古代龍と時の翼 9-37 炎の龍と水の決戦

 さしもの始原の龍も、一瞬瞳のいろを失って首を仰け反らせかけた。だがすぐに頭を起こし、凄まじい憤怒の形相を魔剣士に向ける。クルーガーが舌打ちし、魔法剣を眼前に構えて防御の体勢を取る。


 だが、灼熱の炎はクルーガーに当たらなかった。奮然と突っ込んできた魔竜が彼のいた空間を横切ったのだ。舌打ちしたのは古代龍のほうだ。クルーガーはプニールの背に掴まって攻撃を回避したのである。


 その魔竜を追うように首を向けた古代龍に、シーサーペントが噛みついた。古代龍は意識を目の前の魔獣に戻し、動く左腕を素早く動かした。再び空中に赤く輝く魔法陣が描き出される。


 ウルルルルルル――!!


 ウルの苦悶の叫びが響き渡った。至近距離から灼熱の炎を浴びたのだ。ルシカが彼に水を注ぎかけたが、すぐには動けそうにもない火傷を胴に負ってしまった。


 ――とどめだ!!!


 古代龍は尾を振り上げた。地面に半ば埋もれたウルの頭部を狙って。


 ルシカが『水制御ウォーターコントロール』の魔法陣を展開させたまま、もうひとつの魔導の技を行使しようと片腕を振り上げる。


「ルシカ!?」


 無茶だ――テロンは思った。だが、彼女が友人の生命を救う為に躊躇をすることは絶対にないのだ。ルシカはひとつの魔法陣を維持しつつ、同時にもうひとつの魔法陣を描き出した。テロンも意識を集中させ、自分のなかの魔力マナを体術の『気』に変えて、自身のなかで技を練り上げる。


 テロンとルシカは同時に自分たちの技を放った。テロンは『氷結螺旋旋風』を、ルシカは『空間凍結フリーズエア』を――結果それぞれの力がひとつに重ね合わされた。融合された技は空間を切り裂いて翔け、古代龍の体躯を包み込んだ。


 ルシカの放った『空間凍結フリーズエア』が大気の水分を瞬時に凍結させ、テロンの放った『氷結螺旋旋風』が大気を渦巻かせた。まるで竜巻のように激しく渦巻く強大な力が、この空間にたっぷりとあった水を氷の剣や槍や矢と変えて……古代龍の表皮を、骨を削ってゆく。


 龍は凄まじい悲鳴をあげた。体を埋め尽くしていた『真言語トゥルーワーズ』が破壊され、そのひとつひとつが空間をじ切ってゆく。一字一句が魔法陣といわれている、途方もない力を秘めた魔文字なのだ。それが破壊された衝撃は、怖ろしいものであった。古代龍の全身が襤褸ぼろ布のように引き裂かれ、藍色の血が飛び散って水の溜まった大地を染める。高温の血潮はそこかしこでジュウジュウと音を立てた。


 ――ぐあぁぉぉおおぉぉッ!!!!


 古代龍の眼が、テロンとルシカに向いた。まるでスローモーションのように、古代龍が尾を振り上げる光景がテロンの眼に映る。先が細く鋭く、まるで先を尖らせた鋼の破城槌はじょうついのようだ。それが自分たちに――いや、真っ直ぐにルシカに向けられ、空中を切り裂いて迫ってくる!


 ルシカがオレンジ色の瞳をいっぱいに見開く。その虹彩には魔導の白い輝きが宿っている。すなわち、魔導の技を行使している最中なのだ――ルシカは完全に無防備だった。テロンはルシカの前に飛び出した。


 自分の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。


 だがテロンの意識にあったのは、たったひとつのことだった。絶対に護らなくてはならない。その先端で彼女を貫かせはしない――たとえ自分の身がどうなろうと、この後ろにだけは絶対に抜けさせない……!!


 テロンは腕を突き出し、古代龍の尾を掴むように受け止めて渾身の力を籠めた。だが『聖光気せいこうき』を纏った腕であろうとも、体であろうとも……それは止められるような勢いではなかった、そのはずであった。


 先端が切っ先となってテロンの胸に迫る。心臓の上だ。その向きを逸らせることなど考えられなかった。ただ、止めることだけを考えていたのだ。


 切っ先が衣服に突き刺さる。たとえ鎧を着込んでいても結果は変わらないであろう。テロンは自分の死を覚悟した。


 だが、尾の先端はそこで止まった。胸をえぐる、まさにその直前であった。


「――テロン!!」


 ルシカの声が聞こえ、時間の流れが戻ってきた。テロンは瞳をあげて眼前の光景を見た。


 古代龍の体躯に魔法剣が突き刺さり、牙が埋められ、鉤爪で切り裂かれ、魔術と幾本もの矢が突き刺さっていた。テロンが握りこんでいた尾の先端が震え、支える力を失ったようにずるりと落ちていく。


「テ……ロン」


 声に振り向くと、心底安堵したような表情のルシカが力尽きたように地面へとくずおれるところだった。


「ルシカ!」


 テロンは急いで腕を差し伸ばし、愛する女性を抱きとめた。顔にかかっていたやわらかな髪を手でそっと除けると、彼を見上げるルシカと眼が合った。澄んだオレンジ色の瞳は涙でうるみ、テロン自身の顔が揺れ映っている。


「ルシ――」


 口を開きかけるテロンより先に、ルシカが大声をあげて泣き出した。首にしがみつき、きつく体を彼に押しつけるようにして、激しく泣きじゃくる。久しぶりに見る彼女の様子に、膝をついたままのテロンは呆気に取られて継ぐ言葉を失った。


 怒っているのだか安堵しているのだか、おそらく彼女自身にもわかっていないのかもしれない――それほどまでに心配をかけてしまったようだ、とようやく思い至る。さっきまで無我夢中で、他に何も考えられなかったのだ。


 ルシカは何度も彼の名前を呼んでいた。そういえば、海に落ちて記憶を失ったときにもこんなことがあったな……とテロンは思い出していた。


「まァッたく、無茶をするところまでルシカとよく似てしまったか。夫婦だなァ」


 ため息とともに吐き出された安堵の滲む言葉に顔をあげると、そこに双子の兄が立っていた。マイナやリーファ、ティアヌ、マウ、リンダやシャール……ついでにメルゾーンの姿も、遺跡のきざはしの下にあった。どの顔にもほっとした表情が現れている。


 その向こうには、倒れこんだように横たわったままのウルの姿もある。頑丈タフで知られる魔の海域の魔獣なのだ。生命に別状はなさそうだ――仲間たちの無事を知り、テロンはようやく心から安堵した。


 テロンは兄クルーガーに片眉を上げて微笑してみせ、それからまだ嗚咽しているルシカの背を抱きしめてから何度も撫で擦り、その肩を優しく掴んで起こした。


「すまなかった、心配をかけて。夢中だったんだ」


 ルシカがしゃくりあげながらも赤くなった眼をこすり、頷いたので、テロンは彼女のやわらかな唇にそっと口づけをしてから、ふたりで立ち上がった。


 ――我……は死する、訳には、ゆか……ぬ。……よ、おまえを生き……らせる為に。


 いまにも途切れそうな思念が、消えそうになりながらも空間に響き渡った。テロンは思わず妻を自分の背後にかばうようにまわした。


 倒れ伏していた巨大な体躯が、ずるりと起き上がったところであった。仲間たちが警戒して各々の武器を構える。だが、テロンにはわかっていた。もはや古代龍からは生気も殺気もほとんど感じられず、逝きかけている瀕死の状態にあることが。


 ルシカもクルーガーもそのことを理解しているのか、ただ静かな視線を向けていた。


 古代龍は左右に一枚ずつを残す翅で這うように空中を飛び、よろよろとフェンリル山脈の奥に戻っていく。立ちはだかる峰のひとつひとつに巨大な体躯をぶつけつつ――その様子を見て、テロンは空が明るくなっており、いつの間にか長かった夜が明けつつあることを知った。


 ルシカがテロンに寄り添うようにして、哀しみを含んだような声でつぶやいた。


「追い討ちをかける必要はないわ。古代龍の魔力マナも体力も、すでに生命を維持できる限界を遙かに下回っている……」


「ルシカさんも……危ないところじゃないですか……」


 クルーガーの隣まで歩いてきたマイナが涙混じりにそう言った。


「そうね、平気……ではないけれど」


 そう言ってルシカはちょっと笑った。そして真面目な顔になって言葉の先を続けた。けれど、言いにくそうに口ごもりつつであった。


「あたしたちは……先にザルバーンに行かなくちゃならない。すべてに決着をつけ、悲しみの連鎖を未来へ繋げないためにも……でも、そこで何があるのか、どうすれば良いのかは行ってみないと説明できなくて……」


「――行けばわかるのだな」


 テロンはそれ以上訊かず、ただルシカの言葉に頷いた。彼女にもそれ以上説明ができないのだろう。互いに良く理解し、信頼し合っているゆえに、そういうことは伝わってくるのだ――夫婦なのだから。


「いまならおじいちゃんの気持ちがわかるわ」


 そうつぶやくルシカの震える手を、テロンは自分の手で包み込んだ。兄クルーガーが口を開く。


「しかしルシカ。先回りするとしたら、あの塔の場所に『転移テレポート』で飛ぶことになるんだろう。だがおまえの魔力マナはもう限界だ。無理をして、もしおまえに何かあったら――」


 兄の懸念にテロンは思わずルシカを見た。ルシカはテロンの手をきゅっと握り、彼を安心させるようににっこり微笑んだ。彼女は仲間たちに向けていった。


「心配しないで。そのとおり、あたしは限界だけど。でも――」


 ルシカは言葉とともに腕を差し伸ばした。その腕先の示す数歩先の虚空に、突然光が生じた。小さな輝きはすぐに大きな光になる。あふれる朝日に負けないほどのまばゆい、さまざまな光を集めて重なり合わせたかのような生命そのものの白き輝きが、ゆっくりと静かに脈打つ光となって。


「ルシカ。これはまさか」


 テロンは呆然とつぶやき、やわらかく微笑む妻の顔を見つめた。ルシカがゆっくりと頷く。彼は妻の肩を抱いて、仲間たちとともに光に向き直った――。


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