歴史の宝珠 7-24 タラティオヌの飛翔王

「ったく、老院を説得するのに時間がかかっちゃったわ。人にばっかり面倒を押し付けて」


 ルエインが愚痴をぶつぶつとつぶやいている。彼女は不平そうに口元を歪めていたが、確かな足どりで廊下を進み、広いバルコニーへ出た。


 彼女はそこにいた五人ほどの敵兵を、即座に行使した攻撃魔法で打ち倒した。死んではいない。体の自由と意識を奪われて昏倒したようだ。


 リューナは夜空を見上げた。


 上空では、目の前に現れた飛翔王の姿に驚いたザルバスが、数十個目の魔法陣を具現化させた姿勢のままで硬直していた。


 彼は少年王の憤怒の表情を一度も見たことがなかったのだ。赤い瞳が燃え上がり、怒りが大き過ぎるゆえに極限まで強められた魔力が身の内より発散されて、王者の風格を身に纏わせている。気圧けおされたように、ザルバスの手の先に広がっていた魔法陣が音を立てて消失する。


「このような暴力行為……今すぐ止めろ!!」


 噛みしめた奥歯から唸るように声をあげ、ディアンは背すじを伸ばして翼を羽ばたかせた。上空にあった兵士たちをぐるりと睥睨へいげいする。少年のものとは思えないほどの、よく通る声だ。


「不意打ちのように都市を襲う卑劣な行為、ひとりに多勢で襲い掛かる愚劣な姿勢……。どれをとっても、勇ましく誇り高い飛翔族の戦士のやることとは思えない。――ここにいる全ての我が兵よ、恥を知れ! いますぐに退くのだ!」


 ディアンの言葉に、攻撃を続けていたタラティオヌの直属兵たちの動きが止まる。


「……ふむ。良い意味で予想を裏切られますね」


 ハイラプラスは魔導の光をまとったまま空中で静止した。その顔に一瞬、微笑みのようなものが浮かぶ。


 ザルバスとディアンは向き合った。


「ザルバス。あなたは一体何をやっているんだ。父に忠誠を誓ったはずのあなたが、何故父の言葉を裏切る。他の自治都市への侵攻は禁じているはずだ」


「形だけの統治体制などもはや意味を成さぬ。これから世界そのものが破壊され、再構成されるのだから」


「なに……? どういう意味なんだ」


 ザルバスは答えなかった。口元を歪め、伸ばした腕をディアンに向ける。


「そなたのお父上は、時世を選べたなら賢王として崇められたのだろうが、この腐った王国ではただの飾り物でしかなかった。そして今、必要なのは飾り物ではない」


 その手に、赤い光が閃いた。


「――そなたもそうだ!」


「なッ!?」


 赤い光は剣呑な輝きを帯び、一瞬で魔法陣を描いた。撃ち出される魔法は、しかしその前に飛び出してきた影に阻まれた。リューナが、右手に作り上げた傘のようなもので魔法を受け止めたのだ。


 ズドンッ! 腹の底に響くような凄まじい衝撃が吹き荒れ、ザルバスとリューナは正反対の方向に弾き飛ばされた。


 だが、リューナの体はディアンにぶつかる前にその目の前で停止し、すぐに体勢を立て直した。


「ディアン!」


 リューナは振り返り、戸惑う友人の片腕を掴んだ。


「リューナ! 一体何を――」


 ディアンは身をよじったが、リューナの真剣な眼差しに気づいて抗うのを止めた。彼の行動に何か理由があると感じたのだ。


「さあ、行きますよ」


 いつの間にか傍に来ていたハイラプラスとともに、三人はルエインとトルテの待つバルコニーへ降り立った。


 リューナを魔導の力で空中に飛ばしていたトルテが、腕を下ろしてホッと息をつく。


 三人が合流すると同時に、ルエインは空中に腕を滑らせるように動かして軽くステップを踏んだ。五人を囲むように、床に魔法陣が展開される。


「む!」


 背後の部下に衝突し、ふらついていたザルバスがその魔導の光に気づくが、もはやどうすることもできなかった。魔法陣の光に照らされたハイラプラスの顔を睨みつけると、相手のハイラプラスもザルバスを見返した。鋭い目でザルバスを見上げつつ、口元に微笑を浮かべている。


「クソッ!」


 五人の姿が魔導の光とともに掻き消えた。――これで、ミドガルズオルムの王宮を襲う口実が無くなってしまったのは、彼にもわかった。


 ザルバスは手を乱暴に振り、兵士たちに撤退の命令を下した。





 その光景を見ていた者がいた。


 上空、ザルバスの背後だ。実は、ハイラプラスが真に見上げていた視線の先である。


 飛翔族の実権を握る、黒幕とも呼ばれるべき彼は、満足そうににんまりと笑った。全てが彼の思惑通りだからだ。ハイラプラスの行動も彼の想定内である。


 想定外だったのは、あのふたりの存在だけ――黒髪の少年と、金色の髪の少女。見たこともない魔力マナの流れを体の内に持つふたり。


「……さて、ザルバスには矢面に立っててもらおう」


 ミドガルズオルムの老院は、明日タラティオヌへの遺憾の意を伝えてくるのだろう。攻撃されたから王の身の安全を確保するため避難させたのだ、と続くはず。王は誘拐されたのではなく、歓待されていたのだから、ミドガルズオルムの言い分のほうが通されるはず。


 ザルバス単独の謀反によってディアン陛下の命を狙ったという結論になり、今すぐには全面戦争にはなるまい。老院はどこも保守的で平和主義――事なかれ主義なのだから。


 彼にとっては、たとえ全面戦争になっても最終的に行き着く結果にたいした違いはないし、むしろ楽しみが増えるところだったのだが。


 とりあえず――邪魔な存在はミッドファルースから出て行ったのだ。それが彼の狙いだから、彼は満足だった。


 彼は『遠視マジックアイ』の魔導の技を行使していた右目を手で覆った。緑の光が闇の中に消える。次に手を離したときには、元の色――夜空にあってもなお明るいオレンジ色に戻っていた。左右で瞳の色が違っている。


 闇色の髪と漆黒の外套マントひるがえし、黒い翼を羽ばたかせて彼はその場を去った。


 己が目的のために、これから、彼には向かわねばならぬ場所があるのだ――。


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