絆 4-4 記憶

「どうしたの? テロン」


 スープを口に運んでいた手を止め、何やら深刻な顔で考え込んでいたテロンを、クレシュナが覗きこむようにして訊いた。


「スープ、味つけ間違っちゃった? 苦手な野菜?」


 心配そうに眉を寄せるクレシュナに、テロンは少し遅れて気づいた。


「い、いや。そういうわけじゃないよ」


 テロンは慌てて答え、微笑んだ。


「おいしいよ、スープ。ありがとう」


 クレシュナは「そ、そう。よかった……」と顔を赤らめて目を伏せた。


 テロンはまた自分の考えに戻っていたので、その様子には気づいていない。


 ゾウムは、孫娘の態度の変化に気づいていた。彼は、見た目ばかり良く物やわらかな言い方をする男は好かなかったが、この若者ならば許せるかもと考えていた。テロンは真面目で辛抱強く、相手を思い遣る優しさを持っている。


 だが、ゾウムは、孫娘のテロンに対する恋心に心の底から喜べずにいた。


 若者にしては不釣り合いなほどに礼儀正しく、鍛え抜かれた体は労働によるものではなさそうである。いつかテロンの記憶が戻ったとき、どこかへ去っていってしまうのではないか。彼には、それが心配だったのである。


 この青年に家族や友人が居るなら、今必死になって行方を探しているのかもしれなかった。……いっそのこと見つからなければよい、とも思ってしまう。


 だが、明るく振舞うテロンの心が、不安と焦燥感に包まれていることにも気づいていた。


「何とかしてやりたいが……」


 この若者のために記憶を取り戻してやりたい、故郷を探してやりたいと思う。だが、ゾウムには今、自由に動き回れない理由があった。


 この小さく閉鎖的な漁村で生活するのは問題ない。


 だが、町へ出たりしようものなら『奴ら』に見つかってしまうかもしれないのだ。大切な孫娘にまで何かあったら……、そう思うと、少しでも目立つ行動はできない。


 ――あんな像など、拾わなければよかった!





 ゾウムは三ヶ月ほど前、『竜の岬』の周辺にある群島の近くで、奇妙な像を拾った。仕掛けた網に引っかかっていたのである。


 手のひらほどの大きさの、禍々しい形の大剣を持つ黒い女神像だ。その女神は、光の神々ではなく闇の神々のひとり、『無の女神』ハーデロスの姿をかたどったものだった。


 ゾウムは恐れた。このように禍々しきものが自分たちの漁場にあるとは、何かとてつもなく不吉な予感がしたのだ。


 ゾウムの住むマイナムの村の南西にある交易都市ロスタフには、光の神々の主神ラートゥルの大きな神殿がある。教会は村にもあるのだが、妻を亡くし娘を抱えて忙しそうな毎日を送っている恩人を巻き込むのは避けたかった。


「ロスタフの大神殿ならば、この像を何とかしてくれるに違いない」


 ゾウムはそう考え、その像を船に乗せたまま戻ろうとした。


 だが、途中で異変に気づいた。『竜の岬』に囲まれた内海を目指して進んでいたはずなのに、いつのまにか船は外洋へ向けて進んでいるではないか。


 ゾウムは慌てて船首を陸へ向けようとしたが、どうしても舵が利かない。その間にも船は滑るように進み続け、やがて海面に気味の悪い霧が流れはじめた。


 ――そして、とうとう前方に不吉な島影が現れたのだ。


「……は、『はぐれ島』……!?」

 

 それは呪われし地として話には聞いていた、『はぐれ島』とも呼ばれるクリストア列島であった。島々とは思えぬ歪み、ねじくれた外観は、まるで奇怪な城の連なりのようにも見えた。この世のものとは思えない邪悪に満ちた気配。


 漂うように届いた大気の中に、腐臭と血のような錆びた臭いが混じっている。背筋を何かが這いあがるような感覚に、ゾウムは堪らず悲鳴を上げた。


 ――の地に行って、無事に帰ってきたものはいない。若い冒険者のようないでたちの者が、白髪の枯れ木のようになって砂浜に打ち揚げられていたと、漁師仲間の誰かが話していたのを耳にしたことがある。


 ゾウムは急ぎ、船の内部を見回した。呪われし地に引き寄せられ続けている原因を探ろうとしたのだ。


 調べるまでもなかった。今や真っ赤なオーラを放っている『無の女神』ハーデロスの像である。


「ひいぃっ」


 ゾウムはその像を海の中へ投げ捨てた。すると、いまや恐ろしい速度で島に吸い寄せられていた船が、突然止まった。超常的な力に奪われていた舵も、元に戻った。


 ゾウムは必死で船を操り、やっとの思いでマイナムの我が家に帰り着いたのであった……。


 それは、思い出すだけでも震えが止まらなくなるほどに、恐ろしい体験だった。それに加えて、像を発見した数日後に、日用品の買出しに出掛かけたロスタフの港で、不吉な噂を耳にしてしまったのだ。


 怪しげな黒装束に身を包んだ男たちが、何かの像を探し回っている――と。


 その日のうちにゾウムは家に帰り、それ以来、ロスタフには行っていない。





「……ちゃん。おじいちゃん」


 自分を呼ぶ声にゾウムが顔を上げると、食卓の向かい側に座っていたクレシュナが祖父を心配そうに見ていた。


「どうしたの?」


 ゾウムは、スプーンを握る手に力が入っていたことに気づいた。クレシュナは何事かと、祖父の震える手を見つめている。


「い、いや、何でもない」


 ゾウムはさりげなさを装いながら、話題を変えた。


「それより、明日は、わしの仲間たちと沖のほうへ出かける日じゃからな」


「うん、年に一度の腕試しの釣り競争でしょ」


「そうじゃ。まあ、今年もわしがぶっちぎりで一番になるのが目に見えておるがな」


「期待してるわ」


「そういうわけじゃ、テロン。明日はわしひとりで船で出かけるから、ゆっくり過ごしていてくれるか。日暮れまでには帰るから」


「あ、はい」


 老人に向けて頷くテロンの腕を引っ張るようにして、クレシュナが言った。


「ね、あとで外に出て星を見ない? 今日はよく晴れていたから、きっと満天の星空だと思うわ。ね?」


「あ、ああ……」


 熱い眼差しと勢いに押され、テロンは頷いた。





 見上げる夜空は、まさに満天の星空であった。近くに人家などの灯りがないので、星明かりだけが、砂浜に腰をおろして夜空を眺めるふたりの姿を照らしている。


「じゃあ、隣の星座は何ていうの?」


「あれは不死鳥座かな」


 クレシュナが指差している方向に見当をつけ、テロンが星座の名を答えていた。


「その上に輝いているみっつの星が、ナウルの三連星。その方向が北になる」


「すごい。よく知っているのね」


 クレシュナは感嘆の眼差しをテロンに向けた。


「テロンって学者か何かだったんじゃない?」


 冗談のような、本気のような判断がつかない口調で、熱心にクレシュナが問う。テロンは中途半端な微笑みを頬に残したまま、自分に関しては何も答えることなく黙って星空を見上げた。


「もしかしたら、高等教育を受けている高貴な出生だとか」


「……まさか」


 テロンは笑った。そのまま星空を眺め、空に広がる星たちの綴る物語の数々を頭のなかで思い描いた。


 ――どうして俺は、こんな知識を持っているのだろう。


 闇の空間に散りばめられた遠い無数の美しい輝きに心を奪われながらも、自分のことについて何か思い出せないかと記憶の奥底を探り続けていた。


 ……部屋いっぱいの大きさの天体望遠鏡。星たちの綴る物語を語って聞かせてくれる少女。やわらかな金の髪が隣でふわりと揺れ、ゆっくりと顔をこちらに向けて……。


 ふいに浮かんだ映像には、胸があたたかくなるような幸せを感じた。思わず胸を押さえ、宙を見つめるように動きを止めていたテロンは、自分をじっと見つめる視線に気づいた。


「……何だい?」


 問われたクレシュナは目を伏せ、何か迷っているようだったが、やがて顔を上げてテロンの瞳を真っ直ぐに見つめた。はっきりとした口調で、彼に問い掛けてきた。


「テロン。あなたを待っている女性は居るの?」


 テロンは一瞬、何を言われたのかわからなかった。


「……待っている……女性?」


 刹那、まぶたの裏に浮かんだのはオレンジ色の大きな瞳だ。顔の輪郭はぼやけてはっきりしなかったが、たまらないほどの愛しさと切なくなるような懐かしさに、胸がぐっと締めつけられる感覚がした。テロンは思わず自分の胸もとの衣服を掴んだ。


「俺には――」


「ごめんなさい、何でもないの。本当に何でも。いま言ったことは忘れて、ね?」


 クレシュナはわざと明るい声を出し、テロンの言葉を遮ったのだった。


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