従僕の錫杖 8-30 想いが導くもの

「……おじいちゃん……」


 ささやくようにつぶやいたルシカが見上げる空では、筋のような雲が高いところを渡っている。ルシカは船酔いとは別の苦しさをおぼえ、胸を押さえた。


 彼女の体調を案じているテロンが歩み寄った。 


「……どうした、ルシカ。浮かない顔だが、何か問題があるのか」


「わからない……わからないの、はっきりとはあたしにも。何だか……胸がざわざわする感じがする。これから向かうその先のことを考えると」


「封印から錫杖を解き放つ方法がわかっても、その前に困難が立ちはだかっている感じ……か?」


 震えるまつげとオレンジ色の瞳を見つめ、テロンが問うた。ルシカは空からテロンに視線を移した。


「……そうね……そうかもしれない。あたしたちの力を超える壁が見える気がするの。――変ね、あたし今までこんなこと感じたことがなかったのに」


「もしかしてそれは、ヴァンドーナ殿の持っていた『時空間』の魔導の力、『予知プレディクション』なんじゃないかな」


 テロンの言葉にルシカは目を見開き、ひくっと喉を鳴らした。そっと手を伸ばし、目の前に立つ青年の衣服の裾をきゅっと握り、顔を伏せた。


「――もしそうだとしたら……あたし、そんな未来のヴィジョンなんて受け取れるくらいに強くない……できないよ」


 小さく、ルシカは震える声で言った。表情が見えない代わりに、ふわりと流れる金の髪が小刻みに揺れている。


 テロンはルシカに一歩近づき――その背に、肩に、腕を回した。「大丈夫だ」とは言えない彼は、震えるルシカの体を包み込むように抱きしめることしかできない。


「俺にはルシカと同じものは見えない……だが、話してくれれば知ることはできる。重荷を分かち合うことができる。もし未来が押しつけられる時が来たら……俺に話してくれ。ともに悩み――そして良い選択を一緒に探し出そう」


 ルシカは顔を上げ、頷いた。自分を見つめている優しい光を湛えた青い瞳に、たとえようもないほどの安心を感じて。


「……絶望ではなく選択を探る、なんてところが、本当にあなたらしい……」


 彼女は微笑み、目を伏せて静かに息を吐いた。その広い胸に顔をうずめる。――テロンは決して屈しない、あきらめない。そんな彼の姿勢と心の存在こそが、彼女を支えているのだ。





 王都ミストーナに戻った一行は、その足で王宮に向かった。


 『千年王宮』のなかの西の棟にある『転移の間』で、ルシカは魔法陣を発動させた。まぶしくて目を開けていられないほどの光量が収まり、地面がまた固いものに戻ったので、彼らは再び目を開けた。


「――あれ?」


 驚きのあまり声を発したのは、クルーガーだ。


「『転移の間』から繋がっていたのは、ヴァンドーナ殿の書斎ではなかったか?」


「ここって、屋敷の外ですよね?」


 続いてティアヌが声を上げた。リーファにとっては初めての場所なので、怪訝そうに他の仲間たちの顔を見回していた。


 建物の周囲に広がる深い森と、その上にそびえるゾムターク山脈が見渡せる。自然のあふれる、なかなかに壮大な眺めだ。


 沿岸育ちのマイナは、内陸部の緑深い景色に見惚みとれていた。グリマイフロウ老は、船の修理で大忙しなので王都に残っているためここには居ない。


 一行が出た場所は、屋敷の正面に当たる緑いっぱいの広場だ。屋敷の周囲、数箇所に不可思議な模様を刻みつけた柱が立っている。それらはルシカが宮廷魔導士として王宮へ移り住む前――まだ何も知らない魔導士見習いの娘として過ごしていた頃には、無かったものだ。


 柱は、屋敷の持ち主であるヴァンドーナがこの世を去ってから、ルシカ自身が設計したものなのだ。他者の侵入を拒む結界を発動させ、維持する助けとなるように、魔法陣を組み込んであるのだ。


「今は屋敷の外に通じるようになっているの。建物全体に結界を張っているから、移動魔法では直接中へは入れないのよ。すぐに鍵を開くから、ちょっと待っててね」


 クルーガーとティアヌの疑問にルシカが答え、すぅと大きく息を吸っておもむろに目を伏せた。


 魔導行使のための集中に入ったルシカの言葉を、テロンが継いだ。


「この私邸には、魔法を知らぬ者にとってもひどく価値のある品や書物が多いからな。少しずつ整理はしているんだが、追いつかないんだ。ひとつひとつの品が何であるか把握するまでは、安易に動かせないような品も多くあるからな」

 

 テロンの説明が終わるとほぼ同時に、ルシカが手を宙に跳ね上げた。


 然るべき動きと『真言語トゥルーワーズ』を使い、魔導の技で施錠された結界を解き、次々と解放していく。ルシカはひとつずつ力場を解き放ちながら玄関に向かって進んだ。


 魔導の技で施錠した当人が腕を伸ばし、玄関の扉の表面に手のひらを触れると、建物全体に虹色の膜が生じた。ルシカが具現化する魔法陣ひとつひとつに反応して、少しずつ光の色が消えていく。


 全ての光の色が消え去ったあと、ルシカは衣服の隠しから銀の鍵を取り出し、鍵穴に突っ込んで回した。カチャリ、と小気味良い音が響く。


「さて、と。居間でもどこでも使っていいので、ゆっくり待っていてね」


 扉を開け放って皆をいざない、ルシカが言った。


 屋敷の内部は、まるで時が止まってでもいたかのように、塵が積もることもなく空気も澱んではいなかった。


「――すごい。さすがですねぇ」


 好奇心旺盛なエルフの魔術師が物珍しそうに、あちこちを眺めていた。以前に王都へ急ぎ戻る必要があり、屋敷内を通り抜けたことはあったのだが、そのときには連れ去られた少女のことばかり頭にあって、周囲など眺めている余裕はなかったのだろう。


 今のティアヌは本来の好奇心を全開にして、ホールの棚にずらりと並べてある魔法の品や壁に掛けられている古代地図、何かの設計図などを忙しそうに見て回っていた。その傍らには、呆れたような表情で付き添っているリーファの姿がある。ティアヌは満ち足りたような、実に幸せそうな表情でリーファと賑やかな遣り取りをしているのであった。


 そんなふたりを眺めていたルシカがあたたかな笑顔を浮かべ、テロンの腕にそっと触れた。テロンはうなずいて妻に応えたあと、表情を引きしめて双子の兄であるクルーガーに視線を向けた。


 気づいたクルーガーが心得顔に頷くと、ホール横から続いている居間へと急きたてるように一行を案内して行った。


 仲間たちの背を見送り、ルシカはテロンとともに歩き出した。三歳で両親を亡くし、それから宮廷魔導士として就任するまでの十三年間を過ごした、ルシカにとっての我が家だ。


 迷う事なく廊下を歩き、書庫を覗いた。


「――ふふ。ここで、テロンたちに逢った日、おつかいに出掛ける前におじいちゃんと話したんだっけ」


 ルシカは寂しそうに微笑んだ。


 書庫の天窓から、やわらかな日差しが床に届いている。さまざまな書物、数多くの魔導書、知識の宝庫――。


「ここで……おじいちゃんからたくさんのことを学んだわ。つらかったこともあったけれど、おじいちゃんはあたしにありったけの知識を渡したかったのよね……。今はそれらの知識に、本当に助けられているわ」


 テロンは静かに佇んでいた。ルシカと目が合うと、優しい光を湛えた青い瞳を細めて、励ますように微笑する。


 ルシカも口元を微笑ませて応え、目的の書物を探すために魔導の力を行使した。


 しばらくして、腕を下ろしたルシカは首を振った。


「ここではないみたい。上の階にあるおじいちゃんの書斎かも」


 そこでふたりは玄関のホールに戻り、階段を使って二階に移動した。


 ルシカは祖父の書斎の扉の前で立ち止まり、深く息を吸いこんだ。そっと扉を開く。


 木枠の窓から差しこむ光は優しく、床には木枠の微細な飾り彫りが、見事な影となって美しく描かれている。奥には、祖父の死とともに機能を停止させた『転移』の魔法陣……。


 それを目にしたルシカの瞳がくらく沈む。部屋の奥に設えられた執務机の手前で立ち止まり、魔導士の少女は立ち尽くした。


 その後ろに続いて部屋に入ったテロンは、その細い肩が震えているのに気づいた。


 彼女の祖父『時空間』の大魔導士ヴァンドーナは、孫娘である彼女の生命をこの世に繋ぎとめるために、そしてテロン自身を含め戦っていた全員を救うために、自らの生命と魔力マナの全てを使い切ったのだ。そうして、二度と帰らぬひととなってしまった……。


 ルシカは顔を上げ、魔導の力で書物を探した。それは確かにこの部屋にあった。


 棚のひとつに歩み寄り、ルシカは目線と同じ高さにあった書物に手を伸ばした。そしてふと手を止める。探していた書物の隣に、明らかに様相が異なる、古びた手帳のようなものが並んでいたのだ。


「――整理好きのおじいちゃんにしては……」


 ルシカは言い掛け、はっと目を見開いた。探していた書物と一緒にその手帳を引っ張り出して、中央の執務机まで戻った。


「……それは?」


 テロンの問いに、ルシカは首を振った。


「わからないわ。けれどこれ……わざとこの書の隣に入れてあった気がして――」


 ルシカは古びた手帳をひっくり返し、裏と表を眺めた。古い革製の、手のひらサイズの手帳だ。何か挟み込んであるようで、紐がかけられていた。


 手もとを覗き込むテロンの前で、ルシカは手帳の紐を解いた。挟まれていたのは色つきの姿絵だ。


 ほっそりした手を前で重ねあわせ、まるで一輪の花のように微笑む女性の立ち姿――やわらかそうな金色の髪が肩をふわりと覆い、身につけた慎ましいドレスを引き立てている。


 華やかというには落ち着いた表情、控えめというにははっきりとした目鼻立ち。印象的なオレンジ色の瞳が、内に秘めた意思の強さと優しさを表しているように微笑んでいた。


「――これは、ルシカ……?」


「……いえ」


 ルシカは呆然と目を見開いたまま、首を横に振った。


「これはあたしじゃない。きっとこのひとが……あたしの祖母であるルレアなんだと思う……」


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