第2章 穂稀の若き当主

第1節 Memoire:悪夢

 事の発端は一年前。

 まだ卒業前の中学生だった詩凪しいなは、いわゆる反抗期の真っ只中だった。


「父様ったら、頭が固いんだから」


 風呂に入ってネグリジェに着替え、もうあとは寝るだけとなった詩凪は、ようやく乾いた髪をブラシで梳かしながら、部屋を暖めていた暖炉の後始末をしてくれているキキに愚痴を溢した。

 桜色の壁紙に、ラベンダー色のシーツのベッド。家具はすべて木製のアンティーク調で、木の色そのままか、ときおり白色。少女趣味に満ち溢れた、如何にもお嬢様のお部屋。それが詩凪の自室だ。


「別に、部屋の中から持ち出した訳じゃないのよ? ただちょっと棚から出して、めくってみただけなのに、『何も知らん未熟者が! 好奇心は猫をも殺すって言葉を知らないのか!』って、説教なんかしだして」


 どうせ何も危ないことは起きないんだから、あんなに怒ることないのにね、と詩凪は口先を尖らせた。


「それで夕食の間ずっと黙りだったわけ。反抗期ね」

「そんなんじゃないってば」

「じゃあ、何?」


 問われて、ちょうどいい言葉が思い付かず、詩凪は黙り込んだ。髪を梳かしていた手が止まる。

 灰を掻き回した火掻き棒を暖炉に立て掛けたキキは腰を伸ばし、詩凪を振り返った。


「なんにせよ、奥さまはお困りだったわよ。お母様のためにも、そういうことをご夕食の場までに持ち込むのは控えた方がいいわ」

「はーい……」


 ふてくされた様子で返事をして、ブラシを木製の鏡台の上に置く。童話〈白雪姫〉に出てくるような楕円形で蔦のような縁の鏡に映った自分はそれこそ反抗期の娘そのもので、ますます自分が駄々をこねているのを見せつけられているようで、面白くない。

 スツールから腰を上げて、ベッドの方へ行く。宿題はさっさと済ませてしまう詩凪は、寝る前に本を読むのが習慣だった。サイドテーブルに置かれていた文庫本を手に取り、ランプを手元に引き寄せる。それを見ていたキキは、部屋の明かりを落とそうと準備する。


 お休み、の言葉が互いの口から出る直前。

 部屋の扉が静かに叩かれた。


 思わずキキと顔を見合わせた詩凪は、彼女に扉を開けるように促すと、潜り込みかけたベッドから出て本を置き、勉強机の椅子に掛かったガウンを羽織る。


「お嬢様、お休み前に失礼します」


 部屋の前に立った間宮が申し訳なさそうに一礼する。


「どうしたの?」

「たった今、霧沢家のご当主がお目見えになりました」

「こんな時間に? ……マサくんもいるの?」


 現在もそう変わりはしないかもしれないが。この頃の詩凪は、特にまさきに懐いていた。優しくて頼れるお兄さんというのもあっただろうが、それよりも一足早く大人になる彼に、憧れのようなものを抱いていたのかもしれない。とにかく、〝柾〟という存在が気になって仕方がなかった。

 柾と同い年のキキも年上には変わりないのだが――彼女の場合ずっと一緒にいるのと、仲は良くとも主人と使用人の立場の違いの所為か、柾ほどの強い憧憬はなかった。その代わり、彼女とは親友同士。何でも話せる気の置けない仲だ。


「いえ、ご当主お一人です」


 顔にも態度にも出さなかったが、がっかりしたことは否定できない。


「ご挨拶したほうがいいかな?」

「夜分ですから、とご遠慮されました。それに、旦那様とお仕事のお話があるそうです」


 穂稀ほまれ家と霧沢家は古くからの付き合いだ。それこそ戦前から続く長い付き合い。片やルリユール、片や〝切断〟を得意とする魔術師と、魔術の方向性は全く違うが、だからこそ互いに助け合ってきた……のだという。

 その経緯を、詩凪はよく知らない。ただ、家が管理している魔書の一つが、もとは霧沢からもたらされたという話だ。


「なら、邪魔しない方がいいね」


 仕事、と聴いて詩凪はそう答える。詩凪はいま夜着であるし、父とは言い争ったばかりだ。邪魔をして、さらに父を怒らせたくはないな、と詩凪は思った。


「教えてくれてありがとう」

「滅相もございません。……お休みなさいませ」

「お休み、間宮」


 一礼して部屋を出ていったまみやに続いて、キキもまた開け放しの扉の前に立った。


「私も失礼するわね」

「うん、お休み、キキ」

「お休み。夜更かししちゃダメよ」

「はーい」


 ぱたん、と扉が閉じられたのを確認してから、詩凪はベッドへと潜り込んだ。枕をヘッドボードに立て掛けてクッションがわりに背にもたれて、サイドテーブルの本を手に取る。友人に借りた少女小説。ルリユールの家系で、如何に危険な物か知っているからこそ、魔書をベッドに持ち込むなんて危ないことはしない。

 ……そう。詩凪だってそれくらいの事は心得ているのだ。だから、一代目が異国で買ったという古い魔書を、魔術の掛かった書斎から持ち出すこともせずに、細心の注意を払って読んでいたというのに。


 父清詞きよのりは、基本的に優しくて詩凪の話をよく聴いてくれる良い父親ではあるのだが、職人気質とでもいうのか、少々堅物のきらいがあった。一度こだわり出すと、納得行くまでとことんこだわる。そのくせ、思い通りにいかないと苛々して悪態を吐く。他人に当たり散らすことまではしないが、苛立った父親を前にすると家族はいつも困ってしまう。

 だが、それよりもいっそう困るのは、ルリユールとしての技術を学ぶ詩凪にも、同じ繊細さを望むことだった。確かに製本の作業は、一つ一つの工程に細心の注意を払う必要があるし、作業によっては手際の良さも求められてくる。だが、父は自分の好み・こだわりでしかないところまで、細かくグチグチと言ってくるのだ。

 つまり父の技術を完全に真似コピーしろという。そんなものは無理だ、と詩凪は思う。あんな癖のある作業、完璧に真似できるはずがない。


 そんな父に対して、母あいなは、おっとりとマイペースな人間だった。彼女も結界を得意とする魔術師なのだが、性格は話好きで、来るもの拒まず、という感じ。近所のお母様方を頻繁に招いてはお茶会を開いたりしているのだから、魔術師としての凄みがまるで伝わらない。

 でも、そんな母は人の気配には敏感だった。今日も父と詩凪の不機嫌を敏感に感じとり、夕食の間は場を和ませようとしたり、父や詩凪を宥めたりすることに終始していた。どちらも頑固だった所為で結局うまくいかず、夕食が終わる頃にはずいぶんと疲れた顔をしていたが――。

 悪いことをしてしまったな、と詩凪は今更ながら振り返る。なるほど、キキの言うとおりだ。母もきっと食事の味なんて感じられなかったことだろう。こういうことは夕食の場に持ち込むことではない。


 明日謝ろう、と決意して本を閉じる。どうも父と揉めたことでいろいろ考えてしまい、物語に集中できそうにない。

 こういうときはさっさと寝てしまうに限る。

 詩凪は本をサイドテーブルに置き、ランプを消して温かい布団に潜り込んだ。




 ぬくぬくと気持ちよく眠っていたはずが、不穏な気配に目を覚ました。ネグリジェは汗びっしょり濡れている。暑いのに、寒い。からだの震えが止まらない。

 詩凪は起き上がった格好のまましばらく身を抱くようにしてうずくまり、震えていた。分厚いカーテンに外光を遮られてほとんど真っ暗な中、どうにも部屋の外が気になった。扉の形に漏れ出る光のその向こうに、なにやら禍々しいものがあるような気がしてならない。


 ――今、何時だろう。


 気になるのは、両親だ。自分よりずっと魔術師としての経験のある両親のこと、この気配にはすでに気がついていることだろう。起きているならば、既に対処に向かっている、はず。すぐにこの気配も消える。


 でも、父も母も、間宮もキキも寝入っている真夜中だったら? 寝ている所為で気づいていなかったら?

 詩凪が気が付くくらいなのだから、そんなことはあるはずもないと分かっていても、その可能性を一度考えてしまうと、自分が動かなければいけないような気になってしまう。


 しばらくまごついて、でも結局気になって、詩凪はベッドから下りた。冬の寒さの中だというのに、ガウンも羽織らず、裸足のまま部屋の外に出て、悪寒の原因があるとおぼしき所へ向かう。

 怖いのに、無視できない。行かなければ、と身体が急く。

 二階の廊下を横切る途中、階段の側に置いてある時計の前を通りすぎた。詩凪が寝てから一時間。まだ父も母も起きていることだろう。ならば、自分が行くことはない――。

 けれど、引き返す気にはなれなかった。


 衝動に突き動かされるままに歩いて、恐怖のもとに向かって辿り着いたのは書斎だった。父の仕事場。間宮は霧沢のご当主と仕事の話をすると言っていたから、きっとまだここにいるはずだ。

 なら、どうしてそんな場所から、こんな悪い気配が漂っているのだろう?

 嫌な予感の所為で背中に冷たいものを感じつつ、書斎の扉をノックする。


「父様……?」


 からからに乾いた喉のせいでかすれ声にしかならない。唾で喉を潤そうとしても、その唾が出ない。喉を痛めるのを覚悟で、もう一度声を張り上げた。今度はさすがに部屋の中にも届くだろう声量が出たが、返事がない。


 ばたばたばた、と鳥の羽音のような音がする。


 ドアノブに手を掛けた。一瞬躊躇ったが、思いきってドアノブを回す。それでも慎重に、少しずつ、と思って扉を開けようとしたのだが、隙間が空いたところで内側から力が掛けられて、勢いよく扉が開いてしまった。

 ぶわ、と強い風を感じ、思わず腕で顔を庇う。腕の隙間から窺って、目に入ったのは部屋中を紙が舞う様子。窓を見れば確かに開いていたのだが、ぐるぐると渦を作る様子はとても外からの風によるものだとは思えない。

 いったい何が起こっているのか、と腕で顔を庇ったまま部屋中を見回した。

 渦の中心に当たる場所、黒檀の執務机の前に父が倒れていることに気が付いたときは、詩凪の心臓は止まりかけた。


「父様……?」


 かすれ声は、出所不明の風に掻き消される。父もまた、ぴくりとも動かない。

 父の上には、覆い被さるように柾の父――霧沢の当主が倒れていた。父を庇ってくれているのだろうか? だが、彼もまた動かない。

 そして、詩凪の足元。


「母……様……?」


 深い緑色の絨毯の上、部屋の中へと数歩踏み入れたその位置に、天井を凝視したまま動かない詩凪の母が倒れていた。詩凪によく似た、年齢の割に幼さの残る顔は歪められ、色は青白い。そして、レモン色のゆったりとして動きやすいワンピースが、胸の辺りから袈裟懸けに赤く染まっていた。


「……嘘……っ」


 屈みこんで母の顔に触れる。ひんやりとした頬に触れても、母は瞬き一つしなかった。

 指に浸した血はまだ赤く温かいというのに。

 父のほうを振り返る。霧沢の下敷きとなった父もまた、虚ろな眼を見開いてこと切れていた。


 ばさばさばさ、と。紙が風に舞う音が耳につく。視界が真っ白に染め上げられる。


 それから事態を察した間宮が駆けつけて、両親の死体を運び出してくれて。

 詩凪が我に返ったのは、朝を迎え、父親の死体を引き取りに来た霧沢家の兄弟たちが詩凪の家を訪れた後だった。

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