従僕の錫杖 8-7 受け継がれしもの

 全力で駆け続けていたので、心臓がドキドキばくばくと太鼓のように鳴り乱れ、吐き気がこみあげた。しかも、喉に入る空気が冷たくて苦しい。


 マイナは走りながら痛む喉を押さえ、喘ぐように呼吸を繰り返していた。太陽が傾くにつれ、空気がひんやりしたものに変わったのだ。時間など、すでにわからなくなっている。追い掛けてくる男から逃げることで精一杯だった。


「あっ!」


 マイナは小さな段差につまずき、つんのめるように地面に倒れ伏した。脚はすでに膝がガクガクとわらっている状態だ。無理もない、ずっと走り続けているのだから。


 迷い込んだのは石造りの緩やかな坂、小さな路地だ。近所に住まう人たちが、近道に使うような。


「……はぁ……はぁ……」


 マイナはごくりと喉を鳴らし、気配を感じて弾かれたように後ろを振り返った。その喉が引きつるように「ヒッ」と短く悲鳴をあげる。


 まるで幽鬼のように、銀と黒に染められた影が立っているのが、その目に映った。


 男の、衣服をはだけた胸には赤く光る禍々しい魔法の紋様――残虐で非道だがあくまで人間だと思っていたけれど、そのしるしから禍々しい気配が解放されてから、全く異質な『何か』に変貌している。


 男はマイナをじっと見据え、そのまま目を逸らすことなく突っ込んできた。掲げた腕がまるで鉤爪のように変化して、怯えて目を見開いたままの少女の心臓に向けて突き出される。


「いやぁっ!」


 マイナは悲鳴をあげた。


 その瞬間、男とマイナの間に飛び込んだ者がいた。クルーガーだ。


 魔法の輝きを帯びた長剣がひらめき、鉤爪を弾いて相手を後ろに押し戻ノックバックした。体重をかけた重い一撃だ。


「――無事か?」


 クルーガーは相手を牽制しながら、背後の少女に問いかけた。


「あなたは」


 口を開いたマイナだったが、呼吸がなかなか整わないままだ。


「ちょっと訊くが、こいつは知り合いなのか?」


 クルーガーの問いに、少女が何かが喉に引っかかったように短く叫んだ。


「おとうさんのかたきよ!」


 悲痛な声と言葉を聞いた瞬間、クルーガーの表情が変わった。


「――なら遠慮は要らないな!」


 踏み込むと同時に、剣を突き上げ、ギィンと音を立てて相手の鉤爪を弾く。むろん、それでひるむ相手ではない。


 常人の目には留まらないほどの速さで繰り出された腕をかいくぐり、あるいは剣で軌道を逸らしながら、クルーガーは相手を少しずつ少女から遠ざけるよう巧みに動いた。


 十分に離れたことを確認し、クルーガーは一旦剣を引いた。まるで突撃する前の騎士のように真っ直ぐに剣を立て、目の前に掲げる。


「貴様、何故邪魔をするのだ」


 銀の髪と人の肌をかぶった異形のモノが、喉から異質な音を立てて訊いてきた。


「か弱い女性を助けようとするのは、男として至極当たり前だと思うがね」


 青い瞳は笑わせることなく、クルーガーは口元だけニヤリと微笑ませた。


「そう問うおまえはどうなのだ。何故に、この女性を狙う。相手には武器もないぞ。あまりに卑怯だとは思わないのか?」


 クルーガーは剣に手を沿わせ、唇をかすかに開いた。自分の耳にすら聞こえるか聞こえないかぎりぎりの声で、詠唱を試みる。


「――その娘が、我々の捜しているものを受け継いでいるのだ。それが手に入れば娘に用はない……」


「そんなっ。わたし、何も持ってないわ!」


 マイナが叫ぶように応えた。男の視線がちらりと少女に向けられる。


「黙って私に身を任せれば、すぐに終わる、楽になる。だが無駄に抵抗をすれば――痛みを感じ苦しむことになる」


 クルーガーはクルリと回転させるように手首を回し、流れるような動きで体の正面に剣を構えた。相手の隙を誘うように、からかうように言葉を発する。


「なんか、ものすごくいやらしい響きに聞こえるんだが――気のせいかな?」


「ハッ……俗物が!」


 怪物は地を蹴り、信じられない速さで間合いを詰めてきた。


 クルーガーは魔法剣を頭上に掲げ、全身をバネのようにして上から振り下ろされた相手の両腕を受け止める。


 ガツッ! という鼓膜に響く音と同時に、ゴオオォォッと凄まじい烈風が吹き上がる。剣に風の属性を付与していたのだ。


 相手のゴツゴツと化け物じみたからだ躯が石畳から離れ、宙を舞った。その表情が驚きに歪む。


「な、なんだ――!?」


 キリキリと空中で独楽こまのように激しく回転した相手は、壁と地面に激しく叩きつけられた。その全身が風に生じた真空の刃に切り裂かれ、あけに染まっている。


 相手は起き上がり、顔をあげた。瞳の周囲に赤い血管が走っている。悪鬼のような表情になった男が、血を吐くように叫んだ。


「我の邪魔を……するなぁぁぁぁああ!!!」


 刹那、空間が歪み、きしんだ。


 クルーガーが地面を蹴り、空中高く跳ぶ。危ういところで亀裂のはしった空間を逃れ、ほっとしたのも一瞬のみ。


 直前まで立っていた地面とその空間が、同時に爆発した。空中にいたクルーガー、そして離れていた少女までが衝撃に薙ぎ払われる――。





 ズウゥゥンッ!!


 壁上の通路で男を挟み、対峙していたテロンとルシカは、ハッと緊張した。


 都市を囲む外壁からほど近い場所で爆発があり、土くれや石の破片が空中に巻き上げられたのだ。火による爆発ではない。足元までグラグラと衝撃が伝わってきた。


 爆音が響いたその瞬間、男がにやりとわらった。無事なほうの腕の指先をパチリと鳴らし、『真言語トゥルーワーズ』を声高に叫ぶ。


「点火!」


 ――声と同時にテロンが動き、ルシカが動いた。


 ルシカが立っていたのは、弧のラインを描く壁上に花火が並べられていた真ん中だ。そして、行使する魔導の力の効果範囲に全ての花火と火薬が入る真の中心――空中に、その身を投じたのである。


 極限まで高められていたルシカの魔導の力が、瞬時に解き放たれる。


「――なっ!?」


 男が目を見張った。空中に飛び出した魔導士が、空を抱きしめんとするかのように素早く両腕を広げた瞬間を、その瞳に焼き付けた。


 まばゆい光が炸裂する――緑と青の光がはしると同時に、積み上げられていた花火と火薬がひとつ残らず空中高く跳ね上げられた。


 ドオォォォォォオオン!!!


 一斉に、大輪の可憐な花が幾重にも咲き誇るがごとく、花火が爆発した。瞬時に空中高く放たれ、本来計画されたより僅かに低いほどの位置で。


「なんという……!」


 常軌を逸した速度と数の『遠隔操作テレキネシス』だ。男は絶句し、むしろ感嘆するような眼差しを『万色』の魔導士に向けた。


 王都にいた人々は突然の大音響と、空中をビリビリと伝わってきた振動に驚き、空中を振り仰いだ。……そして、空いっぱいに広がった艶やかで豪華絢爛なその数瞬の夢の光景に心奪われ、誰もがほうっとため息をついて眺めたのである。


 ルシカは空に広がった光景を目にして微笑み、そのまま意識を失った。――先に地面に降り立っていたテロンが腕を広げ、ルシカの体を包み込むようにしっかりと受けとめる。


「いつもながらに無茶するよ、ルシカ」


 そう語りかけて微笑みながら、テロンは愛おしそうにそのまぶたにくちづけした。


 目を上げて壁上に目をやると、そこに男の姿はなかった。だが、相手の思惑はくじくことができた。


「狙っていた爆発騒ぎは陽動……か。あの男が語っていた目的を遂げるためと、逃亡を容易にするための計画だったのだろうな」


 テロンはつぶやき、決然と顔をあげた。


 周囲に駆け集まってきた兵士たちに指示するための声を張り上げながら、テロンはルシカを抱いてその場から離れた。


 彼らの狙う、もうひとつの目的を阻止するために。


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