猟犬
彼は社内で『猟犬』と呼ばれていた。
「すみません」
そう言いながら、書類を片手に彼が寄ってくると、大抵の者がびくりとする。
「あ、君か。何か用?」
「はあ、この交際費の伝票なんですけど――」
そこから彼の追及が始まる。
「――お客様の年間購入金額から考えると、この会食費用は高すぎると思うんですが」
「それは今後のお付き合いを考えた営業としての判断だから、経理がとやかく言うことじゃないんじゃないの?」
「それにしてもおかしくはないですか? 単価が一人当たり一万円を超えています」
「……」
「それに参加者も多すぎると思うのですが。こっちは部長と担当で良くはないですか?」
「……」
大体、営業担当自身が薄々彼と同じことを考えている場合が多いので、途中で反論できなくなって背中を丸めることになる。
彼はまるで由緒正しいアフガンハウンドのような優秀な猟犬で、信頼の置ける実に優秀な男だった。
自分がその直接のターゲットでない限り――という注意書きはつくが。
*
私はそれを『猟犬モード』と呼んでいた。
行きつけのショッピングモール内にある書店に入ると、彼は速やかに探索行動に移行する。
まずは、ハードカバーの最新刊が並ぶ平置き棚のチェックから始めて、次に経済書のコーナーをざっと渉猟する。
実用書の次は文芸書に移行して、最後に文庫本のコーナーで、タイトルをざっと斜め読みした。
その過程で、時折棚から本を取り出しては眺め、そのうちのいくつかを小脇に抱える。その時、実に嬉しそうな表情をした。
この『猟犬モード』の所要時間は概ね一時間。
その間、私は書店の入口付近にあるソファに座って、彼のほうを見つめている。
彼は楽しそうに本棚を渡り歩いているが、おおよそ十五分間隔で思い出したように私のほうを見る。探すような視線で見る。
小さく手を振ると、安心したような顔になって、また探索行動に戻る。
そうして一時間後には、数冊の本を抱えながら戻ってくる。
その時の表情がまるで柴犬のようで、私は大好きだった。
*
私は最初、年下の彼が嫌いだった。
たまに面倒なことを言ってくる経理の若手として、営業部門の中ではすっかり有名になっていて、加えて営業部門の庶務担当である私のところには、苦情しか言いに来なかった。
ただ、その苦情の内容は適切で、私も常々感じてはいたことである。少々、職歴を積み重ねて感覚が麻痺していたために、あえて問題としていなかっただけのことだ。
だから、嫌な顔はしつつも、彼の言葉を真面目に受け止め続けていた。
その日も、営業担当の出張旅費精算書を二人で見つめていたのだが、彼が急に顔をを上げてこんなことを言った。
「あの、本当にすみません」
一瞬、何のことか分からなかった。
「急にどうしたの?」
「いえ、その――」
彼は顔を赤らめながら言った。
「――他の営業の方は最近あまり良い顔をしてくれないし、話を真面目に聞いてもらえないものですから、貴方にばかり質問してしまって。これってすごく負担ですよね」
そして、獲物を見失った猟犬のように実に情けない顔をする。
思えば、その顔を見てしまったことが敗因だった。
*
その時、私は少しだけ目を外していた。
書店に視線を戻すと、本棚の間に彼の姿がない。
そういうことは付き合い始めてから三年の間に一度もなかったので、少々慌てて彼の姿を探した。
すると彼は、書店の隣にある宝石店のショーケースの前にいた。
立ち上がって彼に近づく。
「どうかしたの?」
後ろからそう声をかけると、彼は一瞬だけ顔をこちらに向けて、こう言った。
「あ、その、実はこの指輪が気になって――」
私もショーケースを覗く。
すると、そこには程良い大きさにカットされたルビーが、適度に装飾を施したプラチナリングに収められていた。
「綺麗だね」
「うん。これ、君に凄く似合うと思うんだ」
指輪を見つめながら彼が言う。
その表情は、獲物を見つけたアフガンハウンドのような、真剣で一途なものだった。
――可愛い。
そう即座に思ったが、残念ながら指輪のお値段のほうは全然可愛らしくはない。
私は小さく溜息をついて言った。
「でもこんな値段じゃ、婚約指輪並だね。しかもルビーだし」
彼は顔を上げて、驚いた表情で――まるで柴犬のように私を見つめながら言った。
「えっ、ルビーじゃ駄目なんですか?」
そして、獲物を見失った猟犬のように実に情けない顔をする。
私は思った。
彼は実に優秀な『猟犬』ではあるが、たまに抜けていることがある。
そして――そこが直接のターゲットである獲物には、実に良く響くのだった。
( 終わり )
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