4. 旧友との再会

幕間 過去

 小さいころ、勉強で苦しい思いをしたことがなかった。


 小学生になり、算数や国語などを習い始めたとき、ずいぶんと簡単だなと思った。1足す1の概念はすぐに理解できたし、国語もいつも使っている言葉だなとしか感じられなかった。幼少期、絵本だけでなく、活字の本に手を出していた俺にとっては、漢字など常識のように感じられた。


 テストでは満点以外をとったことがなかった。30分以上時間を与えられても、解き終わるのは5分後くらいだ。見直しする時間を含めても、必ず半分以上余ってしまう。


 習う内容はいつも簡単なものばかりだ。毎日毎日、先生の長ったらしい授業を聞かなくても、少し教科書を読めば理解することができた。なんで一つ一つ習うたびに、そんなに時間をかけるのだろうか。


 ――大楠くんは、頭がいいんだね。


 先生に愚痴を言ったら、そう返された。確かに、俺には簡単でも、他の生徒にとってはそこまで簡単ではないらしかった。俺と同じくらいできるやつも多くいたが、ほとんど勉強もせずにいい点数をとっているのは俺くらいのものだった。


 小学4年生になったときだった。


 ――なおちゃんは、受験したほうがいいかも。


 母がそう言った。


 ――これだけ勉強ができるんだもの。もっといい学校に行きましょう。


 その言葉に流されるまま、中学受験向けの学習塾に通い始めた。入塾テストでいい成績を収めた俺は、最初から一番上のクラスに所属することになった。


 そのクラスでは、偏差値70を超える者ばかりだった。俺の成績も負けてはいなかったが、学校と違い、誰かに負けることもしばしばあった。


 だが、そんなことはどうでもよかった。他人と比較するよりも、自分のことで精いっぱいになってしまったからだ。


 その学習塾での教育は、鬼だった。


 狂信的だったと思う。塾にもよるのだろうが、俺の通った場所は、いい中学に行く=いい人生を送れるという価値観が絶対的なものと考えられていた。塾講師は繰り返し言う。ここで頑張れたものは、その先に成功が待っている。逆に、中学受験ですら頑張れないようなやつは、どうしようもない学校でどうしようもない人間になるだけだ。


 少しでも授業を受ける態度が悪いと恫喝された。自分が恫喝されなくても、他のやつが胸倉をつかまれながら怒鳴られている姿を見るときもあった。恐怖と、この人たちに付き従わなければという使命感。とにかく必死に勉強していれば褒められたので、いつしか俺も母も塾の勉強を第一義に考えるようになっていった。


 ――目指すなら、一番上じゃなきゃだめよ。


 緩い気持ちだった母も、繰り返し俺にそう言うようになった。


 今にして思えば、ほとんど洗脳に近かったと思う。


 成績が悪ければ悔しがらなければいけない。成績が良くても、さらに上を目指さなければならない。とにかく、懸命に食らいつく姿を見せつづけなければならない。


 必死だったから、学校の授業にはさらに興味がなくなった。のんびりとした先生、生徒たち。どこか遠いところに存在するもののように思えた。


 自分が戦っているフィールドよりもはるかに低い。こんなところにいるくらいなら、家で勉強していた方がましだ。宿題はますますやらなくなったし、夏休みの課題も全部平気で無視した。塾で出される宿題だけをやる生活がつづいた。


 六年生の冬。すべての集大成が、受験結果として現れた。


 結論から言えば――失敗。


 第一志望だった学校には入れなかった。他の志望校全てに合格したが、今までの努力は何だったのだろうという虚無感に包まれた。


 悔しかった。4年生からの3年間、遊ぶ時間すらなく、勉強漬けの生活を送っていたにもかかわらず受からなかったという事実に辟易した。


 それと同時に、なんであんなに頑張ってたんだろうという疑問すら湧き上がるようになった。


 しょせんは中学受験だ。いい学校に行ければその後の受験もうまくいきやすいかもしれないが、人生に直接的に影響があるのは大学受験以降だろう。


 ――あれ?


 なんで俺はその学校にどうしても入りたかったのだろう。よくわからなくなっていた。


 小学校には、ほとんど友達がいなかった。休み時間に遊ぶくらいなら教室に残って勉強していたし、そもそも他のやつらを見下していた。自分よりも低い次元に存在する人間として見向きもしてこなかった。


 だから、卒業後、俺にはほとんど何も残らなかった。


 残ったものは、妙に高いプライドだけだ。


 そこまで行きたいわけでなかった私立の中学に入学すると、違和感はますます強くなった。自分の居場所がそこにあるように思えなかった。ふわふわとした気分がずっと続いていた。


 つまらない。なにもかもがつまらない。自分は特別な存在だと思っていた。だけど、こうして急に受験から放り出されると、自分には何もないことに気がつく。

 自分の中に、今までにない衝動が芽生えた。


 それは、言葉には形容しがたい、一種の破壊願望に近いものだった。


 ある日、貯めていたお年玉を手に美容院に向かった。


「髪を染めたい」


 選んだ色は、オーソドックスな金髪。そこそこ長かった髪の側面を刈り上げ、頭頂部付近にメッシュを入れた。


 謎の満足感を覚え、その姿で家に帰ると、当然怒られた。


 ――戻してきなさい。


 なんでだろうか。俺はそう言われたとき、人生で一番腹が立った。


 だから、無視してやった。


 学校でも当然怒られた。生活指導の先生に、密室で詰められた。


 関係なかった。俺には、先生と塾講師が重なって見えた。


 オトナなんてそんなもの。決まりきったレールの上に乗せたいだけなんだ。


 俺は自分のクラスメイトを見下していた。


 教師も見下していた。


 さらに、両親のことも見下していた。


 俺は、このくだらない世界の中で、自分という存在を確立させたかった。自信がなかった。自分には何もないと思っていた。だからこそ、他とは違う自分を演出したかった。


 最初に学ランの第一ボタンを開ける。


 第二ボタン、第三ボタン。徐々にボタンが下がっていき、最終的にはすべてのボタンを開けるようになる。


 下に着ていたYシャツはTシャツに変わり、靴下はますます短くなっていく。


 授業をまじめに聞かず、サボることが多くなり。


 眉間にしわを寄せることがさらに増えていく。


 そうして、俺という不良は完成した。


 俺の人生における、最大の誤りだ。

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