生命の魔晶石 3-10 護りたい者

 テロンの目の前で、力を失った細い腕が揺れている。どくん、と心臓が嫌な音を立てた気がした。


「ルシカあぁッ!!」


 気づくと飛び出していた。テロンは少女の名を叫びながら一気に距離を詰め、数歩手前で床を蹴り、一気に男の間合いへ入り込む。


 ドゥンッ! 伸ばした腕が男に届くと思った瞬間、相手を中心に重い質量を持つ不可視の力が放たれた。


 テロンは後ろに吹っ飛ばされたが、その勢いを利用して身を転がし、即座に体勢を戻した。床を蹴り、再び男に突っ込んでゆく。


「早まってはならん!」


 ソバッカの声が耳に届くと同時に、テロンの周囲の床が陥没した。


「ぐッ……!」


 割れた瓦礫に半ば埋もれた中から顔を上げ、床に叩きつけられたのだと知る。切ってしまった顎に血を滲ませながらも、すぐに立ち上がる。


「なんだ、今のは!」


「重力の攻撃のようじゃ。しかし、この男……何も詠唱していなかったが」


 ぐったりと弛緩したルシカの体は、男の腕によって吊られたままだ。ソバッカの剣も、シャールの癒しの祈りも届かない距離である。


「ルシカ、ルシカ!」


 シャールが少女の名を繰り返し呼んでいたが、指先ひとつも反応はなかった。だが、焦っていたのは彼らだけではなかった。


「よせ、やめるんだ、グラビティ! こんなことは計画になかったはずだ!」


 『召喚』の魔導士が、仲間であるはずの相手に向かって一歩踏み出す。


「我の目的は、ただひとつ」


 皮鎧の男が、無造作にルシカの衣服の胸を掴む。そして、一気に引き裂いた。皮帽子を目深にかぶった男の顔は見えないが、薄い唇の端を笑みの形に引き上げて高く掲げたのは、あの箱だ。『生命の魔晶石』を封じ込めた箱――。


 男は、不要になったルシカの体を無造作に放り捨てた。華奢な体が宙を舞う。


「ルシカ!」


 テロンが叫んで追い、床に落ちる寸前でルシカの体を無事抱きとめた。だが――腕の中のルシカの体の冷たい感触に、テロンは心臓が止まるほどの衝撃を受けた。力の入っていない腕や脚が投げ出され、かくりとあっけなく仰け反った首。やわらかな金の髪が、伏せられたままのまぶたにかかる……。


「ルシカ? ルシカ!」


 思わずルシカを胸にかき抱いたテロンの傍に、シャールが駆け寄る。


「王子! 落ち着いて!」


 シャールはルシカの首に手を添え、すぐさま『癒しの神』に祈りを捧げた。


「貴様ッ!」


 ソバッカが剣を振りかざしながら男との距離を詰めた。裂帛の気合いとともに、男の肩に剣を振り下ろす。


 ギャリイィィン! 目にも留まらぬ速さで引き抜かれた男の剣と、ソバッカの剣が凄まじい衝突音を生じ、火花を散らした。


 背後の魔導士の男が、よろめくように数歩下がる。黄色の魔石の嵌められた杖を微かに振り、魔法を使うような仕草をした。


「なろっ」


 それに気づいたメルゾーンが、攻撃のための詠唱を開始する。


 だが、相手の魔導士は杖を下げ、こちらに向けて仕掛けてくる気配がなかった。魔法行使のように見えた動作のあとにも、何も起こってはいないようだ。眼前で展開されている戦闘を、震える瞳で見つめたままだ。まるで、事態を把握しかねているように。


 ソバッカと男は数度、激しく斬りあった。どちらも、剣で相手の攻撃を受け留めている。


 だがついに、ソバッカの剣が男の胴をとらえた。だがしかし、刃が食いこんだと思った瞬間、ソバッカの体は不可視の力に弾かれ、後方に吹き飛ばされた。


「なにっ!?」


 ソバッカは盾を背中から外し、左手に持ちながら相手を見た。男の胴の皮鎧は切り裂かれていたが、その下は人の皮膚ではなくなっている。


 男に、メルゾーンの『炎嵐ファイア・ストーム』の魔法が炸裂した。


「……な」


 その場にいた者たちは驚愕きょうがくした。魔法で生み出された高熱の炎に巻かれ、皮鎧が焼け落ちた下から出てきたのは、人ではありえなかった。


「我の望みは、不死の力だ……グガガ」


 人語だが、男だったものの姿は急速に変化しつつあり、すでに発音が難しくなっているようだ。見る見る大きくなる影に、ソバッカは後方に下がるしかなかった。


 それは――竜だ。四肢を突っ張り、首を、尾を伸ばす。みるみるうちに、皮膚は黒い鱗に覆われていく。


「……竜人族か。今では珍しい、真なる姿へ変化できるとは」


 ソバッカが奥歯を噛みしめるように言った。


「我をだましたのか、グラビティ!」


 『召喚』の魔導士が叫ぶように声を荒げた。


 ひどく軋む声で、竜は吼えた。狼狽する周囲の者を、まるで嘲(あざけ)り笑っているかのように……。





 『召喚』の魔導士は震えていた。恐怖ではない――裏切りによる失意と無念、絶望にさいなまれていたのだ。


 自分の願いを叶えるための唯一の手段、他に代えなど利かぬ魔導士の少女。その首を締め上げた取引相手は、こちらのことなど見向きもしていない。


 自分が騙され、利用されていたのだと確信したとき……後方に下がりつつ自身の魔導を象徴する魔石を嵌めた杖を振っていた。


 その動作と連動し、遺跡の奥の一室で亜空間の『扉』たる魔法陣を出現させていたのである。黒くこごった闇のような魔法陣が消え失せると、その場には長身の青年が横たわっていた。


 冷たく埃っぽい床の上で、クルーガーはゆっくりと目を開いた。


「う……いったい何が……」


 体のあちこちに鋭い痛みが走る。ぎくりとして体を見回し、ひと通り動かしてみたが、どこも損なわれたり、失われたりはしていなかった。


 ただ、王宮で触手と戦い、絡め捕らえられてからの記憶が全くなかった。


「……ここはどこだ?」


 腕を突っ張って上半身を起こし、ズキズキする頭を左手で抱えながら周囲を見回す。荒削りな石の床、重く沈んだ空気、埃の積もり具合からみて、明らかに王宮ではないようだ。


 闇に目が慣れてくると、古い遺跡のなかの狭い空間であることが見て取れた。さらに、部屋に扉はなく、淡い明かりが通路の先から漏れていることに気づく。


「周囲に生き物の気配はないようだな」


 クルーガーは、油断のない視線を走らせながら立ち上がった。だが、すぐに片膝が落ちる。触手に締め上げられたとき、関節だけでなく体の内部にも軽からぬダメージを受けたようだ。


 自らを叱咤し、もう一度ゆっくりと立ち上がる。腰ベルトの後ろを探ると、小剣ショートソードが残っていた。握っていたはずの長剣はなかった。小剣を引き抜いて眼前に構え、用心しながら通路に出る。


 そのとき、腹の底に響くような衝撃が通路を駆け抜けた。続いて空間を震わせたのは、生き物の発した咆哮だ。


「何が起こっている?」


 クルーガーは気配を押し殺し、光を感じる方向を目指し、通路の壁に沿うように進んだ。やがて通路は途切れ、大きな部屋に繋がっていた。光もそこから発せられていた。


 気配を押し殺しながら部屋を覗いたとき、彼は危うく驚きの声を発するところであった。


「テロン! ソバッカ殿、それに……何だあの邪竜は!?」


 彼の目の前には、背を向けた大きな黒い竜の姿。その向こう側に、剣と盾を構えて竜と対峙する傭兵隊長、見た覚えのある派手な衣服の男が立っていた。


「あれは……いつぞやの魔術師ではないか?」


 竜と傭兵隊長の一触即発の状況を見て取り、クルーガーの手に力が篭もる。だが同時に、双子の弟テロンの様子が気にかかった。テロンは誰かを抱えているようで、ひどく取り乱しており、尋常ではない様子だ。


 傍にいる白い衣服を着た黒髪の女性が、胸の聖印に手を当てて必死に祈るような動作を繰り返している。『癒しの神』ファシエルに仕える女性神官、ソバッカの血縁の者だったはずだ。


 目を狭めて事態に気づき、クルーガーの心に衝撃が走る。


「倒れているのは……る、ルシカ……か?」


 テロンの腕に抱かれていたのは、他でもないルシカだったのだ。離れすぎていて詳細はわからないが、テロンは、彼がかつて見たこともないほどに動揺している様子だ。


「くそっ、どうなっている」


 飛び出す前に状況を見極めようとして、クルーガーは部屋を見回した。自分の立つ位置の近く、竜の斜め背後に、触手を召喚した魔導士が立っていた。


 魔導士が、目の前で繰り広げられようとしている戦闘から目を逸らすように背後を見たとき、クルーガーと眼が合った。魔導士は、唇を血がにじむほどに噛みしめていた。


「しまった、発見されたか」


 魔法行使の隙を与えず飛び掛かろうと脚に力を篭めたクルーガーに、魔導士は首を横に振った。そして、杖を持たぬほうの左手で合図を送って寄こしたのである。


 今の敵ではないようだ。竜の背後に待機したままでいろ、と言いたいらしい。


 竜は、やみくもに飛び掛っても刃物の傷すら負わすことのできない相手であると知っている。事情はよく判らなかったが、クルーガーは剣の柄を握りしめたまま、鋭い眼差しを相手に向けたまま頷いてみせた。





「ルシカ……ルシカ!」


 テロンは腕の中の少女の名を呼び続けていた。


 唇は半ば開かれ、頬は強張り、目蓋はぐったりと閉ざされたままだ。すべらかな手は冷たく、力なく、細い指はぴくりとも動かなかった。腕に伝わる鼓動は、今にも途切れてしまいそうだ。


 こんなところで失うのか。愛しいと、大事なのだと自覚した初めての相手。ようやく逢えたルシカなのに、まだ自分は気持ちを伝えていない――。テロンは悔しくて悲しくて、彼女の顔から目が離せなかった。


「死なせはしません。王子、名前を呼び続けてください」


 シャールも必死だった。深く深く、何度も『癒しの神』ファシエルに祈りを捧げ続けている。


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