第3節 不明快
「実は、もう一週間も前のことなんだけど」
三人が立ち寄ったのは、劇場に入ったビルから程近い駅ビルの最上階に備えられたファミリーレストラン。食事時を外して閑散とした店内で、柾は仕方なく自称・佐重喜三洋子の話を聴くこととなった。
柾としては、赤の他人が知り合いを名乗っていようとどうでも良かったのだが、お人好しな詩凪の方が関心を持ってしまったため、こんなことになってしまった。要らん人物と遭遇してしまった自らの不運さを嘆く。
けれど、詩凪が気にしている以上、放っておくわけにもいかず、柾はこの場所にいる。高純度な慈善の心を持ち合わせた彼女が憎い。が、そこが彼女の美点であり、柾が惚れ込んだところでもあるので、実に難儀だ。
「私には一つ年下の妹がいてさ」
注文したコーヒーにミルクを入れ、スプーンでかき混ぜながら、自称・三洋子は徐に口を開いた。
「その日、妹と一緒に買い物に行ってたんだ。で、その帰りにそこの駅前の広場を通ったんだ」
と、窓の外を指す。眼下には、さっきいた南口広場とはまた別の、黄色のタイルが敷き詰められた半円形の北口前の広場があった。直線部分はこちら側、円弧の向こう側はタクシーや迎えの車が通るロータリー。半径五十メートルほどの小さめな広場である。窓の限られた視界で見えないが、建物入口よりも低い位置に作られていて、階段を数段下りる必要があった。
ここを横切っているとき、人にすれ違ってぶつかってしまったのだ、と彼女は言う。その拍子に身体のバランスを崩し、妹を巻き込んで二人一緒に階段から転げ落ちたのだそうだ。結構派手に転んだらしい。階段とはいっても五段しかなかったので、お互いかすり傷程度で済んだというのだが。
けど、と三洋子は手を自分の身体を指し示す。
「起き上がってみたら、妹と身体が入れ替わってた。これは妹の身体」
柾が一目で知り合いと見分けられなかったのは、そういうわけだ。
柾の知る三洋子は、普段スレンダーでボーイッシュな服装を好む、いわゆる〝カッコいい女性〟だ。すっとした目元に鼻筋、細い唇と、まるで筆で書いたような顔つきで、ストレートヘアーには、いつも紺色の中折れ帽を被せている。
だが、現在目の前にいる三洋子は、実に女の子らしい女の子だった。ふわふわとした細い毛を赤いシュシュで高く結い上げ、裾と肩の部分がオーガンジーで飾り付けられた桜色のカットソーと赤い色のフレアミニスカートで身を飾る。足下はヒール付きの白いサンダル。フェミニンでカジュアルなスタイルだ。顔も、猫のような大きな目に低い鼻、唇もふっくらとしていて、まるで正反対。
これで
「お互いどうしよう、ってなったけど、どうしようもなくて。それで一週間、妹のふりをして過ごしてた」
「ああ、だから今週の講義は大人しかったんですね」
今週の講義では、三洋子はじっと椅子の上に座るばかりで、成り行きを見守っているだけだったので、妙だとは思ったのだ。体調が悪かったのだろう、と結論付け、授業後はそのまま忘れてしまったのだが、今こうして話を聞いてみてみれば、そういうことだったのかと納得が行く。
これまでしてきたことが全くわからないのだから積極的に動くことなどできるはずもない。見知らぬ場所でぽつんと残された気分を味わっただろう三洋子の妹が、少し哀れだ。
「でもこの舞台だけは気になってさ、妹らしくはないとは思ったんだけど、来ちゃったんだ。チケット取ってたし。それに……」
そこで三洋子は声を潜め、躊躇っているのか、それとももったいぶっているのか、やけに言葉を引き延ばす。
「言われたんだ」
「言われた? 誰に、何を」
「占い師。今日ここに来れば、誰かが助けてくれるって」
占い師。柾は失笑した。奇妙なことが起きたからと、仕様もない相手に頼ったものだ。藁にもすがるとはこういうことなのか、と一人思う。
「それが僕だと」
「私は思った。それとも彼女かな?」
そう言って、三洋子は詩凪を見る。
「私?」
「男とは言われなかったから。霧沢くんだと、学校に行けって言われそうだし」
なるほど、それなら確かに詩凪の可能性があるかもしれない。
紅茶にも口をつけず、ずっと黙っていた詩凪は右手を口元に当て、考え込む。
「……まさかとは思うんだけど……」
自信はあまりないようだが、思い当たる節があるようで、ぽつりと詩凪は呟いた。
実は、柾のほうにもある。その占い師の言うことが確かだったとして、詩凪にできること言ったら一つだ。
「妹さんに、会えますか」
「うん。家にいると思うよ」
こんな状態だし、と我が身を示してみせる。
まあ確かに、誰かとすれ違い、姉の振りをするリスクを思えば、家に引きこもっている方が楽だろう。
その妹を、ここに呼んでくれないか、と詩凪は頼んだ。
「どうにかなるの?」
「……判りません」
正直に詩凪は答えるが、でも心当たりはあるんだよね、と三洋子は確信した風であった。その言葉になんとなく〝探り〟のようなものを感じて、柾の視線が自然厳しくなる。
だが、三洋子は柾に構うことなしに、その童顔に似合わぬ余裕のある大人の笑みを崩さずに続けた。
「いや、こういうオカルトってあるんだなって思ってさ」
しかも、さっき見た演劇にそっくりだ、と自嘲気味に笑う。確かに、一つの身体に別の魂が入るだなんて、そっくりだ。何の因果かと薄気味悪く思う。
「でも、君たち全然否定しないんだね」
そういうの詳しいの、ととうとう直球に尋ねてきた三洋子を、柾は「先輩」と止めた。
「好奇心は猫をも殺すって言葉があるの、知ってますか?」
冷めた目で、相手を見下ろす。詩凪が乗り掛かった以上、柾とて協力することになるわけだが、必要以上に相手と関わる気はない。
これ以上踏み込むな、と暗に牽制すれば、相手には意図がきちんと伝わったようで、
「霧沢くんが言うと、なんだか怖いなぁ」
と、苦笑いを浮かべた。
三洋子の姿で現れた妹、佐重喜千歌は、コーディネートを姉の趣味に合わせてやってきた。いつもの紺の黒い中折れ帽に、白いワイシャツ、青色のベスト。それから、太いベルトを巻いたスキニーのジーンズ。姉のイメージに合わせて、スレンダーでボーイッシュなスタイルだ。しかし、艶やかな長い髪と、妹と揃えたサンダルが、女性らしさを引き立てる。
柾が普段知る三洋子の姿が現れて、本当に姉妹で中身が入れ替わったのか、と今更ながら実感する。疑っていたわけではない。なにしろ、三洋子の現状には事例があるのだ。
他でもない、〈ルルー異録〉の事例が。
三十分後、千歌の姿の三洋子に呼ばれてファミレスにやって来た、三洋子の姿の千歌――ややこしいので、以後は
「――それで」
千歌は本来の姿とも程遠いぶっきらぼうさで口を開いた。不貞腐れた表情は三洋子の顔に合っていない。不細工だ、と柾は思う。表情一つで人の顔は変わる。これはその最たる例だ。
「どうなのさ」
「はい。その……心当たりがあります」
不機嫌な千歌の威圧にやられてしまったのか、詩凪は半ば縮こまり、困ったように柾を見上げた。
「……でも、どうすればいいんだろう」
客を前にして専門家がする表情ではないのだが、柾はどうしても詩凪には甘くなる。もっともな指摘は後回しして、頼ってくる幼馴染に救いの手を差し伸べた。
「どういう状態なの?」
「ページの気配はあるの。でも、ページそのものが見当たらない」
それから詩凪は躊躇いに躊躇って、
「……誰かが魔書を使ったときに似ているんじゃないかな、と思う」
それは、決して柾にとっては驚くほどのものではなかった。
「なら、そうなんだろうね」
素っ気ない返事に、詩凪が驚いた表情を浮かべる。
柾は当初、〈異録〉のページは篠庭の地域の外に出ることはないだろう、と予想した。仮説が正しかったことは、この一年近くで証明されている。既に詩凪の手元には〈異録〉のページの半分以上が集まっているのだ。仮に全国に散らばるような事態であったとしたら、このようには行くまい。
隣接地域の可能性もないことはないだろうが……魔書の特性を考えると、やはりそれはないだろうと柾は推測している。
魔書はただの本ではない。本そのもの、表紙や裏表紙、ページ一枚一枚に至るまでの全てが魔術の体現だ。魔術は法則を重要視する。一つの街で起こった事象を再現する魔書が、あえて〝街〟という限定を逸脱するとは思えない。
そんな魔書の事象が、〝特定の範囲〟の外に現れたのだとしたら。
それは人為的なものに相違ない。
「そんな……まさか」
信じられない、と詩凪は呟く。正確には信じたくない、だろう。あんなものを人が好んで使うとは、詩凪は思いたくないのだ。
ただ、それがあくまで自分の願望でしかないことはきっちりと受け止めているようで、それ以上は否定しなかった。
しかし、誰かが〈異録〉のページを持っているとして。
いったいどのようにしてその人物を探し出せば良いものか。
「まずは、入れ替わりが起こった場所に行ってみようか」
とりあえず、事件の現場へ。刑事ドラマではないが、一度そこを見ておくことで、なにか手掛かりを得ることもできるかもしれない、と考えた。
柾の提案に詩凪も賛同したようで、頷いたあとに、案内してくれますか、と三洋子に尋ねてみたのだが、
「それで何か分かるわけ?」
三洋子の隣から、苛立たしげな声が遮った。千歌が柾と詩凪を睨み付けている。
「千歌」
「さっきから分かんないとか、だろうとか、だと思うとか、曖昧なことばっかり! できるのかできないのかはっきりしてよ! できるんなら、早くなんとかして。できないんなら、うちらを面白半分に振り回すの止めてくれる!?」
「千歌、こっちが頼んだんだから」
三洋子が妹を窘めるが、千歌は止まらなかった。
「だから、お姉ちゃんもなんでこんな訳のわからない人たちに頼むのよ! 占い師が言ってたからって、そもそもその占い師、当てになるわけ!?」
「それは……」
本当のところ、信じてはいないのだろう。三洋子は俯いてしまった。
そんな姉の態度は、妹の背をさらに逆撫でしてしまったらしい。
「とにかく、振り回されるのはもうたくさん。できもしないなら、期待させないでよ!」
喚きたてる千歌に、柾の機嫌は降下していく。
確かにこちらは、相手を不安にさせるようなことを言った。訳の分からない事態になって、やっと希望が見えたと思ったら、憶測ばかり言うものだからさぞかしがっかりしたのだろう。その絶望は分からないでもない。
しかし、こちらは頼まれて話を聞いている立場だ。期待外れだから、と八つ当たり気味に喚きたてるとか、二十歳になった大人のすることではないだろう。まして、詩凪は年下で未成年。自分と同じ年齢なら、内心はどうあれ表面を取り繕うくらいの事をしてみせればいいのに。
「じゃあ――」
「待って、マサくん」
ずっとそのままでいれば、と言おうとしたことを察したのだろうか。口を開きかけた柾を、詩凪が押し止めた。肩に触れた手は、結構力が入っている。ポーズでもなんでもない。本気で柾を止めようとしている。
そのまま黙ってて、とでも言わんばかりの強い視線を受けて、おとなしく引き下がることにする。さっきまで全面に押し出していた弱々しさを打ち消して、仕事人としての姿が顔を出した。
詩凪の凛々しい姿に、柾は少しだけ機嫌を直した。普段にこにこしている彼女は魅力的だが、こういう姿もまたとても良い。幼馴染の柾の立場だとなかなか引き出せない姿なので、こういう詩凪は柾にとって、とても貴重なのだ。
「不安は、もちろんだと思います。私が未熟だから。ごめんなさい」
背筋を伸ばし、ぴしっとした綺麗な礼をしてみせる。頭を下げられてしまったほうは、鼻白むしかなかったようで、呆然と詩凪のことを見下ろしていた。
「不安にさせて申し訳ありません。けど、さっきも言ったように、この現象に心当たりがあるんです。時間は掛かるかもしれませんが、絶対になんとかしてみせます。だから――」
お話を聴かせてください、と真正面から見据える詩凪に観念したのか、千歌は唇を引き結ぶ。そっぽを向いて不貞腐れて、子供じみた態度は相変わらずだったが、詩凪に反抗しないなら、それで良しとした。
ただ、四人の間に漂う空気は微妙だ。不完全燃焼した千歌の怒りが漂っているようで、三洋子は居心地悪そうな表情をする。
「……えっと、それじゃあ……入れ替わった場所、だっけ?」
この空気をどうにかしようというのか、躊躇いがちに三洋子が声を上げる。
「行ってみようか。……ああ、謝礼の前金がわりに、ここは私が払っておくよ」
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