古代龍と時の翼 9-6 投じられた一石
テロンは、傍らの椅子から立ち上がった愛妻ルシカの表情を見て、何か途方もない、言い知れぬ不安のようなものを感じた。
不安? ――いや、予感なのかもしれない。
魔導士である彼女の頭のなかで、どのような考えが巡っているのか。魔法に対する感覚は常人と変わらないテロンには、想像もつかなかった。だが、彼女の感情は理解できる。
咲き初めの薔薇のようなルシカの唇は、何かを言いかけたときのように半端に開かれたまま蒼ざめて凍りついていた。オレンジ色をした瞳は見開かれ、ここではない光景を映しこんでいるかのように大きく揺れている。
魔導という力を受け継いでいるゆえに、テロンには感じ取ることもできない何かの兆しを感じたのか――。
「俺が塔へ通っていたときにもずっと、揺るぎないザルバーンの峰は眼によく馴染んだ光景なんだが」
テロンの耳に、兄クルーガーの声が届く。冷静沈着な兄ですら、ニルアード大臣の報告を受けて戸惑っているようだ。もちろん他人から見ればいまも変わらず堂々とした国王としての姿勢を保っているが、双子ゆえにその言葉の奥底に生じた不安をテロンは感じ取っていた。
霊峰ザルバーン。このトリストラーニャ大陸が創られた始原のときより変わらず在り続けているといわれる、人の領域を超えた古き自然の聖域であった。歴史に記されている限り――古代魔法王国グローヴァーの時代においてさえも、
「それが今まさに……崩れているだと?」
クルーガーが言葉を続けながら、大河ラテーナの流れを
フェンリル山脈の最高峰であるザルバーンは、王国の南に
視線を向けた全員が息を呑んだ。遠く連なっていた雄大なる山脈が、すっぽりと白い雲のようなものに覆われ、黒い粉塵のような筋までもが入り交じっていたのである。
ひとり厳しげな面持ちで無言のまま目を
妻の視線に気づいたテロンは、すぐ彼女のほうに向き直った。為すべきことを決意した揺るぎない瞳。だが長い付き合いである彼には、その瞳の奥に秘められている
ルシカが何を懸念しているのか、テロンにはわかった。心配されることがわかっていても、いまここで魔導の技を使うことを承諾して欲しいのだ。
彼女はいつもテロンのことを気遣っているのである。テロンが彼女を気遣っているのと同様に。
テロンは口元だけを微笑ませ、彼女に向けてきっぱりと頷いてみせた。信じているから、君の思うとおりにやって構わない、と。
ルシカがホッとしたように表情を緩めた。次いで真剣な面持ちになって身を
その彼女の背に、思わずといった口調でクルーガーが声を張りあげる。
「待てルシカ! ザルバーンは遠いぞ、無理をするな。こんな遠距離から『
「いいえ。使うのは『
短く答え、ルシカは両腕を広げた。流れるようになめらかな動きで定められているままに魔導の
彼女の周囲の空間から滲むように幾筋もの光が現れ、空中を飛び
オレンジ色の瞳の虹彩に、白き魔導の輝きが灯った。彼女は小さな
――魔導という視覚を得た瞳の内に、肉眼では見渡せない
テロンは口元を引き締めたまま、これらの光景を見守っていた。魔導の技を行使しているときの彼女の姿は女神さながらに美しい――まさに人智を超える事象を具現化しているゆえに。
だが――その魔法を使うことで、魔導士がいかに気力と
通常、不可能だとされる事象も具現化してしまう奇跡の技――『
魔法を行使するということは、術者自身の魔力と意思の力で対象の魔力に影響を与え、その
世界全体でみれば魔力は消え失せているのではなく、周囲に働きかけたエネルギーとして散じてしまっているに過ぎない。だからゆっくりと休養を取ることで、また外部から注ぎ込まれることで魔力は回復させることができる。回復させることができず死に至ってしまうのは、生命を維持することができぬほどに魔力を失ったときのこと。
そして、魔法の行使をより強力に、より確実に、そして瞬時に行うことができる者たちを『
ちなみに、魔導の血を生まれつき持たない者が同じような魔法効果を得ようとして呪文の詠唱や魔道具の助けを借り、実現するのが『
魔法は本来、創造、破壊、時間、空間、召喚、幻覚、察知、透視などという力の『
けれど、その制限に縛られることのない者が、この
現在、その万能の力を持って生まれし者――それが『万色』の魔導士ルシカなのだ。すべての『名』に属する力をあやつり、複数の魔法を同時展開できるという無限の可能性を秘めた存在だ。
テロンは、ルシカの行使する魔導の邪魔にならない距離までゆっくりと近づき、そこで静かに彼女を見守った。何かあったときには、すぐさま駆け寄って彼女を支えてやることができる位置に。
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