古代龍と時の翼 9-5 投じられた一石

 陸の孤島とも称される、絶壁に囲まれた不毛の大地。


 そこは大陸の中心にあり、地続きであるにも係わらず周囲からきっぱりと隔絶された場所であった。


 理由は、その大地が存在している標高にある。三千リールメートルを超えているのだ。しかも、その標高に至るまでに障害となるのが、山脈の麓から登ろうとするものを拒絶する断崖絶壁『ソルナーンの壁』、そして周囲にいくつもある四千リールメートル級の高峰だ。自在に空を飛べる飛翔族の冒険者であっても、容易に到達することができない場所である。


 その大地の只中に、『打ち捨てられし知恵の塔』と呼ばれていた魔法王国中期の建造物がそびえている。いにしえの宝物『従僕の錫杖』が造られ、また、葬り去られた場所であった。宝物と繋がっていたマイナは恐るべき運命の連鎖から解き放たれ、塔はその役目を終えていた。現在は、忘れ去れられた石碑せきひさながらに沈黙している。


 そこより南へ寄った場所、『ソルナーンの壁』として大地がすっぱりと断たれて絶壁となるきわに、雄大な光景と比べると粒のようにちいさくはかなげな白い影がひとつ、降り立った。


 パサリ、と微かな羽ばたき音を最後に動きを止めた人物は、そっと息をひそめるように身をかがめた。小柄で華奢な姿をしている。周囲に気配や物音ひとつないことを確認して、その人物は大きく息を吸い、大仰な動作で腰の後ろを叩いた。


「あぁ、疲れたぁ」


 どこか幼さを感じさせる、明るい声と砕けた口調。


 その人物は顔をあげた。まとっている外套の頭巾フードがするりと背に落ちる。現れたのはまだあどけなさを残す顔立ち。十四歳ほどの少女だ。薄桃色の髪がさらりと揺れ、赤く透き通る瞳が陽光にきらめいた。色の薄い空高く、キラキラと渡ってゆく輝きに惹かれたように視線を上に向けている。高峰のどこやらから氷粒のような雪が吹き運ばれてくるらしい。


「きれい」


 素直につぶやいた途端、ハックシュン、と盛大なくしゃみをした。


 太陽の光は強いが、気温はすこぶる低い。加えていうなら空気も薄かった。体の周囲に幾重にも張り巡らせてある魔導の技の保護がなければ、他種族よりも骨格の細く贅肉の薄い種族である彼女は、歯の根も合わないほどに震えていたであろう。


 彼女は飛翔族なのである。大陸の中央から南に位置している王国タリスティアルに住まう魔導士。使い手としては大陸に両手の指の数ほども残っていない、古き血とともに受け継がれる強大な魔法の力――魔導の技を自在に操れる存在のひとりなのだ。見かけは何とも頼りなげな、無邪気な顔立ちのあどけない少女であったが。


「あぁ、寒いなぁ……」


 言わずもがなな言葉をつぶやき、背中にある純白の羽毛で体を包み込むようにして歩き出す。その足元で、草ひとつ育たない大地の礫岩れきがんがザリザリと音を立てた。雪はとりあえず消え失せているとはいえ、顔を上げれば山岳氷河と呼ばれる白の光景が遠く見渡せた。


 彼女の故郷――夏を迎えたタリスティアルでは、濃い緑の生い茂った森が黄色の花のいろに染まり、黒い縞模様の緑瓜がごろごろと畑に転がり育っているというのに。水を多く含んだその実を割れば、中は吃驚びっくりするほどにあざやかな赤の色彩が詰まっているのだ。シャクシャクとかじりつくときの食感と甘く爽やかな味とを思い出したのか、少女はさも残念そうな様子でため息をついた。


 なおもぶつぶつと言いかけた少女は、ふいに表情を引きしめた。


「ザルバーンの東斜面が崩れてる……」


 魔導の技『遠見マジックアイ』によって注視していた光景のなかに、異常を捉えたのだ。氷河の一部がぽっかりと蒸発でもしたかのようになくなっている。それは、さほど過去のことではないらしい。雲のように白く凝った水蒸気が周囲を漂い、いまも岩のようなかたまりが雪崩なだれるように転がり落ちているさなかにあった。


 事実を目の当たりにして、彼女は驚きに眼を見開いた。天空に突き上げられた大地の剣先のような最高峰ザルバーン――悠久の時を越えてきた姿が、もろくも崩れ去りつつあるのだ。


 実は彼女は、今朝から言い知れぬ強い不安を感じていた。彼女が持っている魔導の力ゆえなのかもしれないが、何かが起こる兆しを感じ、行かねばならない気がしていたのである。屈強な冒険者であっても飛び越えるのは不可能とされる『ソルナーンの壁』も、魔導士である彼女にとっては越えられぬものでもなかった。


「どういうことなのかなぁ……特に異常な温度上昇もなかったし、地震も発生していなかったはず。山岳氷河が消失する原因なんて、どこに」


 言いかけた彼女は、ギクリと身をすくませた。――足元に影が落ちている。それはみるみる広がり、濃くなっていく。


 周囲を圧倒するような重圧感。肌を突き刺すような嫌悪感、そして畏怖。震える瞳を励ましながら、彼女はのろのろと顔をあげた。


 薄水色の空は見えなかった。視界いっぱいに広がり頭上を覆い尽くしていたのは、ただ一面の影。


 彼女は見た。創世の時代より現生界の頂点に君臨し、天空を蹂躙する王者の真なる姿を。


「こだい……りゅう……?」


 かすれた声が喉から押し出される。羽ばたきが巻き起こす風がかなり離れた地面を叩き、小石や砂を巻き上げている。圧倒的な体躯、その巨大さ。もはや逃げることも隠れることも叶わない。


 少女が立つ場所は、古代龍の真下であった。地面に沿って首をちょいと振り抜かれれば、ばらばらに砕かれてしまうほどの至近距離だ。


 魔導士という古き血を継ぐ彼女であっても、神と並び称されるものを相手にして、他に何ができただろうか。恐怖のあまり蒼白になった顔のまま立ち尽くし、かすれた悲鳴をあげることの他に……。





 ミディアルからもたらされたしらせは、不穏と破滅をはらんだ先触さきぶれであった。王宮を――王国とその周辺すべてを震撼させることになる事件の幕開まくあきとして。


「国王陛下、大変ですッ!」


 そろそろ公務に戻らねば、とクルーガーが立ち上がり、それならばルシカを部屋で休ませてやろうと考えたテロンも続けて立ち上がったタイミングだった。


 静かであった王宮のバルコニーに、バタバタと騒々しい足音が響き渡る。まろぶような足取りで急ぎ駆け走ってくるのは、情報収集を任されている大臣のひとりニルアードだ。近年さらに腹のあたりに肉がついて動きが緩慢なものとなっているが、その形相はこの上もなく真剣で必死であった。


「どうした――何事だ?」


 クルーガーが表情を引き締めて背筋を伸ばし、よく通る声で尋ねた。只ならぬ気配を察したマイナが、傍らの椅子から蒼白になって立ち上がっている。


「ミディアルの図書館を管理している観測官リオナルディから連絡が入りました。フェンリル山脈の最高峰ザルバーンが崩れかけているとのこと……!」


「ザルバーンが……?」


「あそこには、古代龍が眠っているという噂があるわ」


 間髪を容れずに応えたのは、宮廷魔導士でもあるルシカだった。昇りたての太陽さながらの明るいオレンジ色の瞳が、凶兆を感じたときのように見開かれ、白き魔導の光を宿して揺れている。


 すべらかな頬を強張らせ、彼女は椅子から立ち上がった。


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