破滅の剣 5-33 呪われし地へ

 どことも知れぬ深い闇。或いは、光が反転した影の世界であったかもしれない。


 リーファは、かすかな意識の中で、ぼんやりと考えていた。


(ここ……どこ……?)


 自分がどんな状態なのかも判然としない。まるで、ピントの合わない望遠鏡を覗きこんでいるかのようだ。意識をはっきりさせようと、リーファの自我は無駄なあがきを続けていた。


 どのくらい経ったのか、ふいに目の前に、何かが現れた。目の前に、とは言っても実際に視覚で捉えているのかさえもわからなかった。ひとの形に似てはいるが決してひとではないもの。


 それは大きかった。自分の存在も実感できぬ状況では測りようがなかったが、圧し掛かられれば潰されてしまいそうなほどの、圧倒的な存在感があったのだ。


 耳にしたことのある声が、怨嗟えんさのように低く響いてきた。まるで詠唱しているかのようだが、ここではない場所から発せられているかのように遠い。どこか別の場所があるのか――といぶかしく思いながらも、周囲を見回すことができない。


 体は動かせず、魅入られたように目の前の影から意識を逸らすことができなかったのだ。まるで人智を超越したかのような圧倒的な気配。リーファはふいに、目の前に佇むその正体に気づいた。


 それは『虚』であり、『無』であった。


 あらゆるものに絶望し何も希望が残されておらず、何もかも終わりにしたい――そんなときに心の奥底から沸き上がるように現れるもの、虚無。大切な者を目の前で奪われたリーファにも覚えはあった。その安寧にも似た完全なる破滅を、誘惑を、感じたことがなかったわけではない。


(とうさま、かあさま……。そうだった。わたしは仇を討とうとして……)


 リーファはこぶしを握りしめた。あふれてきた涙を払おうとしてまばたきをし、唇を噛んで痛みを知覚する。


 感覚と自我を取り戻しかけた少女に向け、目の前の影から、たくさんの腕のようなものが伸びてきた。ざわざわと揺らぎながら、彼女に狙いを定めたかのように執拗に。


(うわっ)


 リーファはのがれようともがいた。だが地面があるのかすら不確定な空間、ねっとりとした時のなかで思うように移動すらできない。あっという間に絡めとられ、その無数の腕のおぞましい感覚に堪えきれず、リーファは悲鳴をあげた。


(いやだっ! 助けて……誰か!)


 ――誰か。


 いったい誰が自分を助けてくれるのだろう。ほとんどの時間をたったひとりで過ごしてきたというのに。


 だが、リーファの頭のなかに浮かんできた人物がいた。薄青色の髪と瞳の、温かく微笑むエルフ族の青年だ。そして、自分を当たり前のように受け入れてくれた、双子の王子や傷を癒してくれた魔導士という仲間たち……。


(ティアヌ……ティアヌ!)


 リーファは繰り返し、青年の名前を呼んだ。容赦なく、黒い無数の腕は少女の肢体を覆い尽くしてゆく。


 圧倒的な存在に呑まれながらも少女は必死に抵抗し、活路を見いだそうとして視線を動かし、ふと影の中を覗き込んでしまった。


 そこには何も無かった。自分の生きる意味も、世界の在る意味も無い。何も、無いのだ……リーファは絶叫した。


(『始原の無』になんか帰りたくない!)





「……リーファ」


 ティアヌは、ふと空を仰ぎ見た。呼ばれたような気がしたのだ。


 だが、彼女はここに居ない。耳のよいティアヌといえ、まだ遠いはずの目指す場所から実際に声が届いたとは思えなかった。


 『はぐれ島』に入ってからは高低差の激しい場所を移動してばかりの行程であり、あまりに苦しく単調なので様々な思いや記憶が頭に浮かんでくる。ティアヌはずっと、連れ去られた少女の面影を追っていたのだ。


 ルシカの意識は戻っておらず、テロンが抱き上げて移動していた。テロンの筋力に、ルシカの体重は苦にならなかった。彼の背には『万色の杖』が荷物とともにくくりつけられている。


 クルーガーは先頭を進み、移動できるルートや危険な箇所を調べ、十分に警戒しながら一行を導いている。


 『はぐれ島』クリストアは呪われた地というだけあって、植物が島の表面に何ひとつ育っていなかった。野獣はおろか、昆虫すら気配のかけらもない。


 『邪霊ゴースト』との戦いから、すでに二時間が経過していた。一行は島の北端を目指している。南から島に渡り、それらしい気配を探りながら最奥へと進んでいるのであった。


 祭器を全て揃え、ルレファンは『無の女神』ハーデロスをこの世界に『召喚』するための条件を手に入れた。場所に相応しいのは『無の女神』の神殿をおいて他に無い。


 あとはタイミングだと、出発前にルシカが語っていた。『神の召喚サモンゴッド』は、発動させることができるタイミングが限られているのだと。


 ヴァンドーナが文献や資料から算出した日数の大半は、神殿までの行程で消費されてしまう。それでも猶予は十分にあったはずだが、その瞬間が刻々と迫っている気がしてならなかった。


 神界には神と称される多数のものが存在しており、互いの影響力の均衡を保っている。凄まじい力をふるう存在そのものが、この現生界へ渡るようなことがあったらどうなるか。


 次元の揺らぎの上に存在する個々の世界は、互いの干渉が少ないからこそ安定し、絶妙なバランスを保っている。そのバランスが崩されれば容易に引っくり返り、全ての世界が崩壊する事態になるのだ。


 そうなれば――何もなかった状態、『始原の無』に逆戻りだ。時間すら崩壊し消え去ってしまう。進んできた道も、大切なひとも思い出も、全ての存在とその意味が失われてしまう……何としても、阻止しなればならないのだ。


 何度目かの小休止のあと、テロンの腕の中でルシカが意識を取り戻した。


「……ん。……テロン?」


「気がついたか?」


「うん、ありがとう。ごめんね……もう平気よ」


「ルシカの『平気』は平気じゃないんだけどな」


 微笑みながら発せられた、テロンのため息混じりの言葉を聞き、ルシカも思わず口元を緩めた。


 テロンはそのまま彼女を抱き運ぶつもりだったが、ルシカは『万色の杖』を受け取り、自分の足で歩くことを申し出た。


 不毛の地は風雨に浸食されるがままになっている。場所によっては容易にボロボロと崩れた。足場は悪く、瘴気のように濃い霧にはかすかな腐臭と錆びた金属のような不快な匂いも混じっていた。


「俺たちが、一番先を進んでいるようだ」


 クルーガーと先頭を代わったテロンは、地面の痕跡を探り、耳を澄ますようにしばし動きを止めていたが、そう報告しながら仲間を振り返った。


「ルシカ、目指す方向はこれで合っているのか?」


 テロンの問いに顔を上げ、魔導士の少女がコクンと頷く。


「合っているわ。この先にはっきりと感じるから、祭器の放つ力を……」


 岩だらけの道なき道を進み、通れそうにない場所は迂回を余儀なくされ、一行はかなりの時間を費やしながら進んでいった。上空の雲が低く厚く垂れ込めいるので、太陽の位置すらも確認できない。


 地図も存在しないので、最終的にはルシカの魔導の力と感覚が頼みの綱だった。


「魔導士たちが、いにしえの魔法王国の末裔すえだといわれるゆえんがわかったような気がします」


 魔術師のティアヌがぼやく。それを聞き、クルーガーが口を開いた。


「その分、魔導士は消費が激しいんだ……。ルシカ、少し座っていろ。さっきから顔色が悪いぞ」


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