従僕の錫杖 8-18 海の向こうに渦巻くもの

 ウルはルシカに鼻先を撫でられ、気持ち良さそうに長い胴体をくねらせた。そうして事情を説明されたらしい。


 高位魔獣は知能が高く、ひとと交流するものは人語を解すと伝えられている。ウルは頷くように巨大な頭を縦に振ると、おとなしく船と繋がっている鎖に自らの胴をくぐらせ、ゆったりときはじめた。


 帆を上げていないのに、一行の乗り込んだ帆船は颯爽と港を離れ、海原を滑るように進みはじめたのである。


 だが出航したばかりの船に、何やらずんぐりした物体が、まるでまろぶように必死にヨロヨロと、宙を羽ばたき飛んでくるのが見えた。


 それに最初に気づいたのは、こっそりとしっかりと船に乗り込んでいた、剣を帯び軽鎧に外套マントを纏った剣士――クルーガーだった。


「おい、何か飛んでくるぞ」


 箱の陰から立ち上がったクルーガーは、まるで最初からずっとそこに居たみたいに自然な声をあげ、その物体を指差した。額に手のひらを添え、もっとよく見ようと伸び上がる。その場違いなくらいにのんびりとした声に、あっと叫んで反応したのはマイナだった。


 クルーガーは振り返り、指差していたほうの腕を戻して親指を立て、何事もなかったかのように歯を見せて笑った。


「ようっ。ちゃんと乗ってたぜ」


「え、えっ? よ、ようっ、て……」


 マイナはあまりの驚きにポカンとしたが、クルーガーがちゃんと船に乗り込んでいたことに安堵してホッと息を吐いた。


 甲板で動いていた男たちは黙々と作業を続けている。テロンとルシカは、設計者であるグリマイフロウ老と共に、左舷のほうの金具の具合を確認していた。


「ん? 何が飛んでくるって?」


 クルーガーの声に振り返り、トタトタと甲板を走ってきたルシカは甲板の手摺りから身を乗り出すようにして、その影に目をすがめた。


「うぅーん、あれは『小竜スモールドラゴン』の亜種かなぁ。こっちに近づいてくるみたい」


「――えっ。まさか」


 ルシカの言葉の途中でハッと思い出したように、マイナが反応した。手すりに駆け寄り、同じように伸びあがって紅玉髄カーネリアン色の瞳を細める。


 影はみるみる大きくなり、ずんぐりした胴体に幅広の翼、手足には鋭い爪が生えている小型のドラゴン然とした姿が判別できるくらいになった。


 マイナ自身と変わらない大きさだ。色は青竹色ジュエルグリーンをしており、黒く大きな瞳が実に可愛らしい。翼はあるが見るからに陸上の生き物で、長時間空を飛べる体型ではなかった。本来なら、こんな海上に飛んでくるような魔獣ではないはずである。


「あ、あなた、もしかしてあのときの――?」


 マイナがその『小竜スモールドラゴン』に声を掛けた。


 クルゥエエエェェェー!!


 聞きようによっては、なんとも嬉しそうに思える声で魔獣がいた。


「え、何っ!? 魔物の襲撃なの?」


 甲板下の厨房や船室、倉庫をチェックしに降りていたリーファとティアヌが飛び出してきた。リーファは腰の後ろに手を回し、短剣の柄を握っている。


「ちっ、違います! あの子は――あの子がわたしをマイナムから王都まで運んでくれたんですっ!」


 もうすぐそこまで迫っている魔獣をかばうにして飛び出したマイナに、集まった全員が目を丸くした。


「なんだって? ――うわッ!」


 剣の柄にかけていた手を離したクルーガーの上に、船までやっとのことでたどり着いた様子の魔獣がとうとう力尽き、ドサリと落ちたのだ。マイナが慌てて駆け寄る。


「だ、大丈夫ですかっ!?」


「クルーガー!」


「兄貴!」


 ひと騒動あったが、『小竜スモールドラゴン』に敵意のないことをテロンとルシカが確認して、とにもかくにもマイナから事情を聞けるほどに落ち着いたのであった。


「――あの夜、わたしは父の最期を看取みとったあと、相手が引き連れていた魔物に追い詰められたんです」


 マイナは、襲撃の夜のことを語りはじめた。


「隠れていた場所を見つけられ、魔獣の一体が目の前に立ってました。牙を剥き出して爪を振り上げられ、わたしも引き裂かれて死ぬんだろうと――そう思ったのです」


 絶望的な状況、ただ狩られるだけの獲物……その恐怖を思い出し、話しながらも震えるマイナの肩に、クルーガーがそっと手を掛けた。


 その手の温かさに励まされたように、マイナは続けた。


「わたし、その時――父の言葉を思い出しました。まだ、死ぬわけにはいかないって。それで相手の魔獣の目を見たんです。そうしたら、何だか恐怖が消えて、相手の目も、不思議と落ち着いたような光に変わって……そのとき、燃えていた梁がとうとう落ちて、下敷きになったのかと思いました」


 マイナは顎を上げ、目の前に立つ魔物を見つめた。くぅ、とまるで甘えるように『小竜スモールドラゴン』が鼻を鳴らした。


「気がついたときには、この子の背中に乗せてもらっていました。時々意識を失いながら運ばれていたみたいで、夜が明けたときには、もう朝靄の向こうに王都が見えていました」


「――なるほど。それで、数日はかかる行程を、たった一夜で越えてきたのか」


 クルーガーが、テロンが、納得したように深く頷いた。


「もうひとつわかったわ」


 ルシカが静かな声で言った。


「マイナ、あなたの魔導の力のは『使魔』だわ。つまり、あなたは魔獣使いなのよ。おそらく代々継いでいる魔導の力だと思う」


「わたしが……魔獣使いの魔導士……?」


 マイナはぼぅっとしたままつぶやき、そして目をぱちぱちと瞬かせた。思わず、傍らに立ったクルーガーを見上げる。


「魔導士の気配がしたのは、その為なのか」


 クルーガーが言って、不安そうなマイナを力づけるように口元を微笑ませた。


「きっと、『従僕の錫杖』の力の影響もあるのね。あなたのお母さんも、『使魔』の魔導士だったはずよ――海に落ちても海流に逆らって目指す地へたどり着くことができたのも、その力があったからだわ」


 ウルゥゥゥウルル。


 ルシカの言葉に同意するように、ウルの声が響き渡った。


「そのドラゴンの名前は何ていうんだい?」


 テロンがマイナに問いかけた。


 マイナはおとなしく立っている魔獣の黒い瞳を見つめ、にっこり笑ってその胴を撫でながら言った。


「あなたは、プニールね。わたしを王都まで運んでくれてありがとう。ここまで追いかけてくれたんだもの。一緒に行きますか?」


 クルゥエエェェー!


 魔獣は嬉しそうに長くえ、応えた。


「いやはや、何とも賑やかな船旅になりそうじゃの」


 グリマイフロウ老は顎に生えた髭をしごきながら、興味深そうにその光景を眺めていた。その表情は、この上もなく楽しそうだった。


 船は速やかに進み、三角江エスチュアリーを抜け出て外洋に出た。風が変わり、内陸から吹いていたあたたかいものから、少々冷たい空気を孕んで東から西へと吹くものになった。


 だが、すぐに海流も風も正反対のそれに変わるはずだ。


 ルシカが、ウルと意思の疎通をして彼に進むべきルートを伝えた。舳先の見張り台から戻ろうとしたとき、数段しかないきざはしを踏み外し、ガクリと倒れ掛ける。


 だが、ルシカの顔色で体調を案じていたテロンが素早く駆け寄っていたおかげで、怪我をせずに済んだ。


「ここのところずっと、祭りの前から徹夜状態だったものな。これから船の上だし、ゆっくりと眠って欲しいが……」


「うん。そうするわ、テロン」


 ルシカは素直に頷いて、心配そうな夫に微笑んでみせた。


「ウルが一緒にいる限り、海洋に生息する魔物もおいそれと手が出せないだろうし。ちょっと休んできます。みんなごめんね」


 だが、久しく船に乗ることのなかったルシカが、ただひとつ忘れていたことがあったのである。


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