出てしまう。
「なぁトルテ。どんな状況でもゼッテー、自分は幸せだなぁって思ってるだろ」
「はい! もちろんですよ。あたしはリューナと一緒に冒険の旅に出ることができて、とってもとっても幸せなんです。だって、大好きですから!」
白い頬をほんわりと桜色に染めて、トルテがとびきりの笑顔をみせる。リューナの鼓動がひときわ大きく跳ね上がった。耳の奥に響くほどにバクバクと落ち着かない不安定なリズムを刻みはじめる。
でも、い、いや、大好きっていったって、もしかして俺じゃなく冒険の旅のことかも知れないだろ。いやでも待て、もし大好きというのが俺のことだったら――リューナはごくりと喉を鳴らし、首を横にぶるっと打ち振るった。気を取り直して顔を上げ、おもむろに口を開く。
「あ、あのさトルテ。それってもしかして――」
「あ、そういえば、メンバーが増えているはずですが」
何事もないかのような、ハイラプラスの声が割って入った。トルテの注意が逸れ、リューナの言葉は宙に取り残されてしまう。
ハイラプラスの姿は投影されている映像のはずなのに、ふざけあいながらもその場から動かず待機していたナルニエのほうへ、揺るぎのない視線を向けている。
「改めてお尋ねしますが、あなたは幻精界のかたですね」
訊くというよりは、確認するような口調でハイラプラスが言った。
「うん! ナルニエっていいまち――いいます!」
しゅたっと片手を挙げ、元気な声でナルニエが返事をする。その
「さっそくですが、トルテちゃん、次元を渡る扉を開く方法について説明します。まず、目指す世界に属する者との繋がりを維持してください。その上で『
「ちょっ、そんな抽象的な表現で大丈夫なのかよ」
思わず口を挟んだリューナだったが、ハイラプラスは涼しい顔で言葉を続けた。
「わたしの書き綴った文献の五百七十ページに図解がありましたよ。そこに、具体的な構成について余すところなく書き伝えられていたはずです」
「あ、わかりました。あの魔法陣のことなのですね、ハイラプラスさん。魔法陣の中央に手書きの注釈が加えられていましたから、なんだろうとずっと疑問に思っていました」
リューナは思わず、傍らに立っている幼なじみの顔を凝視してしまった。あの分厚い文献を、まるまる一冊記憶しているということなのか……天才天災魔導士がもうひとり身近に居るのでは、という複雑な思いが生じ、胃がシュクシュクと痛みはじめる。
「どうかしたんですか、リューナ。だいじょうぶです?」
トルテが心配そうな表情でリューナの顔を覗き込む。
「い、いや、なんでもないさ。だよな、トルテは普通に周囲への気遣いができるから、間違っても親父たちのようには――」
「おい、リューナ! シャールからの伝言だぞ。トルテちゃんを泣かすんじゃありませんよ、だとよ。ポテトサラダのサンドイッチとタマゴサラダのサンドイッチの両方をたくさん用意しておくから、ふたりとも道に迷わず無事に帰ってこいとさ」
父から伝えられた母の言葉に、リューナは地面にへたりこみたくなった。十九にもなって、これだよ……。慰めるように背中に当たる太陽の温もりに、涙したい気分だ。
「そういうわけですから、トルテちゃん、扉を開いてくださいね。なるべくなら、急いだほうがいいです」
いつになく真剣なハイラプラスの言葉に、トルテがしっかりと頷く。
「わかりました。ではナルちゃん、手を貸してくださいますか?」
呼びかけに応じて駆け寄ってきたナルニエが小さな手を差し出し、トルテの手に繋がれる。まるで歳の離れた姉妹のように思える光景だった。
「心を澄ませて、故郷である幻精界のことを想ってください。リューナ、ピュイ、あたしが扉を開いたら遅れずについてきてくださいね。他のことは考えず、あたしたちと同じ場所に行き着くように、とだけ心に念じてください。もしはぐれてしまったら、取り返しのつかないことになりますから」
その言葉に、リューナは慌てて気を引き締めた。幻精界というものがもし、この現生界と同じほどの規模があるのだとすれば、非常に困ったことになるだろう。世界は広いのだ。
「では、いきますね」
トルテが
大樹の幹から濃厚な
背後で、安堵したような気配を残し、ハイラプラスの魔法が消失した。最後に、いってらっしゃい、という穏やかな声が耳に届いたような気がする。
「なんだ……この音色は」
代わって聞こえてきたのは、森羅万象を奏でたように
魔法陣の中心でまばゆく光り輝いていた樹幹は透けるようにその輪郭をなくし、内部に
「……次元の扉が開かれるとき、ありとあらゆる音が鳴り響くといいます。ちょうど可聴領域の音が、こんなふうに感じられる音域と音階をもっているのでしょうね。魔法王国の頃より伝わっている魔導の歌も、そのようなものなのかもしれません。リューナ、心の準備はいいですか?」
扉を開き終わったトルテが、彼のほうへ手を伸ばしていた。もう片方の手にはナルニエがすがりつき、さらに幼女の腰にはピュイが抱きついている。
リューナは、歳のわりに細く小さな手を握り、彼女に向けて大きくひとつ頷いてみせた。
「よっしゃ、行こうトルテ!」
「はい、リューナ!」
別次元と繋がれた扉の存在する空間は、降り注ぎはじめた陽光を凌駕し、一瞬、強く光り輝いた。そして
だがそれもすぐに薄れてゆき――静寂が戻ったあと、何事もなかったかのように大樹だけが静かに佇んでいた。
手の施しようがない――。
『千年王宮』の一室で、『癒しの神』ファシエルの最高司祭が憔悴した面持ちで告げ、医療術師たちがうなだれながらその部屋を辞した。痛ましそうに振り返りながら扉を閉める彼らが見たのは、寝台の傍から離れようとせず、愛する妻の手を握ったまま見守り続ける王弟の背中であった。
「ルシカ」
テロンは腕を伸ばし、血の気の失せた頬を両手で包み込んだ。耳元で呼びかけても、ぐったりと伏せられたままのまぶたが開くことはなかった。地表を照らし温もりを与える陽光のような色彩をもつ瞳を飾っていた金色のまつげは、ぴくりとも動かなかった。
図書館棟の地下保管庫でルシカが倒れてから、すでに日は暮れ、夜半を過ぎている。外は間もなく、
だがルシカは――ルシカの命は、終わりを迎えようとしている。愛する者のために為すすべもなく、テロンは腕のなかに抱いて温もりを失わぬように、精一杯の祈りを籠めることしかできなかった。
「護り続けると……そう誓った、誓ったのに……ルシカ」
目を覚ましてくれ。いつものように笑って俺を見つめて欲しい……俺を照らしてくれる太陽のように輝く瞳で。あたたかな想い出ばかりが腕のなかの顔に重なり、テロンは愛しさに胸を突かれて顔を下ろした。すべらかな頬に、額に、そっと唇をつけると、ほのかな体温が伝わってくる。だが、それもいつまでもつのだろうか。
意識を失っていてもなお、ルシカはテロンの瞳に好ましく映っていた。かけがえのない、何よりも大切な、ただひとりしか存在していない、心から愛している女性。テロンは泣き笑いに顔を歪め、ルシカの小さな顔にそっと覆い被さり……やわらかな唇に、自分のそれをゆっくりと重ね合わせた。
そのとき、触れ合っていたまつげが微かに震えた。テロンははっと顔を起こし、願いと期待を込めた眼差しで腕のなかの妻を見つめた。
ルシカが目を開いていた。微笑みのかたちを成した唇がそっと動き、ささやかな音を紡ごうとしている。
テロンは急ぎ、耳を寄せた。
「……テロ……。どうし……も、伝え……いことが……るの。あの、ね……げん……精界……の時間……は、こち……とは違っ……る……から」
「げん……幻精界?」
テロンは思わず訊き返した。そうよ、と頷くように、ルシカの瞳が優しく揺れる。
「しん……じて、待っ……い……欲……いの。きっ……と、だい……ぶ……から」
言葉が途切れかかる。
意味までは聞き取れなかったルシカの声を心に刻みつけながら、テロンはこみ上げてくる涙に喉を詰まらせ……それでも何とか微笑んでみせた。細めた目の端から、熱い雫がとめどなく零れ落ちる。
「待て、ルシカ、目を閉じないでくれ。ルシカ……ルシカ」
「……愛……して……る……テロ……ン」
ルシカの喉から言葉がこぼれ、瞳が力を失ったように光を失い、ゆっくりとまぶたが閉ざされた。抱きしめた腕に、トクン、とひとつの鼓動が伝わって――。ただ静かな、怖ろしいほどに静かな空間が、テロンを包み込んだ。
ようやく、何が起きたのか、何が終わったのかを理解して、彼は喉から声を絞り出すようにして吼えた。
「うぅぅ……うわあああぁぁぁぁッ!!」
テロンはルシカの体を抱きしめた。いのちの欠片を掻き集め、もう一度取り戻そうというかのように。幾度も幾度も、愛する者の名を呼び続けた。
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