第35話 大切

「それが自分勝手だっていうの? 前も言ったでしょ。面白そうだからって……」


 それでも、江南さんの回答は変わらなかった。


「じゃあ、なんで面白そうだなんて思ったの? そもそも、なんで真面目に学校に来るようになったの?」

「……今日はしつこいなぁ」

「教えてよ。俺からすると、よくわからないんだよ。江南さんがなにを考えているかわからないよ」

「わかる必要ある?」


 怒っているわけではない。ただ、淡々と答えているだけのように見える。


「そうだけどさ」


 別に、江南さんのことが気になるわけじゃない。ただ、このまま流されることに抵抗を覚えるだけだ。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、仲良くなりかけている自分がいる。江南さんは、思ったよりも話しやすい。不良として毛嫌いしていた自分の心が徐々に和らいでいる。


 でも、本当に、それでいいのかって少し思っただけだ。


「悪かったよ。変なこと言って」

「……」


 訊くのをやめた俺を見て、江南さんは無言になった。なにか考え込んでいるようだ。


 しばらくの間、沈黙がつづく。


 やがて、江南さんが言った。


「大切な人」


 小さな声。 

 すぐには、何を言われているのか理解できなかった。俺は、え? と訊き返す。


「あんたが言ったんでしょ。『自分の不満よりも、本当に大切な人を優先しろ』ってさ」

「あぁ、まぁ」


 俺は驚いた。まさか、答えてくれるのだろうか。


「あんたにそれを言われてから、一日中ずっと考えてた。わたしにとって、大切なものってなんだろうって。だから、かな」


 恥ずかしそうに、目をそらしている。だからこそ、それが江南さんの嘘偽りない本心なのだと伝わってくる。


「俺が、あの日のファミレスで言ったこと……」

「そう」


 西川も言っていた。あの日、俺が感情を吐き出したあと、江南さんはずっと何かを考えこんでいるようだったと。それが、「大切な人」のことだったのだろうか。


「大切ってよくわからないね。ときによって変わるものだから。かつて大切だったものも、状況が変われば、そうじゃなくなっちゃう。そういうの嫌だな、って思うけど、変わらずに大切なものも存在するのかなって」

「そうか」


 きわめて抽象的な言葉だ。だけど、その言葉には俺も同意する。


 失ってなお、大切だったと感じさせられることもある。だからこそ、後悔することもある。


 江南さんにも、そういう存在がいたのだろうか。


「それだけじゃなくて。これから生きていくうえで、新しく大切になるものもあるのかなって。だから、少し前を向いて歩こうかなって考えた」


 そこで、江南さんが振り返る。


 照れくささの入り混じった、複雑な笑みを浮かべていた。心の奥底にある重たいものに蓋をして、懸命に笑っているようにも見える。


 逆光のなかで、その輪郭が輝いている。鞄を後ろ手に持ち、俺に話しかけながら、どこか遠いところに視線を向けていた。


「答えになってる?」


 俺は答える。


「なってるんじゃないか?」

「なにそれ」


 さっきまで浮かべていた色んな感情を打ち消して、純粋な笑い顔に戻っていた。さっきまでの江南さんはなんだったのだろう。


「あんたには、大切なものがあるの?」

「ああ」

「何?」

「……家族、かな」


 言ってみて、わかった。めちゃくちゃ恥ずかしい。なかなか、江南さんが教えてくれなかった理由がわかった。なんで、俺たちは公衆の往来でこんなこっぱずかしいことを話しているのだろう。


「そうなんだ」


 それでも、言えてすっきりした自分もいた。


「顔、赤くなってる」


 江南さんがクスクスと笑う。さっきまで同じようなことを言っていたのに、すでにいつもの表情に戻っている。


「うるさいな」

「いいんじゃない? やっぱ、あんた面白いよ」

「なんだよ、面白いって」

「ふふ」


 たぶん、俺の反応が面白いってことなんだろうな。江南さんみたいな人にとって、すぐに顔を赤くしたり、わけわかんない理由で怒りだしたりする俺が、興味深いんだ。


 俺は言った。


「江南さんにもう一つ教えてやる」

「急に偉そうになに?」


 微笑ましいものを見るかのようなまなざしだった。


「江南さんが自分勝手な理由。西川以外とまともにコミュニケーションが取れないこと」

「は?」


 俺はつづける。


「せっかく改心したんだし、少しくらいは人とちゃんと接することを覚えようか。俺と西川以外が話しかけても、一般レベルの会話を成立させること」

「え? 嫌だ」


 口元をゆがめている。


「なんで? 改心したんじゃないの?」

「そういうのは、ちょっと……」


 苦々しい顔を浮かべる。これは、あれだな。不真面目になる前から苦手だったのかな。


「……ガキだな」

「へぇ、そういうこと言うようになったんだ。ふぅん」

「だってそうだろ。この年になってまで、友達が二人しかいないって寂しいよ。よほど人間性に問題があるんじゃないかって気がしちゃうね」

「わたしは付き合うべき相手を選んでいるだけだから」

「相手に非がなくても冷たくしたり、先生に意味もなく反抗したりしてるようにしか見えないけど?」

「ふぅん。もう一度言ってみてよ」

「ああ、何度でも言ってやる」


 俺たちは、そんなことを言い合いながら、T字路まで向かうのだった。

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