第30話 犯人

 正門を出て、坂を下る。


 風も強くなってきた。油断すると、傘が裏返りそうになる。風向きに合わせて傘の位置を変えるが、そうしていると雨を防ぎきれずに少し濡れてしまう。


「ちょっとすごいな……」


 野口さんには悪かったが、早く帰れてよかったと思う。雲行きからして、数時間程度ではおさまらなかっただろう。それどころか、さらに激しくなった可能性も高い。


「うん」


 藤咲は、スカートの裾をおさえている。


 雷鳴がまた轟く。雨粒がさらに重くなる。

 傘がなかったら、どうなっていたかわからない。藤咲をあのままにしなくて本当に良かった。


「……大丈夫だぞ。見てないぞ」

「大楠君……」


 ジト目。見てないのは本当だ。見えそうにはなったけど。


 ひとまず、落ちつけるところまで行くことが先決なので、駅への道のりを急ぐ。駅舎に入り、傘を閉じるとほっと息をついた。


 結局、髪の毛とズボンがだいぶ濡れてしまった。足はぐちゃぐちゃで気持ち悪い。避けられない水たまりがいくつかあったせいだ。


 隣の藤咲も同じように濡れている。


 前髪が額に貼りついている。雫を垂らしながら立つ藤咲は、いつもよりも色っぽく見えた。


「傘、買うか」


 藤咲は「そうだね」と答える。


 駅舎内にあるコンビニに入った。藤咲がビニール傘を買う一方で、俺は別のものを購入する。コンビニから出た藤咲にそれを渡した。


「ほい」


 ホットココア。どれが好きかわからなかったから、無難そうなものを選んだ。


「え?」

「少し冷えただろ。おごるよ」

「いいの?」

「俺も同じの買ったんだ。どっちみち一人じゃ飲み切れないよ」


 藤咲は、缶を両掌でくるむ。冷えた体には、缶の温かさが染みるのだろう。

 プルタブを開けて飲む。甘ったるい味。そういえば、ココアなんて飲むのは久しぶりだった。一人で買うときは、だいたいお茶かスポーツ飲料だ。


「おいしい……」


 でも、選択は間違ってなかったようだった。藤咲の顔がほころんでる。


 駅のなかの人たちは、誰もがせわしなかった。どうやら、電車が少し遅れているらしい。強風の影響で――というアナウンスが、辺りに響いていた。


「大楠君って、どっち方面なの?」

「俺は、東京方面だな」

「あっ、あたし逆だ」


 ちびちびとココアを飲みつづける。意外と熱くてすぐに飲み込めない。


 俺は、切り出し方に迷っていた。


 多少話してくれたとはいえ、どこまで聞いていいのだろう。


 それでも迷っている暇はなかった。おそらく、このタイミングを逃したら、来週まで待つしかなくなってしまう。


「藤咲、最初から全部、教えてくれないか?」


 藤咲は、両手で缶を持ったまま、俺の顔を見た。


「全部……?」

「あの嫌がらせのことだ。話したくないことは、話さなくてもいい。犯人を捕まえると言っただろ? そのためには少しでも手掛かりが欲しいんだ」

「……どういう目に遭ったか、ってこと?」

「ああ。だけどそれだけじゃない。告白されたときのことも、もう一度教えてくれないか」


 俺にはずっと引っかかっていることがあった。


 これだけつづいた嫌がらせ。それに対して、藤咲が犯人を捕まえようとはしなかったこと。放置したのは、決して藤咲の優しさだけではないような気がしていた。


「どう、して……? 噂でも出回っている通りだよ」

「本当か? 俺は、嘘なんじゃないかと思っている」


 藤咲の顔が驚きの色に染まった。


 俺が聞いている話は簡単だ。安藤が、学校の屋上に藤咲を呼び出した。そこで、告白。藤咲は、「ごめんなさい」と頭を下げた。安藤はあっさり引き下がった。ただ、それだけ。


 あまりにも普通すぎて、特別言いふらすほどの話とも思えない。しかし、噂はフラれたという事実だけじゃなくて、そんなシチュエーションまで含んでいた。


 まるで、何事もない告白だったと思わせたいかのように……。


「藤咲……。ほんとは、ちょっと怖い目に遭ったんじゃないか。だから、犯人を刺激しないために、何もしないようにしてたんじゃないのか」


 確信できるだけの証拠があったわけじゃない。あくまでカマかけだ。だが、目の前の藤咲の表情が、俺の言葉が真実であることを裏付けていた。


「……大楠君はすごいね」


 手元のココアはいつのまにか空になっていた。


「やっぱり、あれは嘘だったのか」

「……うん」


 それから、藤咲はたくさんのことを話してくれた。告白された日に何があったのか。そのあと、どういう嫌がらせが行われていたのか。


 ふつふつと怒りが沸き上がる。


 頭に浮かぶのは、さきほどの昇降口での出来事。藤咲は、雨が降りしきるのを見ながらも、誰にも助けを求めず一人で残ろうとした。


 今の状況は、あのときと何ら変わりはない。


 藤咲はまだ救われていない。放っておいたら、きっと雨に濡れるのも構わずそのまま突っ走ってしまう。だから俺が止めなければならない。俺が、助けなければならない。


 俺は、言った。


「あとは、俺に任せてくれないか」


 ココアの缶をごみ箱に捨てる。振り返った先には、きょとんとした藤咲の姿があった。


「藤咲が心配していることは、また怖い目にあうことだ。俺が犯人を咎めるのであればその心配はなくなる。そうだろ?」

「そう、だけど……」


 藤咲の顔には迷いがある。俺を巻き込んでいいのかどうか……。


 だからこそ、俺は、できる限り自信満々に告げた。


「大丈夫だ。俺に考えがある」


 それでも、しばらく逡巡の時間があった。やがて、藤咲が小さくうなずく。


「うん」


 すでに情報は十分に得ることができた。

 残りの仕事は、犯人の安藤を成敗することだけだ。

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