従僕の錫杖 8-21 海の向こうに渦巻くもの
「手近なものに
誰かが必死に叫ぶのが聞こえた。
ザバアァァァンッ!
ひと呼吸もおかぬうちに巨大な波がかたまりとなって一気に船に押し寄せる。
悲鳴、そして無音、轟音――。甲板にいた者は皆、圧倒的な水量で襲いかかった波にさらわれまいと必死に踏ん張った。
クルーガーは剣を板の間に打ち込むようにして波を
「くっ、どうする……!」
奥歯を噛みしめ、自分自身に問うが、すぐに良い考えは浮かばない。
これほどまでに海が荒れ狂ってしまった根源――竜のような頭部を有する怪物。その妖しくも不気味に光る眼球と、かっぱりと開いた剣呑な牙の並ぶ周辺に、凍てつく霧のようなものがきらきらとまとわりついている。
「……奴の息には氷の属性でもありそうだな」
冷たい海水に濡れたからだと思っていたが、体に凍みるような寒さは、奴が現れたからだろうな――クルーガーは確信した。
大気は激しく冷え込み、腕の中のマイナの体も
同じことに気づいたのだろう。リーファの機転で帆柱にロープを結わえて体を固定したティアヌが、手に『
怪物に向けその炎のかたまりを放ったが、その頑丈な体躯の表面をわずかに焦がしただけに終わっていた。
その手前では、どっしりと構えた小竜のプニールが、甲板にへばりつくようにして体を固定している。
マイナはプニールに気づき、クルーガーの腕を抜け出して小竜の背の突起にしがみついた。自分の体を固定して、少女は顔をあげた。
「あのっ、こちらは大丈夫ですから!」
気丈にも叫んだマイナの言葉に頷きを返し、クルーガーは剣の柄を握り直した。
「わかった」
自分だけなら、揺れる甲板上でも真っ直ぐに立っていられる。心を静め、クルーガーは剣に手を添わせた。火の属性を
兵たちのほとんどは、揺れと、あらゆるものを押し流そうとする波の中で、満足に動くこともできないでいた。数名の兵士が剣を抜いて構えているが、怪物が海中から顔を出している位置まで距離が開いているため、斬りかかることができずにいるのだ。
船の中でも一番激しく揺さぶられている舳先の物見台の下では、テロンがルシカに覆い被さるようにして最初の波を耐え抜いていた。
「ケホッ……『
「……魔の海域の海流に狂わされ、南に迷い込んでいたのかもしれないな」
ふたりは互いを支えるように身を起こした。ルシカが自分を波からかばってくれていた腕の主を見上げ、決然と囁く。
「テロン、あたしは平気だから――」
刹那、テロンはルシカを見つめた。無言で頷いて立ち上がり、その全身を『聖光気』の黄金の輝きで包む。そして、激しく揺れる足場をものともせずに走り出した。
無事を祈るようにその背を見送り、ルシカは甲板に片膝と両手をついた。
自らを叱責し鼓舞するように、鋭くつぶやく。
「――さあ、やるわよ!」
目を伏せ、魔法への集中を開始する。瞬時にルシカの周囲に光が
魔導特有の青と緑の輝きが周囲の闇を照らし、船上の広い範囲を光で満たした。灯されていたランタンは、すでに半分以上が波に呑まれて失われている。
にわかに濃くなった魔導の気配に、『
ルシカという存在に気づき、忌々しげに首を振り……氷結した海が鳴る音にも似た軋むような唸り声が、その喉から湧き上がる。首が伸びるように俊敏に動き、波に激しく揺れる船の先端を追って動く。開かれた
「おまえの相手はこっちだッ!」
テロンが叫ぶと同時に、渾身の力を込めた『衝撃波』を放った。
ドゥンッ! 凄まじい衝撃に撃たれ、怪物の顎が仰け反った。バシャアンと後ろに倒れたことで、凄まじい水飛沫が上がる。
だが、すぐに『
グオオォォ!!!
鋭く吼えると体をうねらせ、空中高くに半身を持ち上げた。驚くべきことに、海中に没していた部分から、鋭い爪を持った一対の腕が現れた。
船を掴もうと襲い掛かる爪を、クルーガーの剣が、テロンの拳が、リーファの短剣が迎え撃った。――弾き返し、叩き、振り払う。
兵たちも、出来得る限り剣を振るった。それでも船は少しずつ傷ついていった。しかし砕かれた箇所はない。
「だが、
周囲の状況を把握しているクルーガーが唸った。揺れる船上、凍てつく大気に体力を奪われ、徐々に戦う者たちの動きが鈍くなっている。
だが、健闘している者もいた。
マイナがぎこちない動きではあるが、周囲で戦うものたちに援護の魔導を行使していたのだ。初めの『
敵へ向ける攻撃魔法は、抵抗されれば効果は期待できなくなってしまう。だから、まずは仲間にかける魔法を優先しているのだ。
「いいぞ、マイナ!」
感謝を含んだクルーガーの声に、マイナは胸の内が熱くなるのを感じた。逃げ惑うのみだった自分が初めて役に立っていることを、心の底から嬉しく思ったのだ。
「ルシカの魔法が、もうすぐ完成するはずだ!」
テロンが声を張りあげる。その言葉の三呼吸後に、舳先付近で魔導の輝きが強まった。
「――守護を!
響き渡ったのは力ある言葉。ルシカの『
ルシカを取り巻いていた魔法陣が瞬時に広がり、船を中心に立体的な魔法陣と化して組み上げられた。
そのまばゆい輝きに、クルーガーも仲間たちも、兵たちも、そして敵である『
――船の揺れが消えた。
手すりに駆け寄り海面を覗きこんだクルーガーは、驚きの声をあげた。
「なっ……船を浮かせたのか!」
「長く保ち続けることができないが、こうしないと巻き添えを喰うんだ」
緊迫した声で応えたのはテロンだ。気を抜くな、というように。
ルシカは腕を大きく広げたまま真っ直ぐに立ち、船を包み込んだ魔法陣を維持し続けていた。凄まじい
ウウルゥゥゥゥゥーッ!!
甲高くも怖ろしい音量をもった咆哮が海に
船の前方で、すでに鎖から抜け出していた『
――ドゥンッ!! 双方の巨体が激しくぶつかり合い、海が爆発した。水柱が吹き上がり、海面は大きく割れて巨大な渦を幾つも生じる。
「……凄まじいな」
その様子を目の当たりにした船上の人間たちは、ゾッと身を
人智を遥かに超えた海の魔獣たちの決闘は、想像以上に凄まじいものだった。
「……なんて、すごい……!」
マイナはプニールの背の突起を掴んだまま、目の前の闘いと、後方で術を行使し続ける魔導士とに、驚嘆の視線を向けた。
『万色』の魔導士の力は皆から聞いていた以上に、柔軟で、強大で、常軌を逸した計り知れないものだった。
『
ウルが、勝ったとばかりに顎を反らせた。相手の頭部に喰らいつき一気に勝利を決するつもりで、牙を
「これなら、勝てますね!」
マイナの明るい声に、クルーガーが思わず肩越しに振り返って微笑んだ。
だが、そのとき。
『
「まずいッ!」
そう叫んだときには、クルーガーは甲板を蹴っていた。
『
グアァァァァァッ!
膨れあがる、爆発の寸前にも似た気配。周囲にいた者は皆、
跳躍したクルーガーは、振り上げた魔法剣を一気に突き降ろした。まだ広く開いていた『
――刹那、凄まじい冷気と光が爆発した!
断末魔の破壊球のほとんどが『
「うあああぁッ!」
ルウゥゥゥゥゥー!!
「兄貴ッ!」
「クルーガー!!」
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