第3節 Après l'école:当主二人

 授業を受け、休み時間は友達とはしゃぎ、と昼間は普通に学生として過ごして。放課後は、そのまま真っ直ぐ家に帰るのが、詩凪の高校生活だ。

 部活動には入らなかった。言うまでもなく、家での仕事があるからである。

 魔書専門のルリユールという仕事。

 魔書は多く、その反面で修復師は少ないものだから、穂稀の家にはしょっちゅう魔書修復の依頼が来る。他にも、魔書を製本するという仕事もある。文字通り誰かが書いた原稿を一冊の本にするのだ。

 魔書は、大半が直筆だ。一冊一冊が原本オリジナルであるからこそ、そこに筆者の力が宿り、魔の本として存在する。と、同時に強い想いも籠められてしまうから、あの厄介な〝再現〟が起こるようになるのだ。

 それらの仕事が、だいたい週に二、三冊といったところだろうか。


「今日は何か新しいの届いた?」


 白い石が敷き詰められた穂稀邸の玄関。学校から帰宅した詩凪は、出迎えてくれた間宮に真っ先に仕事の確認をする。彼は執事としての仕事の他に、未成年で学生である詩凪に変わって経理やら手続きやらを代行してくれる、秘書のような役割も請け負ってくれていた。


「今日は、一冊届いております」

「分かった。着替えたら書斎に行ってみるね」


 頷いて二階に上がろうとした詩凪だったが、ちょうどそのとき玄関のベルの音が鳴った。

 二人の動きが止まる。

 シダーの枠に嵌まり、アイアンワークで蔦模様に飾り立てられた磨りガラスの向こうに、一つ背の高い人影が見えた。


「お客様だね」


 間宮は頷くと、観音開きの扉の外に向かって声を掛けた。


「少々お待ちを」


 間宮はさっと素早く扉の前に立つと、詩凪から見て左側――相手には右側。ベルはそちら側にあるのだ――を開けた。

 立っていたのは、暗色のスーツ姿の長身の男。齢は二十の半ばを過ぎた頃。清潔感が出るように整えられた黒い髪。柔和に見えるはずの顔を飾る細い長方形の眼鏡の向こうで、厳しい光を湛える薄茶の瞳。ビジネスマンといった装いだが、纏う気配が些か殺伐としている男だった。

 その人の名を、詩凪は知っていた。


「……さかきさん」


 霧沢榊。柾の兄にして、霧沢家の現当主だ。


「柾はいるか」


 挨拶もなく唐突な質問に若干慌てつつ、詩凪は柾についての記憶を浚う。間宮に詩凪不在時の来客の有無を尋ねるまでもない。


「え……マサく」


 いつも通り〝マサくん〟と言いそうになって、慌てて訂正する。


「――柾さんは、今日は確か四限まで講義があって……帰ってくるのは、六時頃になると思いますけれど」


 都内の専門学校に通う柾は、詩凪たち以上の遠距離の電車通学だ。一応他県を跨がずに移動することができるのだが、中心地たる赤庭駅から数えてみても、移動時間は一時間を越える。

 専門学校の四限目は、四時半頃に終わる。その後真っ直ぐ青篠のこの住宅街に戻ってきたとしても、着くのは夕方六時前後になる。

 つまり、五時前のこの時間、彼はまだ電車に乗って移動しているはずだ。

 応えながら、詩凪は内心首を傾げていた。兄なのに、柾の予定を知らないのだろうか。


 榊は、そうか、と言ったきり黙り込んだ。顔が顰められたところを見ると、当てが外れて苛立っているようだ。……緊急の用事でもあったのだろうか。


「調子はどうだ」


 またも唐突に尋ねられ、詩凪は目をぱちくりさせた。


「え?」

「〈異録〉の回収だ」


 ああ、そのことか、と腑に落ちた。詩凪を気遣うなんて、妙だと思ったのだ。調子はどうだ、など。もう少し具体的に訊いてくれれば良かったのに。


「どう……なんだろう」


 順調です、とはとても言えない。魔術師としてはまだまだであるものの、凌時という戦力が追加されたことはプラスになっている、と感じる。ただ、〈異録〉のページの回収は、怪異が発生しないことにはできないという状況にあるわけだから、目覚ましい改善になりようがないのも事実。

 返答に悩む詩凪を、榊は睥睨し鋭く叱りつける。


「曖昧な言葉を返すな。それでもプロか」

「……はい。ごめんなさい」

「言葉遣いもだ」


 鋭く指摘され、詩凪は縮こまる。


「そんな風で、顧客を不安にさせるつもりか。質問には明確な答えでもって返せ」

「……はい」


 これだから子供は、というような蔑まれた目で見下ろされる。このあたりは、詩凪に優しい柾と違う。それどころか嫌われているような気もして、詩凪は昔から榊のことが苦手だった。必要以上に萎縮してしまうのも、この容赦ない眼差しの所為だ。

 なんとか頭を回転させて、言葉を紡ぎ出す。


「この一年で、半分は集めることができました。ですが、怪奇現象の情報が少なくて、捜索の手がかりがなかなか得られないのが現状です」


 言葉を切って相手の様子を窺えば、詩凪の回答に満足していないのが判り、重たく口を開いた。


「……つまり、難航しています」

「新入りが来たのに、その程度か」

「……申し訳ございません」


 詩凪は縮こまって頭を下げた。


「霧沢にもご迷惑を」


 恐縮しきりの詩凪を前に、ふん、と榊は鼻を鳴らした。


「……まあいい。柾を急かすまでだ」


 柾の所為ではないのに、とは言い返せず、詩凪はただ頭を下げ続けた。白い玄関に落とされた黒い革靴は、傷一つなくピカピカに磨きあげられている。勤め人の心構えとはそういうものなのだろうか、と詩凪は思う。

 精一杯やっているつもりだけれど、まだ甘いのだろうか。詩凪はまだ子供だから――。


「お話し中のところ失礼いたします。お茶をご用意いたしましたので、応接室へご案内いたしますわ」


 背後から柔らかい女性の声が割って入る。いつもきびきびとしたキキらしからぬ、ふんわりとした感じの喋り方だ。

 張りつめた空気に水を差されて、榊は白けたような顔をした。


「結構だ。もうここに用はない。帰らせてもらう」


 キキの申し出をぴしゃりとはね除けて、榊は直ちにその言葉を実行してみせた。挨拶もなく、見送りをする隙も与えず、一方的に背を向ける。

 唐突な終わりに、詩凪は身の置き所がなくなったような気分を覚えた。


「……詩凪」


 心配そうに声を掛けてきたキキに、詩凪は笑みを作ってみせた。


「大丈夫。榊さんがいうことは、もっともだし」


 知り合いだからと甘えていたのは事実だ。他人相手ならもう少しうまくやるつもりだが、〝つもり〟は〝つもり〟に過ぎず、いつボロが出てしまってもおかしくはない。

 だから、日頃から相手を問わずきちんとしろ、ということなのだ、と詩凪は好意的に解釈した。

 しかし、キキはまだ憤慨しているようだ。


「でも、自分はなにもしないくせに、〝その程度〟って」


 どうやらページ回収に関わっていないくせに、横から口を出してくるのが気に入らないらしい。

 ――でも。


「榊さんもマサくんと同じように、お父さんをのか知りたいんだよ、きっと」


 榊と対面する機会はあまりないが、一年前のあの日から、榊には焦りのようなものが見えていた。その理由は、自分の親の死にあるのだろう、と詩凪は推測している。

 ――自分もそうだから。


「じゃあ私、着替えてくるね」


 これ以上この話題は避けたくて、まだ不服そうなキキを残し、詩凪は二階に上がった。自室に戻り、白いシャツにプリーツつきのワインレッドのロングスカートに着替えたあと、書斎へ向かう。両親が亡くなったあの書斎だ。

 藤色の絨毯を踏み、黒檀の机の上を確認する。今日届いた本を確認する。古い洋書だった。きっと何年にも渡って大事に受け継がれてきたものだろう。年月で表紙もページも擦りきれていたが、大切に扱われていることが良く分かった。


「えっと、表紙の修整……だけでいいかな」


 本の状態と依頼状の内容と、今引き受けている仕事の残数を確認しながら、これから取りかかる作業の段取りを脳内で組み立てる。今日来たものは急ぎの必要はなさそうなので、先に来た依頼を片付けてからでも良さそうだ。

 とはいえ、問題があるのは表紙の部分なので、簡易的な補修はしなければならない。

 詩凪は、鍵付きの引き出しから紙を一枚取り出した。機械印刷に日常的に使われる真っ白なPPC用紙に、魔方陣が描いて作り上げたブックカバーだ。これも魔書専門のルリユールが作り上げた、便利道具の一つだ。

 ブックカバーを今日届いた本の表紙に被せて、仕事用の書棚にしまうと、部屋を出て、すぐ横にある階段を下りた。下りた先にあるのがルリユールの工房だ。


 穂稀のやしきは比較的大きな物件であるが、実は一階部分のおよそ半分がルリユールの工房で占められているので、実は部屋数はさほど多くない。

 一階は工房の他に、食堂とキッチン、応接室。そして、風呂場や洗面所とお手洗い。それから物置。

 二階は、先ほど居た書斎の他、現当主の詩凪の部屋と、閉ざしてしまった父母の部屋、叔母がたまに帰ってくる部屋。間宮夫婦とキキの部屋の他、空いた使用人の部屋が二つに、凌時が使っている客間が一つと、それから談話室。洗面所とお手洗いは、こちらの階にもついている。

 部屋数や雇える使用人の上限を見てみると、やはり普通のお金持ちの家とは違うのだろう。


 そして、その普通とは違うお嬢様は、工房に入って道具一式を弄るのを日課としていた。とはいえ、平日となるとできることは限られる。今日は本を修復するための下準備だけして作業を終えた。

 一時間ほど籠っていただろうか。夕食にはまだ早かったが、特にすることも思い付かずキキたちがいるだろう食堂へ行くと、いつの間に訪れていたのだろうか、柾がいた。相変わらずの大正レトロのルックで、アイボリーの布の張られた猫脚椅子に寄りかかり、キキの出した紅茶を堪能している。


「マサくん、どうしてここに?」

「なあに、詩凪。来ちゃいけない?」

「そんなことはないけれど」


 親しくしている幼馴染の訪問を拒む理由はないが、弟を捜していた榊のことが気に掛かる。


「ふうん?」


 曖昧な表情をしている詩凪を柾は訝るが、問いただすのは止めたようだ。まあいいか、と軽く流して、


「そんなことより、帰りに電車の中で気になる話を聞いたんだ」


 赤庭市の北西に、銀線ぎんせん峠という場所がある。銀線滝という滝がある観光スポットとして有名な峠なのだが、その滝への道行きの途中で奇妙なものを見たというのだ。


「暴れ馬、だって」

「馬?」


 奇妙どころか銀線峠では珍しくないものの名に、詩凪は首を傾げた。銀線峠は、滝だけでなく、そこにたどり着くまでの登山道が紅葉スポットとして昔から有名で、観光用に整えられていた。

 その一つに馬車がある。歩かずに景色を楽しみたい観光客向けに用意された馬車だ。紅葉回廊と名付けられた登山道はきちんと整備され小さな子供でも歩けるようになっているが、なにぶん山の上なので斜面はきつく、それなりの苦労を強いられる。そんな場所に置かれた馬車は、珍しさも手伝ってそこそこの人気があった。

 だから、馬を見かけるなど銀線峠では珍しくないことなのだが。


「目撃者が見たのは、峠の入口だよ。それも自動車用道路の上」


 馬は雪のある季節以外は山の上で飼われていると聞いたことがある。峠の入口で見かけるなんてあり得ないことではないだろうが、そのわりにニュースになってないようである。本当に馬が暴れたものとは思えない。


「確かめてみる?」

「うん、そうだね。行くだけ行ってみよう」


 怪現象が暴れ馬というだけで不吉であるし、〈異録〉の怪異であれば、なおさら放っておくわけにはいかない。

 それに、榊の言葉を気にするわけではないが、〈異録〉のページを早く集めてしまいたいのも事実だ。


「でも、凌時さんはどうするの?」

「あ……」


 キキの言葉で思い出す。そういえば今朝、彼に魔書の修復を頼まれていたのだった。


桝水ますみがどうかした?」


 事情を聞いた柾は、次第に呆れた表情に変化していき、最後には失笑した。


「彼も間抜けだね」


 状態にも寄るが、夜と言わず先に渡しておけば、学校から帰った後に詩凪が見られただろうに。その言葉に詩凪は羞恥を覚えた。詩凪もまた、そこまで考えが回らなかったのである。


「まあいいさ。帰ってきてから考えればいいんじゃない?」


 確かに、今じたばたしても仕方がない。


「じゃあ、せめて連絡だけ入れておくね」


 戻ってきたらすぐに行動に移せるように。

 詩凪は携帯電話を開いた。

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