第28話 雨

 告白の噂と違って、藤咲が嫌がらせを受けているという話は全く出回らなかった。嫌がらせの内容が、大っぴらになるようなものじゃない。あるいは、藤咲自身が巧妙に隠しつづけている。


 藤咲は日に日に元気がなくなっていく。


「おい、藤咲。その本、そっちじゃないぞ」

「え? あ、ほんとだ……。ごめんね」


 かろうじて作られる笑顔も痛々しく感じる。目元にはクマができていた。しゃべる声も小さくなっている。


「……置いた本、逆さだぞ」

「逆さ……。あ……」


 藤咲より前に、俺が直す。そのとき、藤咲の腕に抱えた本が落下して音を立てた。


「その本、結構重いから危ない。俺が代わりに持つ」

「大丈夫、だよ……?」

「全然大丈夫じゃないからそう言ってるんだろ。今持ってるやつも全部こっちにくれ」

「うん……」


 目が虚ろだ。野口さんも、さっき「保健室に行け」と心配していたくらいだ。教室にいる間は気丈に振る舞っているみたいだが、図書委員のときは気が抜けるのか静かだった。


「藤咲。今日はもう帰った方がいい。残りはやっておくから」

「……そんな、悪いよ……」

「悪いなんてことはない。もし帰るのが嫌だったら、椅子に座って休んでてくれ。今は人もいないし、俺一人で十分対応できる」

「わかった……」


 藤咲は、奥のほうに引っ込んだ。残った本をすべて棚に戻してから、カウンターのほうに移動する。特に誰もいないようだったので、藤咲の様子を見に行った。


 藤咲は、顔をテーブルのうえにつけてぐったりしていた。髪の毛が放射状に広がっている。


 ……藤咲が告白されてから、三週間が経過しようとしていた。


 こんなふうになってしまった理由は明らかだ。藤咲に対する嫌がらせが、ずっとつづいているからだった。

 心配だった俺は、あの画鋲を見たときから藤咲の動向を気にしていた。俺が知るだけでも、似たようなことがすでに5回あった。上履きに画鋲を入れるだけでなく、教科書を隠す、ノートをぐちゃぐちゃにする、鞄にゴミを詰め込む、など。地味な嫌がらせが、ちょくちょく行われた。


 しかし、未だに犯人がわからない。


 ――許せない。

 藤咲が何をしたんだと言ってやりたかった。いい子じゃないか。他人に嫌われるようなことは一切していないはずだ。


 俺は、隣の席に腰を下ろして声をかけた。


「……無理しないでいいんじゃないか」


 俺が嫌がらせのことを知っていることを、藤咲は知らない。自分から話してくれるのを待っていた。


 藤咲は、体を起こして前髪を触った。


「ご、ごめんね。変なとこ見せちゃって。無理、してないよ、うん」

「そうか」

「……雨すごいね」

「梅雨だからな。あと数週間くらいはつづきそうだな」


 窓には大量の雨粒が流れ落ちている。ほとんどの運動部は中止。早く家に帰りたいこの天候で、図書室に来る人はわずかしかいない。


「体調が悪いのか? あんまり俺が聞くようなことじゃなかったら悪いが……」

「ううん、そういうんじゃないから……」

「ここ最近、ずっと元気ないよね。なんかあった?」

「……何も」

「……あの告白があってからだよな。そんなふうになったの」

「……」

「本当に、何もないのか……?」


 藤咲は答えない。たぶん、自分の悩みを相談して、相手に迷惑をかけることを恐れている。また、嫌がらせされている自分を知られるのも嫌なのだ。

 それでも、藤咲に直接相談してもらわないと動きづらいのも確かだった。俺が知らない間に受けた嫌がらせも多いだろう。そのなかには、犯人の手掛かりにつながるものもあるのかもしれない。


「……ごめん」


 最終的に出てきた言葉は、それだった。


「……わかった。俺は、藤咲の味方だから、何かあれば必ず相談に乗るぞ」

「うん、ありがとう」


 雨音ばかりの中で、足音が聞こえてきた。本を借りたい生徒かな、と思って振り返ったら、そこには野口さんがいた。


 野口さんは、俺と藤咲の顔を見て、


「二人とも、もう帰りな」


 驚いた。まだ、閉室時間まで1時間以上ある。藤咲だけならまだしも、いつも通りの俺が帰る理由がない。


「いや、帰るのは藤咲だけで、俺は――」


「いいんだよ。どうせ人も少ない。私だけで十分だ。どうせ私は最後まで帰れないんだから、ここは私に任せておけばいい」

「でも――」

「雨もひどい。私は車だからいいが、お前たちはそうじゃないだろ。こういう時は素直に言葉に甘えるものだ」


 おそらく、どう言おうが残ることを認めてくれないだろう。俺はあきらめて、「はい」とだけ返事をした。藤咲も、「すみません」とだけ言って、席を立った。





 俺と藤咲は、鞄を持って昇降口まで向かった。


 上履きを脱いで、靴を履く。傘立てに残されていた自分の傘を手に取ったところで、藤咲が立ち止まったことに気がついた。


「どうした……?」


 雨はますます強くなっている。外の土はぐちゃぐちゃだし、水たまりがあちこちにできている。


 傘立てには、あと4本の傘が残されていた。そのなかのどれかが藤咲のものだろう。


「……用事思い出しちゃった。先に帰ってもらってもいい?」

「用事?」


 何かを隠していると直感した。そして、残された傘をよく見て、理解した。


 そのうちの1本。赤い色の傘が壊されている。骨が折れ、布が破られていた。これが、きっと藤咲の傘、なんだろう。


 ここまでするとは、ずいぶんと暇な奴だ。もしも、帰るのがもう少し遅くて、俺がいなかったら、この土砂降りの中を歩かされていたんだろうか。


 ぎゅっとこぶしを握る。辛そうな藤咲の表情を見ていて、怒りが込み上げてきた。


「すぐわたしも帰る。気にしないで」

「……はぁ」


 もう限界だった。このまま藤咲を置いて帰れるはずがない。

 踵を返そうとする藤咲の腕をつかんだ。俺は言う。


「……俺の傘に入れ。一緒に帰ろう」


 藤咲は目を丸くした。それでも、俺の言葉に従うのが一番いいと思ったのか、小さくうなずく。


 雨の音。少し濡れた昇降口の床。鈍い雷鳴が、不気味な音を響かせていた。

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