従僕の錫杖 8-8 受け継がれしもの

 本来、暗く静かな住宅街の一角だった路地は今、見る影もなくなっていた。


「――あぐ……うッ」


 マイナの喉を、男がぎりぎりと締め上げていた。爆風に吹き飛ばされたとき、空中で男に掴まれたのだ。


 半ば崩れかけた壁に押しつけられ、マイナは呻き声をあげた。呼吸もままならず、すすべもなく――マイナの手が、金属の硬度を持つ皮膚に覆われた男の腕をむなしく引っ掻いている。


 路地の両サイドに続く石造りの建物は、先ほどの衝撃にボロボロと崩れ、窓に並んでいた鉢植えは落ちて石畳の上で砕け散っていた。洗濯物を干すために渡されていた紐はぶちぶちと千切れ、地面まで垂れ下がっている。


 衝撃が発した中心付近の石畳は、まるで巨人がこぶしを打ちつけたように丸くへこみ、無残にひび割れていた。


 周囲のものより頑丈に建てられた真新しい壁のみが、完全に崩れ落ちることなく残っている。


 その壁に、逃れることもできず足掻くことすらできないまま、まるでピンで留めつけられた標本の蝶のように、少女の体が押しつけられているのだった。


「……今こそ、我らが捜し求める品を……」


 少女の喉をギリギリと締め上げながら、銀の髪の異形は高ぶる期待に目を見開き、ニンマリとわらった。


 男の手がゆっくりとマイナの胸に伸ばされ、心臓の上あたりの位置で止まる。その手のひらが、ぼぅっとした青白い輝きを放ちはじめた。


 呼応するように少女の心臓あたりの胸全体も輝きだした。闇に沈みゆくなかで、その光景は異様ではあるが煌々と光に満ちた奇跡の一場面のようでもあった。


 青白く輝く魔法陣が展開された。少女と男を包み込み、周囲を圧倒するほどの力場が生じる。





 クルーガーは爆風に吹き飛ばされていた。


 民家の屋根の上に落ち、転がりながらも手を伸ばして縁を掴んで落下をこらえたクルーガーは、青白い光に驚き目を見張った。


「――な、なんだ?」


 目をすがめ、眼下で展開される魔法陣の輝きを見つめる。


「封印……解除の魔法陣、か……?」


 マイナの表情が苦痛に歪むのに気づき、クルーガーは奥歯を噛みしめた。


 素早く周囲に視線を走らせ、足場になりそうな出窓やひさし、そして真下にある公共水道の台座などの位置を確認する。


 壁を蹴って跳べば届きそうだ――。


 クルーガーは落下したときにも手離さなかった剣を一旦鞘に収め、空中に跳び出した。





「……う……く……あぁッ……!!」


 マイナは、あまりの苦しさに可能な限り身をよじり、絶叫したつもりであった。だが、喉から出るのはかすれた声がわずかばかり。――呼吸がほとんど止められているのだ。


 自分の体の中心が凄まじい熱を放っているのではないかとマイナは思った。心臓が、まるで燃え尽き消し炭になるのではと思うほどにカッと熱くなっている。


 ……誰か、助けて……、おとうさん……おかあさん。


 声にならない呼び掛けが、心の中で幾たびも繰り返された。そのまぶたの裏に、幼い頃に亡くした母の顔がぼんやりと浮かび上がっていた。


 あまりに昔過ぎて幼すぎて、マイナははっきりとは覚えていなかった。だが父が部屋に飾ってくれた絵姿で容姿は知っていた。夜空のように星を宿し流れる漆黒の髪、マイナと同じ紅い瞳をした、とても美しい女性だ。


 よく笑う優しいひとだった――そう父は娘に何度も話して聞かせてくれたのだ。


 歌がとても上手で、村の外れにある海の見える丘の岩のところで、遠い故郷を想いながらよく歌っていたのだと。マイナが生まれたあとには、子守唄を穏やかな旋律で歌っていたのだよ、と。


 ――ズキン!!


 ひときわ凄まじい痛みが全身を駆け抜けた。たましいがばらばらになってしまうと思えるほどに。


「……よせえぇぇぇ!!」


 マイナには聞き覚えのない、見知らぬ声が絶叫するのが、耳に届いた。


「――めろ、止めるんだッ、ルシファー! そのままでは死んでしまう……!」


 マイナの目の前は、まるで白熱したかのように真っ白で何も見えず、誰が叫んだのか判別できない。ただ、ずっと自分を助けようとしてくれている男性とは違う声なのはわかった。距離は少し離れているようだ。


「……カーウェン……何故める!」


「わからないのかッ? その方法では無理だ……このまま続けると命そのものが引き裂かれてしまう!」


「……だれ……?」


 かすれた声がマイナの喉から滑り出て、声を発した本人が驚く。締め上げていた腕の力が緩んでいたのだ。遠退とおのきかける意識の中で、何者かが目の前の男にぶつかってゆく気配があった。


 ガツッ! という音に続き、フッと何の前触れもなく突然マイナの体は完全に解放された。


 一階分の高さから落下するところを抱きとめられ、無事に地面に降ろされたことを感じてマイナは目を開いた。間近にある青い瞳が油断なく前方を見据えているのが少女の瞳に鮮やかに映る。


 その青い瞳がちらりと少女の顔に向けられ、その無事を確認する。真一文字になっていた口元が僅かに緩む。


「――大丈夫かい?」


 低く心地よい、涼やかな声で相手が訊いた。それは王宮の前で出逢ってからずっと少女を護り続けている男性だった。


 端正な顔立ちだが、決して冷たくはない、むしろ愛嬌めいてほんの少しだけふざけたような表情を作っている。凛々しくも優しい性根を語る真っ直ぐなまなざし。長い金髪が、まるで王族が身につけるマントのようにその背を覆っていた。


 対峙している相手を睨みつける、どこまでも澄んだ夏空色の瞳。頼りがいのありそうなはがねのしなやかさを持つ体躯たいく。そしてその口もとは――。


 マイナは胸をかれ、思わずつぶやいた。


「……おとうさんに、似てる……」





 ――それは、クルーガーだった。


 壁を蹴り、ひさしを掴み、脚をバネのようにして全身で受身を取りつつクルーガーが地面に降りたとき、悲鳴じみた別の男の声があがったのだ。


 その制止の声を聞いた異形の男の表情が驚愕に歪み、少女を締め上げる力が緩んだ。同時に、少女に何らかの魔法を行使していた力場が消失したのである。


 その隙に相手に体当たりを喰らわせ、クルーガーは少女を取り返すことができた。


「……この女性に手出しはさせない」


 少女を腕の中に支えたまま再び剣を抜き、クルーガーは殺気を込めた眼差しを相手に向けた。


 先ほど少女に向けた魔法で膨大な魔力マナを消費してしまったのか、相手は憔悴しきった様子だった。かなり離れたところまで吹き飛んだあとに起き上がっていたが、ぐらり、ぐらりと体がかしいでいる。


 そのふらつく異形の影のすぐ隣に、新たに人影が生じる。暗闇に紛れて、黒衣の男が近づいていたのだ。


 ――そのとき、さらに新たな気配が増えた。


「兄貴!」


「クルーガー!」


 耳に馴染んでいる頼もしいふたつの声が、クルーガーの背後から聞こえた。顔を向けなくてもクルーガーにはわかる。テロンとルシカだ。


「ルシファー……一旦、機関に戻るのだ」


「だが、目の前に……! またみすみすのがすのかッ」


 異形の姿のほうが悔しそうに叫び、鋭く舌打ちを響かせた。黒髪のほうは一歩下がり、堂々と顎を上げて言った。


「――またまみえることになろう」


「させないッ!」


 逃亡の気配を感じ、ルシカが腕を突き出した。瞬時に展開された魔法陣が、相手の足元を絡め捕らえる。――が、黒髪の男が同時に展開した魔法陣が広がり、ふたりの姿を掻き消してしまった。


 何処かへ転移したのだ。


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