従僕の錫杖 8-20 海の向こうに渦巻くもの
最初の一週間はこうして穏やかに過ぎた。
だが、船が大陸の傍を離れ、いよいよ外海へと離れたところから、雲行きが怪しくなってきた。
すでに太陽は進む先から左舷寄りの方向の地平線に沈み、雲に残ったオレンジの光も碧から紺へ、そして漆黒へとみるみるうちに色を変えた。風が強まり、頭上を低く覆いはじめる。
海上で迎える悪天候の夜は、月も星も見えなければ闇に等しい。遠く、燐光を発する何かの海洋生物が横切り、ぼんやりと光るのが、怪しくも美しく、不気味であった。
「左舷、何か見えます!」
見張りについていた兵からの報告を受け、甲板にクルーガー、テロン、ルシカ、そしてマイナが飛び出してきた。
風が吹き
甲板は大きく上下に揺れている。
ルシカは姿勢を低くして転ばぬように気をつけながら甲板を回り、『
船上が明るくなることで敵に狙われる的になる危険もあるが、今宵は光なしには戦えない新月だ。もし仮にたとえ月があっても、厚い雲に阻まれていただろう。
「見えるか、テロン!」
「いや、潜っているようだ」
「……魔獣かもしれないです」
ふたりの隣に駆け寄ったマイナが、緊迫した声を出した。覗き込んだ海面はまるで闇を溶かし込んだように真っ黒だ。
「ルシカさんからいろいろ伝授されました。力の見定め方、扱い方、そして……感じ方を」
高い波に揺れる船から転落しないように手すりを強く握り、マイナは視線を海面に向けた。感じる
「敵意ばかりで神経にビリビリと当たる感じがします……大きなものがひとつ、それから、よくわからないたくさんの気配も同時に感じます。その辺りにいっぱい――」
マイナが指を向けたと同時に、何かが水面を割った。背びれのようだ、と思った瞬間、そいつは一気に跳びあがった。身を乗り出していたマイナが慌てて下がるが、相手のほうが遥かに速い。
「マイナ!!」
クルーガーが魔法剣を抜き放つと同時に振り抜いた。ギィン! という、硬い金属でも打ったような手応えを残し、弾かれたそいつは派手な水飛沫とともに海面に落ちた。
「何だ今のは! 魚かッ?」
剣を手にしたままクルーガーが問うが、答えは聞けなかった。
相手は一体ではない。次々と剣呑そうな背びれが海面に現れていく。波はますます大きく激しくなり、海面はまるでひとつの生き物の表面のように起伏を繰り返している。
「来るぞッ!」
ガツン! テロンが拳を突き出し、跳びあがった巨大な影を押し留めた。ガチガチと鳴る鋭い歯が、白い魚眼とともに宙に一瞬静止する。次に空を切って繰り出された脚がそいつの横っ腹を激しく蹴りつけ、海中に叩き込んだ。
「クッ、鋼みたいに硬いやつだ」
テロンは打った手を振って痛みを払い、『
魚のような魔物は次々と飛んできた。
マイナをかばうように、プニールが後部甲板から踊り出た。マイナの指示を受け、魔竜は鉤爪を武器に怪魚たちを迎撃しはじめた。
船室から上がってきたティアヌとリーファが戦いに加わる。戦況は悪くない。だが……。
怪魚たちは一向に減る気配を見せなかった。主に左舷から次々と襲い掛かってくる。中には甲板を飛び越え、そのまま右舷側へ飛び込むものもいた。水中でも船に体当たりしている魚もいるらしく、嫌な衝撃が響いてくる。
叫び声がいくつかあがり、喰らいつかれて傷を負った兵が甲板に転がった。血の跡が点々と散る。
「
周囲で各々の剣を構えた兵たちにも聞こえるように叫び、灯りをつけ終わったルシカが走り寄ってきた。負傷した兵たちに『
腕を振り上げて魔法陣を展開し、船全体を包む『障壁』の魔法を発動させる。
ヴィイィッ! 高音域へとせりあがるような音が一瞬周囲を圧し、金色に輝く魔文字の羅列のようなものが空中に張り巡らされ、船を覆い尽くした。
水中から飛び上がる魚たちの突撃、そして船体に体当たりしていた音が途絶える。展開された『障壁』が物理的な攻撃を阻んでいるのだ。
だが、魚たちは突撃を次々と繰り出してくる。
『障壁』に
裂け目から飛び込んできた怪魚に、ルシカが『
「うッ……数が多すぎっ」
軽く舌打ちをして、ルシカはすぐに腕を振り上げた。次に輝いたのは守護の魔導の、白の輝きだ。甲板で戦う仲間たちと兵たち全てに白い光の粉が降りかかり、全員の動きが軽く、速くなる。
「ねぇ、テロン、何かおかしいわ。魚たち、主に一方向から襲っていると思わない?」
「ああ、左舷側からばかりだ」
「何か理由があるのかしら……。魔の海域から迷ってきたにしてはおかしいわ」
ウルゥゥゥゥゥゥゥッ!!
そのとき、船の前方から鋭い声があがった。警告するような鳴き声だ。
「ウルだわ」
その声に反応したルシカが甲板を走り、舳先へ向かう。
「ルシカ、気をつけるんだ!」
さらに襲いかかってきた一匹を海面に叩き落し、テロンはルシカの背を追った。激しくアップ、ダウンを繰り返す床は、戦う者たちの体をふわりと空中に突き上げたかと思うと、次に甲板に叩き付けようとでもいうように迫ってくる。
「……揺れが激しくなっている。――マイナ!?」
クルーガーが海に放り出されかけたマイナに気づき、腕を伸ばしてその体を抱き寄せた。その隙に飛び掛ってきた怪魚を、プニールの鉤爪が硬鱗をものともせずに切り裂く。
「海に放り出されないように気をつけろ!」
周囲の兵に届くよう、声を張りあげる。船の揺れは激しくなっていくばかりだ。
ふいに腕の中のマイナが顔を上げた。微かに身じろぎし、左舷の沖を見つめる。
「すぐそこまで近づいている……!」
「――ウル!」
ルシカは両手をついて物見台に登っていた。木枠を掴んで立ち上がる。その危なっかしい姿勢の背中に、怪魚が迫る――。
「ルシカ!」
追いついたテロンが『聖光気』を
どうした、とは訊かない。ルシカはやるべきことを解っているし、テロンも同じだ。
テロンはルシカの体を支えた。前方の暗い海面から小山のように突き出した、巨大な『
旋律のような響きのある言葉がルシカの唇から紡ぎだされ、呼応するようにウルから不可思議な音が返された。途端に、ルシカの顔色が変わる。
「――テロン、大変だわ。この魚たちは追われて逃げているんだって。その捕食者が、すぐ傍まで来たって!」
ウルルゥゥゥゥルル!
「あたしたち、もう気づかれてる!」
甲高いウルの声は、はっきりと警告だとわかる。蒼白になったルシカを抱きかかえるようにして、テロンは段の下に飛び降りた。
グオオォォォォォォッ!!
凄まじい咆哮が海を、空気を激しく揺るがした。大きくうねる暗闇を割り、ザアアアアッと塔のようなものが海面から現れる。
それは生き物だった。ウルと同程度の巨大な体躯を持つ、海の怪物だ。
てらてらと、ぬるぬると光る滑らかな皮膚の上を、海水が滝のように流れ落ちる。ぎらり、と闇の中で光る銀の眼球が、ぎょろりと目の前に浮かぶ船に向けられた。
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