第五章 頡頏(ケッコウ)  8 影浦

 左の頬はまだジンジンと痛む。それでも、初めての海外の地は、武者震いにも似た喜びを感じた。

 英語についてはおそらく平均以上の語学力を持っていると思うが、フランス語は正直分からない。それでも楽しいものだ。名古屋の景色しか馴染みのない影浦にとって、見るものすべてが新鮮であることは言うまでもない。


 不満を言うとすれば、影浦の好きな美術作品を堪能できないところだ。ルーブル美術館、オルセー美術館のあるパリはモナコやニースから遠い。イタリア、フィレンツェのウッフィツィ美術館、アカデミア美術館も遠い。仕方のないことだが、日本から見れば、フランス・イタリアの旅行計画の一丁目一番地に当たりそうな観光名所巡りがごっそり抜けている感覚は否めない。


 道中では、桃原千里も笑顔を見せていた。この喜びが、海外に行くことの喜びなのか、決勝という大舞台で人生の目標としてきた大城優梨と対峙できることの喜びなのかは分からないが、おそらく作り笑いではないような気がしている。そう、高校一年生のときの千里は、笑顔のすべてが作り笑いであったような気がしている。どこか腹に一物隠しているような、そんな笑みだった。千里の最終目標は優梨に勝つことだろうが、決勝に両者が来れた時点で、六割くらい目標を達成できているのかもしれない。千里の作り笑い笑顔よりも、はるかにいまの屈託のない笑顔の方が美しいと思った。


 ホテルは、風岡、日比野、影浦の三名が同じ部屋だ。広くはないが、観光用のホテルなのか、はたまた海外だからか、装飾が豪華に感じた。

 本当は、散歩にでも行きたい気分だったが、すでに時刻は21時。時差による感覚のズレでよく分からないが、とりあえず、明日のためにも早めに寝る方が賢明かと感じた。


 ひょっとして日比野が千里と逢うのか、少し気に何なったが、それはなかった。

 風岡がそれとなく聞いたが、日比野は、

「敵に塩を送ったのは、桃原さんが決勝に上がるまで。決勝では、お互いガチンコ対決だから、そんなことしないよ」

 と言った。日比野が『ガチンコ』という言葉を使うのもミスマッチに感じた。風岡は、

「いや、そうかもしれないが、ひょっとして五郎ちゃんが桃原千里に恋しているんじゃないか、って思ってさ」

 と茶化す。この期において、こう茶化せるのは、風岡の人間性のせるわざかもしれない。

「な!? いまはチームのためにそんな逢引あいびきなどしない。これ以上の裏切り行為は、不徳の致すところで、俺の良心にもとる」と、急に文語的な口調になり、日比野の動揺っぷりを示唆している。しかも否定していないところ、図星かもしれない。

 影浦は茶化すことはできない。かと言ってその恋を邪魔することもできない。誰だって、人を好きになる権利はあるのだ。そして、それは幸せなことだと思う。


 そう、もし決勝で敗北すれば、影浦は恋人である優梨を失う。守るべき大切な存在を失うのだ。仮にお望みの大学に行けたとしても、将来をほぼ約束されたようなレールに乗れるとしても、大切な人を失う辛さを補填することはできない、と思うのは、影浦の人生経験が浅はかだからだろうか。

 影浦は解離性同一性障害を患っていた。結果としていまや過去形のものになったと思われるが、交代人格の『夕夜』亡き現在いまも、彼のたぐいまれな明晰な頭脳は『瑛』にしっかりと遺していった。

 優梨は、かつて「最初はあなたの病気を知りたくて近付いたけど、少しずつ瑛くんと夕夜くんも含めて、その人柄が好きになったのよ」と言ってくれた。それまで、自分に対しては、『多重人格』の物珍しさに好き者が話しかけるか、もしくは得体の知れない精神病患者として腫れ物に触るように扱われるか、どちらかだった。優梨は最初こそ典型的な前者かと思ったが、そうではなかった。最終的に、荒々しい『夕夜』も含めて、影浦という人物を好きになってくれた。

 高校二年生の事件を契機に親密になった優梨と陽花、それから高校一年生のクラスメイトの風岡は、特異な影浦のパーソナリティーを『個性』として包容してくれた。そんなかけがえないのない仲間たちを、決勝で敗北することによって失われてしまうような気がしていて嫌だ。恋人の優梨、それから陽花と風岡、それから『知力甲子園』を通じて親密になった日比野は、影浦にとってかけがえのない存在だ。


 それを『大学進学』を餌に卑怯な取り引きを持ちかける、バイ一族の策略には乗りたくはない。それを回避する手段は明確だ。

 いざモンテカルロの決勝の舞台へ。既に、弔い合戦は始まっている。

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