絆 4-3 記憶
やわらかな光があふれていた。
ひんやりとした空気に触れる肌には、寒さが纏わりついている。昼前だろうか。満たされた光に、じんわりとした
――まず、木造りの天井が見えた。高さはあまりない。梁が渡され、実用重視の板や材木に装飾はなく、様々な生活用品や保存食が吊り下げられている。
しばらく天井を眺め、左に少し視線を移動させると、窓があった。遠くから潮騒のような音が聞こえる。そういえば、呼吸する空気にもどことなく潮の香が混じっている気がする。
自分が寝台に寝かされていると気づくまでに、どれほどの時間がかかったのだろう。青年は上半身を起こした。
「……ッ!」
途端に、凄まじい傷みが全身を駆け抜けた。体をくの字に折って苦痛にうめきながら、青年は自分の体を見た。腕や腹、脚、首や頭にまで包帯がぐるぐると巻かれており、まるで古の物語に出るミイラ男のようなありさまだった。
彼には、こんな大怪我をした覚えはなかった。不思議そうに、自分の包帯だらけの体を見下ろす。
……ギィッ。穏やかに軋む音がして、扉が開かれた。野菜の入った籠を腕に抱えた女性がひとり、入ってきた。茶色の長い髪、年齢は青年よりふたつかみっつ下――十八歳ほどであろうか。
「まあ、目が覚めたのね」
女性は青年が起きているのを見て嬉しそうな声をあげたが、彼の苦しそうな表情に気づき、慌てて寝台に駆け寄った。
「まだ起きあがらないほうが」
女性は青年の体を寝台に横たえると、にっこり笑って言った。
「本当によかったわ。一時はどうしようかと心配していたの。もうまる一日半は眠りっぱなしだったんだもの」
「……眠りっぱなし?」
青年はつぶやくように繰り返し、その意味を頭の中で考え、ハッとなった。
「俺はいったいどうしたんだ? それに、ここは――?」
「ここはマイナム。『竜の岬』の尻尾の付け根にあたる場所の小さな漁村よ。あ、わたしの名前は、クレシュナです」
「俺は、テ……」
青年は言葉に詰まった。そこから先がなかなか出てこないのだ。始めの音から自然に続く言葉を、ようやく喉から絞り出す。
「テ……ロン。テロン、だと思う」
「だと思うって……」
クレシュナと名乗った女性は、
「自分の名前を忘れてしまったの?」
青年はずきずきと痛む頭に手をやった。動かした腕も痛むが、そんなことを気にしている余裕はない。
――自分は、いったい何者なんだ?
真剣に考え込んだその様子に、言葉の意味を理解したクレシュナも真面目な顔になった。
「あなた、記憶をなくしたのね」
「……そうかもしれない……」
青年は目を閉じ、しばらく記憶を探ろうとした。そして、目を開き、青い瞳をクレシュナに向けて問う。
「俺はいったいどうなっていたんだ」
クレシュナは心配そうな表情で頷くと、ゆっくりと話し始めた。
「あなたを見つけたのはわたしの祖父なの。漁に出ていたとき、海上に出た岩に引っかかっていたのを見つけたそうよ……最初は、もう死んでいるのかと思ったって」
クレシュナは一旦言葉を切り、すこし呼吸を整えた。
「ひどい傷だらけで、すっかり冷たくなっていたから。見つけた場所は、この近くの海岸の、岩がいっぱいあるところ……。でも、助かって本当によかったわ。船の事故か何かで海に落ちたの?」
「……海に、落ちた……?」
青年は思い出そうとした。だが、思い出そうとすると頭が割れるように痛む。
苦痛に顔を歪める彼を心配そうに見ていたクレシュナが、これ以上考えさせるのは
「そういえば、おなか空いたでしょ。消化に良さそうなスープを作ったら、食べる?」
「あ……」
青年は、まだ礼も言っていないことに気づいた。
そのとき、再び扉が開かれ、小柄な老人が部屋に入ってきた。顔には幾筋もの深いシワが刻まれ、長年潮風と太陽に当たってきたためか、浅黒くなった肌と乾いた髪の持ち主であったが、浮かべている表情は柔らかかった。
「クレシュナ、傷によく効く薬草をもらってきたぞ。あまりにひどいようなら、ヨハン司祭が診にきてくれるそうじゃ」
老人は部屋に入るなりそう言って、手にした薬草の束を掲げてみせた。そして、目を覚ましている寝台の上の青年に気づき、顔をほころばせた。
「おう、気がついたか。よかった、よかった。一時はどうなることかと思っておったのじゃ」
「あ、ありがとうございます。俺は……」
そう言いながら身を起こそうとする青年を手を振って制し、老人はクレシュナに薬草の束を預けた。丸椅子をひとつ引き寄せ、「よっこらしょ」と腰掛ける。
「わしに礼は良い、良い。今は体を休めることだけ考えなされ。して、おまえさんはどちらのひとかいな? 家族が心配しておるじゃろ」
言いよどむ青年に代わって、クレシュナが口を開いた。
「おじいちゃん。このひと、記憶を失くしてしまったらしいの。名前だけはわかったんだけど」
「なんと……」
老人は驚き、しばらく黙り込んでいたが、やがて口を開いた。
「そういうことなら、記憶が戻るまでうちに居なさい。困ったときは助け合うのが一番じゃ。ここは何もないところじゃが、魚は
老人は頷きながら言った。
「わしの名はゾウム。『
「おじいちゃん、それは大昔の話でしょ」
クレシュナが笑いながら言った。
青年はその光景を見て微笑んだ。――まるで、あの少女と祖父との会話のようだなと思った。刹那、脳裏にイメージが走り、彼は頬を強張らせた。
……やわらかそうな金の髪が揺れ、祖父は白く長いあごひげをしごきながら、手をぱたぱた振って……。
それに気づいたゾウムとクレシュナが、青年の顔を覗き込んだ。
「何か、思い出したのかいな?」
青年はゾウムの問いに答える余裕もなく、天井の一点を凝視したまま必死に今のイメージをもう一度思い出そうとしたが、一瞬像を結んだ光は再びぼやけ、意識の底に沈んでしまった。
青年は残念そうに首を振った。
「……いえ、思い出しかけた、と思ったのですが……」
「そうか……」
老人は励ますようにゆっくりと何度も頷いた。
「まあ、無理をすることはない。今は体力を回復させることが先決じゃ。なんせ、おまえさんは凍えて死にかけておったのじゃからな。体のほうは折れたり失くなったりしとりゃせん。良かったのぉ」
「……本当に、何とお礼を言ったらよいか……」
青年の言葉に、ゾウムは豪快に笑ってみせた。
「気にするなと、言っておろうが」
そう言って、目に優しげな光をたたえて頷いた。
記憶を失くし、内心不安でいっぱいだった青年――テロンには、その優しさが嬉しかった。
一日はたっぷり休むと、体の痛みもずいぶんとましになった。運が良かったのか頑丈であるのか、テロンは体を動かしたくて堪らなくなり、寝台から起き上がった。
彼は、漁師であるゾウムを手伝った。不慣れな作業にも、テロンは弱音ひとつ吐くことはなかった。疲れを知らない、鍛えあげられた肉体が、重い木箱を軽々と持ちあげる。
「これはどこに置きましょう?」
「おう、あっちじゃ」
テロンの問いかけに、ゾウムが答える。老人を手伝いながら体を鍛えることが、何だかやけに自然で懐かしく、テロン自身が戸惑いを感じるほどであったが、ゾウムにはすこぶる嬉しいことだったらしい。
「いやいや、今日は大漁じゃのう。テロンが手伝ってくれるおかげじゃな」
短い間に、テロンはすっかりゾウム老人のお気に入りになったようだ。
「そんなことは」
慌てて手を左右に振り、テロンは照れ隠しに笑ってみせた。すぐに別の作業に取り掛かる。ゾウムは網や仕掛けをまとめながら、疲れる様子もみせずによく働く青年を見て、ぽつりと言った。
「……おまえさんがクレシュナと一緒になって、いつまでもこの村にとどまってくれたらのぅ……」
小さなつぶやきであったが、テロンの耳には届いていた。顔を上げ、何と答えてよいのかわからず言葉を失ってしまった青年に気づき、ゾウムはハッとした。
「いや、何でもない。すまぬ、気にせんでくれ」
ゾウムは早口にそう言い、暮れかけた夕空を見上げた。
「おう、もうこんな時間か。帰ろうかの、テロン。腹が減ったじゃろ」
テロンは、ゾウムを手伝って網や釣り道具を片付けながら、考えていた。帰らねばならないという焦燥は、彼の心を激しく揺さぶっている。だが、自分はどこへ帰るのだろうか、と……。
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